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[056] ネットは魔界か?

2004年6月佐世保。また忘れてはいけないことが起こってしまった。小学生が自分の同級生に刃物を向ける。まだまだ良く分からないことが多いので直接的に問題として取上げることは避けたい。驚きや悲しさや様々な想いが、この一ヶ月間頭の中をグルグルと回っている。どう整理すべきなのか、頭が拒否しているようにも感じる。理由は一つ。我が子が被害者にも加害者にも、なって不思議でないと感じているからだ。我が子に限ってなどとは夢にも思っていない。

我家には、中一(12)と小五(11)の子供がいる。さしたる問題児ではない。事件を報じる新聞の一面の見出しを見て、二人ともが絶句した。当然ながら、この問題は家族で話し合った。別に結論が出る訳じゃない。原因探しをしている訳ではない。こんなことが起こってしまった今の日本をどう思うかを、それぞれから話す。日頃から議論できるように育てて来ていないせいもあって、教科書的な答えや、当事者固有の問題のような意見が多かった。学校での取上げ方も聞いたが、担任の個性がそれぞれ出ている程度にしか感じない。でも教育の現場の混乱は伝わってくる。

普通に入手できる情報には目を通すようにしている。様々な意見があるが、この問題の本質を深く考えている人達には一つの共通概念があるように思う。それは、普通に育ち普通に遊んでいけた子供が、こうした道に進んでしまったことに対して自分自身を責めているような部分だ。原因探しをして、防止に努めるのも勿論大切だ。けれど、その前に、何故救えなかったのか、何故押し留められなかったのか。直接当事者達に接することができない人達でも悔しく思っている人達が沢山いる。実際に何かできた訳ではない。距離的にも離れている。しかし、「子供たち」に何かしらできたのではないのか。当事者や社会を語る前に、自分に向き合っている人達がいる。

子供の問題は大きい。自分の子供たちが10代になる前あたりから、「子育て」の大変さを改めて感じている。子供が加害者になる事件も増えたが、親がその子に対する加害者になる事件も増えた。報道のたびに、「親らしさ」も問われる。子供を持つ資格といった観点でも話される。背筋を正さないと読めない話が多い。しかし、敢えて反論すると、親もある日突然「親」になる訳ではない。子供と一緒に育っている。様々な取るに足りないような会話を重ねる中で、親の自覚が生まれ、親としてすべきこと、してはならないことが心に芽生えてくる。そして、それには時間がとても必要だ。けれど、そうした時間を待ってくれる程、今の社会はゆっくりと進んでいない。

子供たちと接する時間を取るように頑張っている。頑張らないとそもそも時間が取れないし、時間をとったからといって、タスク管理表でチェックしていくようには問題は解決されない。正直「面倒くさい事」だし、誰かがやってくれたら嬉しいとさえ感じてしまう事柄だ。仕事の管理の仕方は通じない。答えが見えているのに、自分の血を分けた子が気がついてもくれないというイライラは、情けなくも感じる。答えを示しても、それはその子にとって「答え」にはならなかったりする。本人が気付くこと自体が「答え」だったりもする。勿論、逆に教わる事だって山のようにある。自分が教える立場にあるなんて奢りは通用しない。

充分なコミュニケーションをとっているとは言えない我家だが、一つ気がついたことがある。子供が望むことは昔から変わっていない。「私の話を聞いて」、「私と真正面から向き合って」という点だ。とことん付き合う、これが求められている。そう、昔ガクラン着ていた頃に自分自身が「大人」に求めてたことだ。必死に自己主張する我が子の姿は、そのまま当時の自分の姿だ。自分の経てきた道を、我が子が少し違った角度で通っていると感じるのは、中々感慨深い。そして、向き合えたと感じられる時間が共有できたとき、子供達は何かしら晴れ晴れしい顔をしている。

キチンと向かいあって会話をすることは難しい。ただ話をしたり、説教することの数倍のエネルギーが必要だ。口は一つでも持て余すのに、耳は二つあっても尚足りない。でも互いが「聞く」という姿勢を保つことの大切さは、今の時代特に大切だと日々感じさせられている。聞くには聞く側の忍耐も必要だし、話す側の勇気も要る。しかし、子供達の友達と話していても、彼らが本音を語りがっているのは感じる。誰も想いを心の奥底にしまいこんだまま進めない。王様の耳はロバの耳と叫べる「穴」が必要だ。親や大人は時として、そんな役を担わなくてはならない。しかも喜んで(ここが唯一無二の「その子の親」という立場に置かせて貰っている醍醐味だ)。

ネットの影響が語られる。ネットに書き込む傾向が問題になっている。ネットという「特殊な環境」が子供たちに何を与えているかという論点もよく目にする。そんな「仮想」の世界ではなくて「リアル」な世界の体験を優先しろと指導もされる。しかし私には違和感がある。

ネットで語られる言葉は、「リアル」ではないのだろうか。書き込みする者も、それを読む者も、実在しないのか。「ヴァーチャル」という言葉を拡大解釈して、あたかも現実社会で起きていないような事柄だと考えるのは、旧人類だけじゃないのか。悪口を言う者も、それを読む者も、既に実在している。なのに、それにフタをして奇麗事を言っている気がしてならない。「ネットの世界では皆がオカシクなるのだから、本気で接する必要はない。そんなことは放っておいて、リアルのことに専念しなさい」って、何か変じゃないか?

これは、まさに子供たちが忌み嫌う姿勢でもある。「タテマエ」や「取り繕い」に対する嫌悪感は、多感な子供達には大きい。目の前に見えている問題を直視せず、立場や習慣で処理することに怒りを感じるのは、今も昔も多分変わりない。変わってきたのは、その怒りの出し方だ。

ネットのなかった昔は、衝突した事柄に対抗するには、何かしら直接対決せざるを得ない状況にあった。でも今は選択肢が増えた。直接対峙するのは疲れる。そのエネルギーを、違う方向に向けることで、ウップンを晴らすことができる。例えば、ネットに書き散らすことだ。書いたり、話すことは、自分の中にある「何か」を吐き出すことであり、その「排泄」の効果は精神に影響する。理論上世界中の人が読める場所に書き散らすことは、沈黙の同意者が自分を取り囲んでいるかのような錯覚にも浸れる。「リアル」ではないというイイワケが、様々なブレーキを取り外し暴走し、暴走していることすら自覚できない。何に対して怒りを持っていたのかも、何から逃避しているのかさえ、見えなくなる。

更にネットを「はけ口」にすることを危険にしているのが、ネットの世界に「大人」が少ないことだ。ネット時代が一般的に幕開けして余りに歴史が浅い。経験則が成立していない。どうコミュニケーションしていいのか誰も見本を見せられない。しかし、大人は少ないだけだ、いない訳ではない。

私は個人的なことでも仕事でも、ネット上でよく「喧嘩」をする。全然大人じゃない。とことん話を詰めたいし、できるだけ端的に書くので、表現が強く、誤解も多いらしい。挨拶文も嫌いだし、書面と同じフォーマットでメールをやり取りする気持ちも端から理解できない。戦歴は人より多いだろう。後悔する事も、謝る事も多いが、和解に至ることも多い。

ネットのやりとりで、私は一つのルールを決めている、「ネットで起こした喧嘩はネット上で解決すること」。最終段階を越えない限りネットに踏みとどまることにしている。メールでもめた事柄を、「メールでは議論が発散するので、今度呑みに行きましょう」というソリューションはナンセンスだ。その場やその人との関係は良好化するだろうが、それでは解決になっていない。それは問題を先送りにするだけで次回への教訓もない。その場しのぎは「解」ではない。私はその時議論している事を解決したいだけでなく、ネットでの「よりよいコミュニケーション」の仕方を習得したい。ネットが、本音で語り合える場になることを願っている。

子供たちも、本音を言える場所を探して、ネットに行き着いたのではないだろうか。現実社会では言えない事を語れる場、逆に言えば、それ程子供たちの心の中に何かを叫びたい衝動があるのではないか。だとしたら、問題なのはネットではなく、現実社会だ。言いたいことが聞いて貰えない社会。大人でもそう感じている。子供たちが真っ先に純粋に反応しても不思議ではない。

先日、英教育研究所が子供のネット教育についてコメントを発表した。「子どもにチャットルームや電子メールの利用を一切禁止しても、ふさわしいインターネットの使い方について何ら教えることにはならず、むしろ将来的に直面する危険に対して無防備な状態を生み出すだけになる(Rebekah Willett氏)」。これは実は年齢的な子供についてのみ話しているのではないように読める。氏の指摘する「子ども」とは、我々大人のことではないのか。
ref) http://pcweb.mycom.co.jp/news/2004/06/08/004.html

人の命の重みを説きながら、高校生が殺しあう映画の縦看板が校門の横に立てられる。そうした映画が大きな話題になる。規則を破ったら根掘り葉掘り様々なことが聞かれるのに、大儀の説明もなく爆弾が落とされる。子供たちは馬鹿ではない。そんな矛盾には気がついている。そして、自分でも気が付かない心の奥で何かしらのイライラやモヤモヤが蓄積されている。ネットが魔界なのではない、現実が魔界なのだ。今ネットは現実魔界の排泄物を一手に引き受けているようなものだと捉えるべきではないだろうか。そう、憎悪も悪意も全て。根底に存在している善意とかが霞んで見えなくなるほどに。

人は人とコミュニケーションしなければ生きていけない。そして、人と人との交流の場では衝突も避けられない。様々な価値観があり、様々な人がいるのだから。しかし、その衝突を最小化する知恵はあるはずだ。その希望は捨てたくない。そのためには「上手に衝突する」しかない。衝突を避けるだけでは、知恵は育たない。そして、その知恵を子供たちにバトン渡ししてあげたい。

仕事を無理やり打ち切って、子供の寝る前に家に辿りつき、たわいない、本当に他愛無い会話をしながら想う、「何かできる」と、「何かしなきゃ」と。

以上。/mitsui