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24時間Illustrator「愛(Ai)はクリエイティブを救う」

[054] プレゼン

プレゼンテーション。最初に、これから話すべきことを簡潔にリスト表示する。自己紹介と謝辞をいう。聞く人の目を見て、早口にならないようにゆっくりと話す。資料は、レイアウト的にも色彩的にも見やすくし、全ページ数も表示し、今が全体のどの辺りにいるのかを暗示させる。終了時には自分へのアクセス方法を示し、今後に繋げる。

最初の会社ではほぼこの様に教わった。外資系であり、外人講師がやるとカッコイイと思うものの自分がやっても、ちっともサマにならなかった記憶がある。当時プレゼンを行なう方々は皆雲の上の方々ばかりだった。

道を踏み外し始めたのは、幕張で行なわれるようなEXPO的な大きな展示会に行き始めた頃からか。いわゆる「ウケ」の部分への関心が高まっていった。自分の中で「プレゼン」の定義が、「適切な情報を適切に手渡しする場」から「情報以上のモノのやり取りの場」に徐々に変わっていった。

それまでは、「礼儀」という部分にかなりウエイトを置いていた気がする。しかもプレゼンされる内容は「上」から示されるような権威をもった情報だった。話す側にも聞く側にも漠然としたこの共通意識があった。プレゼンする側も緊張して、とにかく正しく情報を伝えることに終始していた。それが礼儀であり、正しいプレゼンだと信じていた。

それが徐々に変わっていく、違う世界が見えてきた。与えられた時間をどう「有意義に過ごしてもらえるか」、それがテーマに変わりつつある。楽しんでプレゼンしたいし、楽しんで「参加」して欲しい。一緒にいる時間が忘れられない瞬間になって欲しい。俗に言うと「ショー」化しているのかもしれない。

90年代後半の幕張はそんなプレゼンの発祥地かもしれない。今のように各社独自が行なうプライベートセミナーは余りない時代、殆ど全ての大きなベンダーは集結し、喉を腫らしてプレゼン合戦をした。数万人が往来する大通りで数分間立ち止まってもらう、そこに腕の見せ場があった。金持ち企業は女性を派手な衣装でズラーッと並べたが、そこにもプレゼンで勝てるかという挑戦。

お話だけでは客は飽きてしまう。発表する製品自体もビジュアル的な仕掛けが多かったので、視覚的効果は計算されて使われた。デモの手際も評価の対象だった。大会場で時間に追われながら行なうことは、正直言ってデモを行なう場としては不適切だ。実際の使われる現場ともかけ離れている。でもそこでも見せる、魅せることができるという点が、その商品の実力とも思われた。

文字入力をするときに、「あ」と打つだけで「赤坂何丁目」のような変換を仕込んでおくようなTipsから、料理番組のように「流れ」を説明して仕掛けるところまで見せて、予め用意しておいた完成品を見せるというのも流行った。あえて、その場でやってみせるツワモノもいた。冷静に見れば、その製品の新機能として、できて当たり前ことが目の前でできたことに対して、演じる側も見る側も拍手をした。

有名なプレゼンテータがいた。A氏。彼の話を聞きに行くのが目的だったこともある。技術的な新しい話を期待しないで出向いたときもある。彼の視点と話し口を体験したかった。正直に言えば、技術的にはアヤフヤな発言は多かった。しかし、それで問題はなかった。技術畑の人間で無いことは殆どの人が知っていたし、初心者レベルのことでも彼がやろうものなら、こちらがドキドキしたものだ。何故それで「問題がない」のか。彼は誤った情報を示したと分かったら、きっちりと謝ったからだと思う。礼儀も正確さも吹っ飛んで納得した。会場から出るときに私が持って帰ってきたものは、情報ではなく熱意に近いものだった。

Webの情報氾濫は当時よりも強まった。しかし、大抵の情報がネットに落ちているという常識も同時に形成した。その状況でわざわざ足を運んで情報に接する目的は何だろう。ショー化したプレゼンはそれを先取りしていた気がする。印象に残らないプレゼンを見に行くのは、時間の無駄だろう。但しその印象を生むメカニズムに個人差がある。Tipsで満足する人もいれば、情報源URLを取得できれば良しという人もいる。有名人の声を聞くことで満足する人もいて、千差万別。でも不思議と、「印象に残ったのは?」と聞くと、結構「本当に良い」モノが上位に来る気がする。

あとで、そのA氏の逸話を聞いた。担当するプレゼンの練習にどれほどの時間を割いたか。社長自らが前に座った会議室。何度も何度もリハーサルをしたそうだ。社長曰く「俺を納得させられないで、客を納得させられるか」。愛想笑いにも見えた笑顔の裏に努力が蓄積されていた。だからこそ、外人のやる「レディース、アンド...」の格好よいだけのプレゼンよりも遥かに記憶に残るプレゼンだったのだ。

最近、プレゼンの流れは変わってきている。誰もがPowerPointを使うようになってからプレゼンコンテンツの平均的「質」は明らかに下落した。どう考えても読めない量の情報を5秒しか見せない画面に押し込める。テンプレートの概念も無視され、ページごとに企業ロゴの場所が左右に揺れ、タイトルの位置も文字体も統一感が無い。

デモ機がフリーズする頻度は以前同様レベルだと思うが、プレゼンテータが固まってしまう頻度は異常に高くなった。「あれ、どうしたのかなぁ」のつぶやき連続攻撃や、沈黙しての復旧作業。そこが壇上である意識がまるでない。機械ではなく人間が行なっている理由に、アドリブができるという点も入っているだろうに。聞いている側の人間の醒める速度が読めていない。

自分のプレゼン能力も高くは無いので責める立場には無いが、(私的には)A氏を中心として築かれてきたプレゼンノウハウが断絶の憂き目に会っているように感じる。当時の観客への配慮やオモテナシや敬意が希薄になって来ているように思うのは私だけではないだろう。

更に、最近はプレゼンする場面も多様化してきている。機能を見せる場面だけでなく、プログラムコードを見せる場面も増えてきた。しかし、これは会場とかインフラも遅れている。縦長の会場では、数十行のコードを前列の人からから最後列の人までキチンと見せるには、常識的に言って無理がある。しかも、演じる側も何(コード紹介か機能紹介か...)をメインにするのかを告知しない場合もある。観客は好きな期待を抱いてプレゼンを見て、満足する人もいれば、裏切られたと思う人もいる。

会議のような場でも、文字情報ならファイル共有をしている限りあとでじっくり読める。それを作者に朗読させる意味は何だろう。棒読みならば多分無意味だ。読んでも分からない部分を補ったり、読むこと自体を省略できなくては、本末転倒だ。でも、それができるための条件もある。数十ページの計画書を5分で説明しろといっても、それは無理。それがしたいなら聞く側との相当の共通意識がないとできる訳が無い。でもそんな要求も稀ではない。じゃあ、伝えるべきモノは何だろう。

最近熱い方々のプレゼンに接する機会が増えていて、プレゼンそのものをもう一度考えさせられている。資料は何の変哲もない数ページなのに、感動してしまう、唸ってしまう時がある。別に顔を真っ赤にして熱弁奮っていないのに、何かジンジンと響いてくる。言葉にできないけれど、プレゼン資料には載せ切れない情報がある。それがプレゼンの根っ子なのか。

Webが情報配信/受信の仕組みである以上、その発展は従来のそれに影響を与える。人対人というプレゼンの領域にも影響を与えても不思議ではない。どんな情報がプレゼンする価値があるのかという根底から、熱意のような計測不可能なものまで含めて、地殻変動が起こっている。eラーニングが当たり前の世の中が来る前に、足元を見つめてみるのも面白い。

以上。/mitsui