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[059] (Vision)

仕事に火が付くと、子供の顔すら見れない日が続く。平日はしかたがないか、と多少の諦めもするが、週末も会えなくなると辛さが増す。私がクタクタで起きてこれない場合もある。成長している子供たちは、その活動範囲も広がっているので、私が家にいても彼らが忙しい時だってある。

子供は私の中で。「生活」の象徴だ。子離れ/親離れとかの議論のレベルではなく、同じ屋根の下に住む者を意識することを生活だと思っている。残念ながらその対極にあるのが「仕事」である。その隔たりはかすかに縮まった程度で、まだまだ大きい。

クタクタで、ボーッとした頭で電車に乗る。何のためにこんなに頑張っているのだろうという想いが心の片隅をよぎる。仕事のために生きているのか。それでも、パソコンを前にすると、ガムシャラに進む。進むしかない。

もっと楽に稼げないのだろうか。やはり時々思う。このままで大丈夫なのか。心配にもなる。体力的な意味でもそうだが、我家が周期的に陥る父親不在の状態にも不安が絡みつく。「生活」をどこまで犠牲にして良いのか。

「楽さ」に憧れを持ち始めたら、思い出す人が私にはいる。私は「転職組」なので、様々な上司に出会っている。その一人は、客先に一緒に行く電車の中で、当時はやっていた映画の原書を読み耽っていた。客先でのプレゼンでは、私しか話さない。彼はただ横にいた。帰りの電車も、彼は読書に励む。上司である以上、私より当然高給取りである。彼と直接的に上司/部下の関係でいたのは数ヶ月だったが、彼が何かを「生産」したのは見たことがなかった。

忙しくクタクタになっている状態のときに、彼を思い出す。別に彼を思い出すのは少し特異な点があるからであって、類似系には何人も会ってきている。凄く楽そうで、昔思い描いていた「幸せ」の構図そのもののように見える。

では、あれが「理想」なのか。優秀な部下に囲まれて、仕事は部下に任せっぱなし、素晴らしいクライアントに恵まれて、交渉時の苦労は何もない。朝早くからエライさん会議に出席して、沈黙を守る。判断はできるだけ避け、ワードやエクセルにデータを転記して、多少の概要を記述してイッチョ上がり。帰りがけにアマゾンで流行の洋書を発注して、時にはワインも。定時に帰宅し、子供たちと笑顔の夕飯(話を単純化したいので大幅に誇張)。

多少の妬みを持たない訳ではない。多少羨ましいと想う時だってある。でも、違うだろう。何かが違う。考えれば考えるほど、似合わない。自分のそんな姿を想像したら、ふき出してしまう。成立するとも思えない。そこに自分の喜びが一緒にあるように思えないのだ。楽かもしれないけれど、楽しそうじゃない。そう、自分が全然楽しそうじゃない。私にしか得られない報酬が見えない。

例えば、プロデューサ的な役割で、無理解なクライアントに振り回されているとする。その無理解さを嘆いてもしょうがない。その知恵がないから、私をプロとして雇っているのだ。それが誰にでも楽にできるなら、私である必要はない。自分達のサイトをどうすべきかを理解し自分で企画を進められるのであれば、他人に頼むこともない。議論が収束しないのは、議論のナビゲーションをしている私のスキル不足なのだ。だから議論がまとまり、方向性が決まったとき、誰よりも喜んでいるのは私だ。それが私への報酬なのだ。そしてそれは他の誰に与えても等価値な種類のものではない。私だからこそ喜べる唯一の報酬であることが多い。

労働力や労働時間に対する報酬を金銭的なものに求めるなら、Web屋は割が合わない職種に当たるだろう。求められるスキルが多岐に渡りすぎるし、想定される賃金相場が低い。企業とエンドユーザを結びつけるスキルは、一言で語られるような種類のものではない。まだまだ雇う側がその価値を正当に評価できていない時代なのかもしれない。

Web屋に身をおくものとして、自分が得ている報酬が正当かどうかは悩む。その報酬の大きさは、喜びの大きさと、生活を支えていく資本の二軸を持つ。喜びの大きさは仕事の規模感に比例する場合も多い、チームメンバとのコミュニケーションの質にも比例する。が、やはり生活できなくては話にならない。霞を喰って生きていく訳にはいかない。

何故、生活に支障が生じるか。経済的問題も無視できないが、時間という要因も大きい。「デザイン」と称せられる作業量を正確に見積もることができていない。例えば、DB提案をする際に、オラクルとサイベースとMySQLとその長短所を見極めたいから、ちょっと作ってみてくれるかと言われて、一所懸命作りこむシステム屋はいない。でもデザインは、ちょっと作ってみてくれで作業が発生する。赤を青に変えただけのバリエーションではない。デザインが緻密な情報デザインに根ざしたものであれば、そうそう発想は生れない。でも「やってよ」の一言で、担当者の幾晩かが消えていく。

こうした壁に対して、成功している(あまりこうした呼称は好まないが)大手のWeb屋は、事実上コンサルティングの色彩が強くなっている。自分達のやっていることの本質をクライアントに納得してもらっていくと言う方法だ。

しかし、そうした方法は誰もができる訳ではない。発言する前に、発言しても良いというステータスが求められると言う構造的壁にも突き当たる。

さらにもう一つの壁がある。現状を「常識」だと思う、諦める、「壁」である。クライアントととの交渉は長時間が当たり前でしょ。終電なんて関係ないでしょ。デザイナは寝ないで二案三案出すのが当たり前でしょ。Web屋が求めるほどクライアントは即決できないのは当たり前でしょ。二転三転しても、良いもの作るのが当たり前でしょ。疲労しきった頭からのアイデアは、品質と言う形でクライアントに被害を与えることも忘れて、現状追認はまかり通る。

聖書を学ぶと「幻のない民は滅びる」という言葉に出会う。「幻」は"vision"の訳である。信仰的色彩を除いて、分かり易く言えば、「現状で満足している人達は滅びる」と言っている。「大志を抱け」と肯定的に意訳しても良い。

Web屋が夕飯を子供と一緒に食べて何が悪い。ぐっすり寝て、映画も見て、アイデアの引き出しに蓄財しても悪い事はない。短時間でクライアントとのニーズが見極められる会議(形態)があっても不思議ではない。終電を逃してからでないと帰れない生活とはオサラバできる。誰もが言い切ることはできないが、幻に見ることは可能だ。

現状を追認するところからは、何も新しい状態は生れない。先日、午前様で帰り着いたら、中一の息子が置手紙をしていた。「水を冷やしておいたから飲んでね」。冷蔵庫の冷えたペットボトルが輝いて見えた。生活を犠牲にする現状を肯定する訳にはいかない。私はもっと息子と会話する必要がある、父として。

今、仕事に追われながら、本来の姿を夢想している。どんな仕事のやり方が理想なのか、それを諦めていないか、考えること自体諦めていないか。幻を見ない私は潰されるぞ、と言い聞かせながら。

以上。/mitsui