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[041] 規格

ブラウザとかけて、子育てととく、そのココロは「甘やかすと後がたいへん」。

最近つくづくそう思う。Ridual Version1.0(V1)の開発を進めていて、色々なページを解析している。ブラウザで如何に見えようと、Ridualはお構いなく冷淡に解析をする。解析エンジンはJavaに搭載されているHTMLパーサ。このパーサが判断できない記述方法には対応のしようがない。

Ridualで既存サイトを解析すると、ウンザリするほどエラーメッセージが表示されるのが常だ。単純なもので言えば、最初のHTMLタグがないものから、最後の/HTMLタグよりも後ろに様々な情報が記述されている場合、レイアウト上デザイナには常識的な方法であっても、HTML仕様書上は推奨していない記述方法まで、原因は様々だ。

それでも、多くのサイトは、特にIEを用いれば「正しく」表示される。余り他社の落ち度を胸を張って指摘できる立場にはないが、名だたる企業のサイトで、このような「ブラウザによっては見える(ブラウザによっては見えない)」状況が発生している。自戒を込めて書くが、ブラウザ依存の検証は、基本中の基本ではあるが中々浸透していない。

それでもそのサイトを見せたい大方の人に見えれば良いというのであれば、その目的は事実上達成しているのだろう。しかし、それで良いのか、という疑問が頭から離れない。先ずは、なんのためのブラウザだろうという疑問。それから、そのサイトの情報の二次利用を考えた場合の疑問。

最初のブラウザとは何ぞや論は、「大勢に見えれば良いじゃないか」派に余りに逃げ腰なのが現状だ。だが、最初にブラウザに出会ったときの感動を何故そうも簡単に忘れられるのかと聞きたくなる。今まで図書館なりに行かなくては接することが出来なかった情報に、マシンさえあればアクセスできるようにしてくれたのがブラウザである。その恩も忘れて好き勝手に書いて良いじゃないか、というのは少し解せない。HTMLの基本も調べず、ただ「あるブラウザ」で表示できて動いたから、それで良しとする風潮には、どこか危険な香りがする。独りよがりの匂い。ブラウザによって表示できないというクレームが来たときに、「そんなブラウザ使うなよ」とバッサリと切り捨てかねない流れ。自分達は出来得る限り自由に情報にアクセスしたいのに、他者には特定の方法を強いる態度。最初の「ブラウザ」との出会いに限りなく異質な香り。楽だし、正直言って魅惑的だが、理想からかけ離れた境地。

次の再利用に関しての問題は、Ridualでの問題でもある。Ridualは新規サイト開発から既存サイトの解析までを縄張りにしている。それは螺旋階段的に開発を進める上で必須だった訳だが、これには前述のようにHTMLを何らかの方法で解析することが必要になる。ここで問題が出る。正しいHTMLに出会わない。勿論、この「正しい」というのも、ここでは実際はJava搭載のHTMLパーサの仕様に合っているかどうかという意味でしかない。しかし、HTMLの解析モジュールを自前で開発することはコスト的に許されない。だからRidualは、フリーで提供されているモノを使った。ここで、HTMLの解析のレベル(?)が、ブラウザとパーサーとでまさに雲泥の差ほどの開きがある。

パーサは駄目なものは駄目だとはっきりと言う。ブラウザのように善意で解釈してくれない。書き込まれたHTMLを見て、たぶん作者はこんなことを記述したかったんだろうと判断はつきそうなものでも、ルール違反ですとお役所みたいに突っ返す。今までワガママが自由にきいていた環境から、お目付け役にガードされた「不自由な」環境に追いやられたような気さえする。しかし、ワガママ放題の子は一朝一夕では直らない。まさに子育てと同じ。

一生涯、我が道を行き、他の人と協業しないのであればそれでも良い。サイトのライフサイクルの間、特定のブラウザにしか見られない、他のブラウザのユーザからのビジネスチャンスを捨ててしまうという覚悟があるならそれでも良い。一度作成した情報の塊を他のツールで再利用する気など持たないのならそれでも良い。毎回毎回同じような情報を、同じようなコストをかけて作り直して行けるならそのままでも良い。しかし、人もページもそんな風には生きていけない。

人であればどこかで集団に属する。自分の価値観だけで通用しない世界に接する場面がいつか来る。サイトであれば、リニューアルの時期は必ず来る。リニューアルの来ないサイトは既に死んでいる。キャンペーンや生産終了した製品の情報などを除いて、ある程度の情報は再利用したい。たとえそれがサイトのボリューム感をつけるためだけであっても、ゼロから作り直すのは手間と時間がかかる。勿論コピー&ペーストも可能だが、プログラムが書けるならもっと効率の良い方法があるはずだ。その時に、それまでどの様に作られてきたかが問われる。どのような人の手を通して来たかが問われる。どのようなポリシーで守られてきたかが問われる。

規格や標準を軽視してきた作られたサイトは、外見は良くても中身はボロボロで廃人のようだ。ソースを眺めて、同情さえしてしまう。逆にそれらに配慮しているサイトのソースは見てきて気持ち良い。私のコーディング技術はたいしたことはないが、それでも美しいコードは直感的に分かるものだ。そういうサイトは、開発も、すんなりと進めたかは分からないが、活気ある状態でゴールを迎えたことを予想させる。ノッてたんだろうな、と想える。

思えば数年前、ブラウザの覇権を巡って、熾烈な戦いがあった。結果的に切磋琢磨はしたけれど、あのブラウザ戦争はなんだったのだろう。誰が何の得したのだろう。表現力を手にすることと引き換えに、もっと大切なモノを失った気がする。

世界中の九割が一つのブラウザをたとえ使ったとしても、残り一割の中に様々な個性的なブラウザがひしめく。「万人」に情報提供を行うことを主目的にした場合、この九割のユーザではなく、一割への対応策が大きな壁となる。当時こういう事態に落ちることを予想して、我々は表現力を求め続けていたのだろうか。Webデザイナは、幾つかのサイト構築の責任を負うだけでなく、ブラウザ社会の動向を左右する力と責任とを持っていたのだと後で知らされている。現在のブラウザ依存の壁を見越して、もっと「規格」を意識できたなら、もっとスタイルシート時代への移行を考慮した規格作りをできたなら、今は恐らく違った世界になっていただろう。

そして今、当時の表現力に関する競争の時代から、タブ付であるかという操作性、ページレンダリングの速度、ブラウザ自体の軽さ、対ウイルス堅牢性等、評価軸はその重心をずらしてきている。結果として万人向けでないページは、更に大きな足枷になっている。

Ridualでも、HTMLチェッカーのように、どこでどんなHTMLエラーが出るかを出力してはどうかと、開発エンジニアと協議したことがある。彼は一言で片付けた。「正確なHTMLのページは存在しないのだから、エラーを出すだけ無駄だ」。殆ど全てのファイルにエラーが表示されるのであれば確かに無駄だ。ごもっとも。返す言葉がない。でもなんだか無性に哀しい。

砂上の楼閣、そんな言葉が頭をよぎる。なんて不安定なものの上に、強大な情報網がのっかっているのだろう。もう少し賢くありたい。

以上。/mitsui