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[050] ライフライン

遥か昔に読んで今尚心から離れない文書や絵がある。マンガばかり読んでいた高校生の頃に出会った坂口尚は今でも特別な存在だ。彼の作品はマンガというよりも、詩に近い。若くしてこの世を去ったが、今でも彼の新作を無性に読みたくなる。

代表作と言っても良いだろう作品に「12色物語」という短編集がある。12色をモチーフにした12編の詩のような作品集。中でも一番「彼らしい」作品が「朝凪」かもしれない。晩年彼はこの「彼らしい」というイメージと格闘していたような気もするので、本人にとっての代表作かどうかは分からない。でも何かを見つめる「眼差し」の彼の根底がここに描かれている。

余命少ない物乞いの老人が老犬と共に小さな観光町に辿りつく。人々は老人の姿に死を感じとり、不快とし、それを態度に現す。老人はどこにいても疎まれる。主人公の少年は悪ガキ達と老人をからかいもするが、次第にその「生」に興味を持つ。ある日、少年は老人と言葉を交わす。「お爺さん...さみしくないの...」と、問う少年に老人は静かに応える。

「うむ...ぜんぜんとはいわんがね....
でも...だれもが、みんなさみしいんだ...
そのことを知っているし...
だから、そのことに安心しているわけじゃない....みんな必死なんだ
必死になっているのはとても好きだよ...
必死になれないのは、さみしさを知らない人間なんだ
ほんとうの孤独を知らない、孤独を見すえられないんだと思うよ...
わしは....みんなが小さな暗がりをかかえて死に向かって歩んでいくのを想うとそら恐ろしさやむなしさより
なんだか知れない巨(おお)きな力を感じる...
不思議な...そう...その不思議な力はどこかずっと遠いところから発していて人の中に入ると、その人自身の力をゆするように、そして今度は自分の中でからだのすみずみの力を出しきって何かを全力でやろうという力にふくらんでいく。
一生の時間に何ができるか....いや!どれだけできるか考えるんだ。
そんなふうに考えたら、もうジッとしていられなくなるよ...
毎日毎日ぼんやりしていられなくなる...」
坂口尚/12色物語/朝凪

独り言のような、会話のような、ぼそぼそと話す間合いさえ感じさせつつ、この台詞は描かれている。「必死さ」と「さびしさ」。対比したことさえなかった言葉はそれ以降私の心の中で対になって結び付けられた。

それから頑張っている人たちに出会うと、華やかな部分よりも、その孤独の克服の仕方、その孤高の道を感じるようになった。華やかな舞台の裏にある地道な生き方、そんなものが「支え」になっているのを感じる。甲子園でも、マウンドに立つ雄姿より、そこに至る苦労話の方が好きだ。

そして人が頑張っている姿を、自分の支えにしていけることになる。その人と自分とは何の関係もない、赤の他人。でもその人の流す汗や涙や言葉や結果が、心を揺らす。落ち込んでいるとき、もう少し頑張ってみようと背中を押される。辛くなったときに、本当の辛さはこんなもんじゃないんだと先を見つめる勇気を貰う。逃げ出したくなるときに、もう少し踏みとどまる気にさせられる。八方ふさがりに感じるときに違う角度から問題を見つめ直す冷静さを与えられる。それらを「元気をもらう」と表現する。もっと適切な言葉があるのかも知れない。でも他に簡潔に言えない。

元気をもらえる相手は様々だ。年齢層も様々だ。一番身近では、自分の子供だろうか。赤ん坊の頃、私の指を握る姿にさえ、立ち上がろうと悪戦苦闘している姿でさえ。今や反抗期で睨み返すようになってしまった息子でさえ、最初の言葉を発する姿は忘れられない。いや、親ばかではなく、その努力する姿が。街中ですれ違うお爺さんから貰うときもある。杖をつきつつ一歩ずつゆっくりと歩を進める後姿は見つめているとジーンと来る。さぁ自分のこと頑張ろ、と想いおこす。

Webの世界がこんなに好きになってしまったのも、実は同じことなのかも知れない。パソコン通信からWebに移る間にも、様々な見知らぬ人々のドラマを感じてきた。この人いつ仕事しているんだろう。家庭は大丈夫か。この熱意はなんだろう。打ち込めるテーマを見つけて、そんな風に感じてしまう無名の巨匠達は当時からたくさんいた。そんなドラマが現実の姿を現したのは96年あたりからか。幾つかの熱意の塊のようなサイトが封鎖に追い込まれていく。最後の情報更新の画面で、好きでたまらないし、続けたくてたまらないけれど、家族のことを考えて、家族との時間を考えて、一旦封鎖します、と無念とも後悔とも取れる文書が掲載された。読んでいても辛い。今のように正月や盆休みには更新を控えるような時代ではなかった。生活の時間を無視した、何か社会的切れ目の時には何が何でも最新情報を提供するのが礼儀であるかのように思われていた時でもあった。日曜であろうが祭日であろうが、○月1日にオープンすると決めたなら、関係者以外そんな時間に見に行く訳もないのに、その日の深夜0:00のオープンを目指した。終電がなくなるのも分かっていたのに。

年をとったと感じてしまうけれど、頑張っているサイトを見るたびにそんな情景を思い出すのかもしれない。この頑張っているサイト作りの裏側に潜む苦労、そんなものを勝手に想像する。でも、当時よりも最近の頑張りサイトはもう少し軽やかには感じる。でも頑張っているには違いない。何かを我慢して、何かを犠牲にして、そして何か別の収穫を得ているから続いているはずだ。

Webが純粋に情報やコンテンツの流れだけを見せてくれるだけものだとしたら、こんなにハマッてしまっただろうか。優れたコンテンツを見るたびに、私はその作り手を想像する。例えば各賞を総なめした「カムカムタイム」。デザインや動きを見つめるよりも、これを開発しているときのチームを想像するのは私だけだろうか。絶対苦しくも楽しい快活な開発現場だったに違いない。想像するだけで羨ましい。そんな目に見えていない部分を感じ取るアンテナって実は結構多くの人の中に備わっているのではないだろうか。だからこんなに短期間にWebは広まったんじゃないだろうか。大変そうだ、でも楽しそうだぞ、こいつら凄ぇぞ。やってみようかなぁ。

Webは元気をつなげている網のようにも感じる。しかもその元気は自律的だ。だれかに強制されている訳でも義務でもない。元気さが増すときもあれば減じるときもある。でもそれらが複数ある。山ほどある。1つがくすむ時、他のサイトが輝きを増す。輝きは長続きしないかもしれないが、なにか目に見えないリンクで元気は伝播する。消えかかったサイトも時に復活する。それが全て作者の想いで動いている。だから企業サイトは輝かない。自律的に作られていないからだ。どんな苦労も苦労と感じない責任者の意思がない限り、他人からは元気には見えない。だから現場に権限を与えて自律的な状態にしたサイトだけが、企業色を抑えて、担当者の色で輝きだす。その輝く元気は伝播することなんて計算していない。打算などない、ただ輝きたいから輝いている。そのサイトのテーマが好きでたまらないから、虜にされる程魅入られているから輝こうとする。訪問者はそうした輝きを感じ取れるセンサーを備えている。自分の中の眠っている元気が揺さぶられる。おい、しぼんでいる場合じゃないぞ、と囁く。落ち込んでいるときには忘れがちだけど、元気でいるほうが気分がいい。それに元気でいたいじゃないか、誰だって。

もちろんWebは元気だけを運ぶわけじゃない。負の要素もいっぱい運ぶ、しかも速く。ネット絡みのニュースを見るたびにため息をつくことが増えた。でも負の要素はネットじゃなくても広がる。いいニュース聞かなくなったね、と挨拶のように会話する毎日が続いている。新聞などのメディアは紙面という限界がある。だから情報は間引かざるを得ない。より伝えるべきだと判断したコンテンツを集めると気のめいる紙面が出来上がる。メディアのせいではない。でもネットは広大だ。いい話も悪い話も、それなりにアンテナを張っていれば引っかかる。最近の暗い話題の続く中、私はネットに救われたことは数知れない。ネットがなかったらもっと落ち込んでいただろう。もっと元気を失っていただろう。良いものも、元気も伝えてくれるパイプがあることに感謝している。

情報以上の何かを伝えられる世界に属していることを誇りに思う。感動に巡りあう度に、あー逃げ出さなくて良かったと思う。元気を貰うたびに、次を夢見れる。そんな手があったのか、唸らせられる。まだまだやれることがある。まだまだやりたいことがある。

誰かが、見知らぬ誰かが必死になっている姿を見られること。ネットがライフラインになりつつある、もう一つの理由かもしれない。

以上。/mitsui

ps.
Ridualの販売開始を控えて、頭が廻らない日々が続いています。このコラム、なんとか50回続けることができました。さすがに、ねた切れの感も。先日、日曜深夜にしこしこと寝ぼけ眼で書き綴っていたら、小6の息子がやって来て、「もう寝な」とのたまう。2回も。そのぶっきらぼうな気遣いが、ちょっとこたえる。さすがに限界かもしれない。販売が落ち着くまで、少しお休みを頂かせてください。m(_ _)m
このところセミナーなどの場で、読者ですと声をかけられることが増えました。元気をあげるなどという思い上りは決してなく、自分の思いだけを綴って来ました。読んでくれた方に感謝しています。ありがとうございました。再見。