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24時間Illustrator「愛(Ai)はクリエイティブを救う」

[062] 叱る

最近子育てについて再び考え始めている。電車の中での「事件」が発端だった。

その親子は、一目見たときから、何か違和感を感じた。昔はシルバーシートと呼ばれていた端っこの一角に、母親二人と子供三人の恐らくは二家族が陣取っていた。電車はガラガラの状態で、別にその時点では迷惑でもなんでもない。少し声が大きいと感じる程度で、普通の親子連れだったけれど、ただ何となく、離れていた方がいいな、と直感した。

電車が動き始めて、直感が当たった。子供が走行中の電車の中を行ったり来たり走り出した。一両分丸々何度も何度も往復する。通る度に、まばらに座っている乗客が足をどける。幼稚園生の男の子。真っ直ぐにも走れない。本人に迷惑をかけているのが分かる年齢ではない。

近くの老夫婦が見かねて、声をかけた。危ないから走らないで。口調も厳しくない、おばあちゃんが優しく孫に声をかける感じ。子供は少しシュンとして席に戻る。途端に驚くべき反応が返って来た。「子供が走りたいんだから、いいだろう!」、とお母さんらしい女性の怒鳴り声。周りの誰もがギョッとした。

走行中の電車の中を幼稚園生が走り回っているのを見て、注意しない方がおかしい。声をかけなかった自分を私は少し恥じていた位だったが、そのお母さんは、自分の子供の自由が一番大事だと叫んでいた。

あろうことか、「子供が喜んで走るのは、当たり前だろうが! バ~カ!」と老婦人に向かって悪態をつく。30台半ばの女性が老婦人に、これほど直接的に喧嘩を売っているのは初めて見た。目と耳を疑う。「バ~カ!」と、間をおいて暫く叫び続ける。その声が人もまばらな電車の中に響いている。誰が馬鹿であるのか分かっていないのは本人だけだ。

その場のウケだけを至上とするTV番組を思い出す。相手の年齢も品格も関係ない、ただこきおろす口調だけを楽しむ番組を何度か見たことがある。声が大きいだけでその場を制圧しているような雰囲気もあった。その瞬間は面白いと感じなくもないが、嫌な後味が残るものだった。言っている内容の正しさを吟味する間もなく、ただウケさえすれば良い台詞。

叫び続ける母親のそばで、その友人らしい女性が少し苦笑しながら見ている。さも自分達が正しく、ふざけたことを言う「老害」に制裁を加えているようなニヒルな笑い。こちらには、制しないこと自体が不思議に映る。

誰がどう見ても老婦人の方が正論である。子供が倒れて怪我をした時、その母親は律しなかったことを悔いないだろうか。すりむいた程度なら笑って済ませることもできるだろうが、走行中の電車内である。本人は幼稚園生の筋力しかない。本人が望むことがベストではあり得ないし、自己責任を問える年齢でもない。その子は、まだまだ沢山の大人たちの助言や叱責の中で学ぶべき年齢だ。

子供が育っていくには、最早一家族だけで踏ん張ってもどうしようもできないところまで来ている。何を薦めるにも禁じるにも、親の影響力は、子供の成長と共に限りなく小さくなる。「いい子」を育てるには、皆で育てるしか手はないと思わされる。けれど、そんな意識が親側に育っていない。

まさに不適切な言葉を叫び続けるその母親を見ながら、その男の子が可哀想でならなかった。一見、子供を守っているかのように見えるけれど、全然その子のためにはなっていない。あの子は、ああした言葉を聴きながら育っていく。

「子供本人が望むこと」という言葉が独り歩きしている。私が子供の時、私が何を思うかが大切にされていた様には思わない。大人がどう育てるかがメインであり、子供であった私には大きな大きな障害ではあったが、何かしらのモラルを共有しつつ育てられた感覚が存在した。今は大人側のモラルも低くなっているが、子供に対する意識も変わってしまった。自分のことなんだから、自分のベストは本人が知っている、それを尊重しようとする考え方。自分のことを自分が一番分かっていたら、今の社会の歪はこんなにも大きくなってはいない。

子供たちは明らかに叱られていない。叱られることに慣れていない。息子や娘の友達が我家に来たり、電話をかけて来るたびに驚かされる。全然、大人と話をするという意識が欠けている。最初から「タメグチ」なのから、挨拶をしないのから、我家に遊びに来て私と目が合っても姿勢も正さずソファーに寝そべっている者まで。電話でも、私が取って「ミツイデス」というと、「ヤマダタロウデス」と名乗るだけで、後は「良きにはからえ」と言わんばかりに待っていたりする。大人に対応を考えさせる。歪んだ守られ方をしてきた結果だ。

子供とはいえ、厳しく接するには勇気が要る。自分の子供には怒鳴りつけられるが、その友人にそうできるようになったのは息子が小三あたりの時か。挨拶しない子には、挨拶するまで目を睨みつけて「コンニチハ」と私から言う。電話で名乗るしか能のない子には、「ミツイデスガ?」と繰り返す。息子を呼んで欲しいのなら、そう頼めと言葉に出さずに威圧する。正しく反応するまで繰り返す。すっかり嫌なオヤジである。今ではキチンと嫌われて、私が近づくと姿勢を正す。高校生になる前に煙たがられて良かった。

おかしくなっているのは、子供たちや親だけでもない。新人たちとも話が合わない。全然緊張感なく新技術を学べるとタカをくくってやって来る新人達の多いこと。ネットで数文字タイプして submit するだけで分かることを、教えてくれとやってくる。教えてもらえて当たり前と信じている。私は新人です、守られて当たり前です、と顔に書いてある。

私はできた新人ではなかったが、配属当時会議のたびに知らない言葉を、一生懸命こっそりとメモしたものだ。会議が終わるたびに図書室で恥ずかしさを隠しながら調べものをした。そして次回にもっと多くの宿題を抱えて図書室に向かった。GoogleもYahoo!もボランティアの辞書作成者もいなかった時代だ。それしかなかったし、それが少しずつ力になってくれた。

新人だけでもない。上級のエンジニアと呼ばれる人達とも感覚が合わない。クライアントの前で、後ろから刺してくるように、ここの色を変えましょうよ、補色って何だっけとか平気で口にする。こっちとあっちの配置を交換すれば綺麗ですよ。ここの透明度を下げましょうよ、かっこよくなりますよ。デザイン書を生涯開いたこともない御仁がのたまっている。聞いていて、空いた口が塞がらない。語る内容の一貫性のなさが、ド素人であることを露呈している。

クライアントの前でDB設計の話をしている時に、SQLって何ですかとか常識を知らないことを明示したりはしないし、浅はかな知識でヤブヘビな事態を招くような言葉も可能な限り避けるのが常だ。しかし、エンジニアがデザインの領域に踏み込んでくる時の姿勢は、多くが何の緊張感もない。驚くべきことを、驚くべきタイミングでやってのけてくれる。

自分の知らないものに畏敬の念を覚えない者は、無防備でそのフィールドに入ってきて、無神経な言葉を吐く。それがどんなに場違いなものかは、その道に生きている者にしか見えない。本人は気が付けない。新参者が新しい何かを手に入れるのは、周りの雰囲気を見て反省し学ぶか、叱責されてその身に刻みつけるかしかないように思う。厳しい言葉もない、誰かが優しく教えてくれる環境を望んでも駄目だ。そして、こういった話には、年齢は関係ない。相手が幼稚園生だろうが、エンジニアだろうが、高級官僚だろうが、通る道は同じだ。

Web屋に求められる資質を問われると、「好奇心」という答えがよく返って来る。広辞苑に依ると好奇心とは「未知の事柄に対する興味」とある。Web屋には、興味だけでなく姿勢も求められている。未知の事柄に対する姿勢。知らないことを知ることの喜びが、知っていることの多さを誇っている状態よりも大きい事を知って行動できること。その意味では、知っていることが如何に少ないかを知っているかが好奇心の強さを示すものと言っても良い。

そして、勿論現実は違う。知っていることが如何に少ないかを知っている者は、往々にして博学だ。よくそんなことを知っているなと感心する。何にでも興味を示しアンテナを張って生きてきた結果が「実」となってそこにある。

好奇心旺盛な者達が集う場で、プロジェクトを進めると、そこは必然的に学び舎になる。様々なアンテナが張り巡らされた場で様々な視点と分析とが行きかう。一つのプロジェクトが終わるとき、多くのメンバが必ず多くのそれまで未知の知識を吸収している。その知ること自体を喜べる者たちばかりである。活気に満ち溢れない訳がない。

大手のシステムインテグレータがWebデザイン誌で取上げられないのは、この雰囲気の温度差が原因かもしれない。DBは知らないことがない、という高みの立場から進めるプロジェクトと、人間って面白いよねと小さなことにも感動して学び進むプロジェクト。そもそも向いている方向が異なっている。でも、これから必要とされるWebプロジェクトは両面を兼ね備えたものだ。それがユーザビリティの先にあるものだと読んでいる。

子供の躾から、新人やエンジニアに至るまで、全ての原因を「過保護」のような言葉に押し付けたくはないし、原因探しにも実はあまり関心はない。今どうすれば良いかに興味がある。どうすれば、好奇心が増幅できるのか。対象は、自分を含めたできる限り多くの人達。答えは「教育」にあるはずだ。

子供が「やりたい事だけ」や「やれる事だけ」をやらせるのではない。子供が「吸収できそうな事柄」もやらせてみるのを教育と呼ぶ気がしている。そして、その方法は甘い道だけじゃない。叱ったり嫌われたりする道も通る。そして、その教えるという行為自体も、親から子への一方向ではない。双方向に互いに学びあう。登場人物と学ぶべき対象によって、その場を「家庭」と呼んだり、「職場」と呼んだりする。

子供に色々と教えつつ。自分の無知さも自覚する。息子に何かを教えながら、横で広辞苑を引いたりする。父親が調べ物をするのを、息子は興味深く見つめる。職場でも、知らない言葉メモは実は今でも続けている。知らないことに出会わない日がない。何かを教える立場に立つことも増えたけれど、それは自分が知りたいから。矛盾めいているけれど、一番効率の良い学習方法は教えることだから(by ワインバーグ)。

学校でも優等生で来たわけでもない、勉強が好きなタイプでもない。そんな私が 41 になっても、知る喜びが膨らんでいる。新しい考え方に出会えるプロジェクトでは声を弾ませて、疲れも忘れて議論している。Webという「機会」が与えられていることに心から感謝している。

電車の中で注意した人を攻撃する親に守られた、あの男の子は、いつ電車の中で走らないべきだと知るのだろう。その日が大怪我をする前に来て欲しいと願うし、それまでに変な守られ方をしたおかげで知れなかった事柄ができるだけ少なくあることを祈る。叱られることが、学ぶチャンスであることに、いつか気付くだろうか。

以上。/mitsui