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24時間Illustrator「愛(Ai)はクリエイティブを救う」

[120] 知るということ

■素人さんとの会話

先日、ある会社の人と話をした。開口一番、その方が言った言葉は、「私達を知っていましたか」。業務分野としては重なる部分の多い会社ではあるが、知らなかった。少しためらいながらも、正直に「いいえ」と答える。

一応、メディアには毎日触れる。ネット系も個人でスクラップしているし、雑誌も可能な限り一枚ずつ頁をめくって、自分のフィルタに引っかかるものを探している。それでも聞いたことがない会社だった。

一応礼儀かとも思い、「私達の活動を知っていましたか」と尋ね返す。あっけらかんと、「いいえ」と返事が返ってくる。FlashにしてもRIAにしてもWebにしても、それなりに頑張って活動しているつもりだ、私も会社も。実際、それなりにメディアに載っているし。改めて認知度とは難しいものだと思う。

しかし、その方と話していて気になったことが幾つかある。その人は、殆どメディアを見ていない。雑誌にしても、メルマガにしても、Webサイトにしても、話の節々から、情報に対する貪欲さが感じられない。実際話がかみ合わない。

自分達のやっていることをサイトで告知や報告はしている(お会いする前に調べた)けれど、その分野の情報に疎い。こういうコンソーシアムがありますよ、こういうセミナーがありますよ、こういう有名人がいますよ。どれも新鮮な目で受け止められる。

素人さんと話をしている気がしてくる。まるで妻との会話だ。多分、技術的な部分の話をすれば、もう少し共有点はあったのかもしれないが、同じWebに関わっている気がしない会話を続けた。なんだか虚しさが残る。

■自分で調べないのが流行?

何か新しいことをやっている時、あるいはやり始める時、先駆者を探すというのは、私にとっては当たり前の手順だ。どんなパイオニアがいるのか、どんな活動が既になされているのか。検索が楽になった分、自分のニーズに合った調査がし易くなっている。毎回綿密にとは行かないが、調査を省くことはない。

それは、基本的には驚きを求めての旅と言っても良い。自分の描いたシナリオ通りの結論を肉付けするための情報収集ではない。様々な工夫の跡に、感動し、共感し、驚いて、その分野に引き付けられていく。自分の前に置くニンジンを探しているといっても良い。

しかし、最近はそういう手順は踏まないのが流行らしい。実際、先の御仁のような若いチャレンジャーには良く出会う。活きのいいセンスだけを頼りに、既存の文化を調べもしないで、否定したりする人までいる。私の年齢では「若いなぁ」としか感想が言えない。行けるトコまで行けば良いと心底思う。

既存の情報の蓄積を頼りにするのは、気弱になっている証拠だと思うこともある。でも、自力だけでは届かない場所や人たちがいる。一緒に話したければ、勉強しなければ。特にWebの世界は、背景になっているものの幅が広い。

でも、面倒なんだろう、調べたり、感動することすら。数文字入力で答えや考え方に辿り着けることをありがたがる人たちもいるけれど、逆もいるのかもしれない。そういう情報過多の状態自体をなめて見つめる人たちか。

そういえば、某大学では「■IT」サイトが禁止されているという話を聞いた。学生が、そこのサイトで技術用語をちょこっと調べて、切り貼りして、論文として出されてしまうから。他者の意見を切り貼りして、自分の意見にしても何とも思わず、「提出した」というハードルをクリアした満足感のみを得るんだろうか。

学生の頃、よくノートを写させてはもらったけれど、自分の名前で提出するものは、それなりに考えた記憶がある。ズルが嫌だとか、正義感とか、そんなんじゃなくて、単純に「そーいうの嫌じゃん」という感じ。そして今考えると、悩み付け足すために重ねた思考って、それなりに訓練になっている。

■知って変わらなければ生き残れない

知ることも考えることも面倒くさがる、というのは色んな行動にも反映する。きっと、知ることは、変わることだからなんだろう。誰しも居心地の良い「今」を捨てたくない。知ってしまって、自分と異なる立場のものを受け入れなければならないなら、知るまいという防御本能が働くようだ。思考を拒否するだけでなく、攻撃色を帯びた行動パターンにでる。

大抵は、民主主義の名の下にと、多数決を採りたがる。大勢はこう考えているんだ、大抵の人はこう考えているんだから、オマエが考えを変えろ。幾つもの圧力を経験してきた。こういう数の理論で攻める時、「知る」ということ自体が放棄されている気がしてならない。

私は、意見の衝突が、「知る」という行為の一番重要な場だと思っている。だから、事なかれ主義が一番嫌いだ。何が間違っているのか、何が正しかったのか、どうすれば良かったのか、そういったことを明らかにしないで先に進める訳がない。だから大多数が反対にまわっても、余り気にしない。全員が間違って沈没船に残る決断をする可能性だってある。最初の会社で、上層部が沈没に向かって突き進んだという経験もしているし。

だから自分が指揮をとる重要で根幹的な決定の際には、多数決は避ける。東京人多数の中で、大阪弁を論じるようなものだと思っているからである。大阪弁の良し悪しを、実際に語る人が少数な場で論じても、正しい判断はできない。

堅牢なシステム構築だけを目的に人生を重ねてきた人たちに、ユーザビリティの話をしてもピンとこない。まさに白い目で見られる。そういう人たちしかいない場で多数決を採られても、ユーザビリティ派が優勢になることはないし、意味ある結論には至らない。

働き方についても、そう。様々な働き方と、モティベーション向上方法がある。それを今までのシキタリ優先論を展開されても、異種格闘技混合戦状態の Webの現場では、余り説得力がない。「ルール」自体の維持より、お客様に喜んでもらえたら良いんじゃないの、とかしか考えようがない。

転職を繰り返す者だけが知りうる領域もあるんだろう。様々な規則の馬鹿馬鹿しさと大切さへの理解。お客さんのところに行っても、自社改革についても、少し違った角度で見てる気がする。様々な個人的経験が、知ることの幅をもたらしてくれる。

Web屋が、結局BPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)屋さんの代わりをやる羽目になるのは、こうした視点移動ができることにも関係する。これしかない、と思い込んでいる「保守派」とは異なる視点で見つめ直すことができるのだから。そこには、自分が「知って」、「変えられた」経験が活きている。常に変わらなければ生き残れない、職業特性とも言えなくもない。

情報を知る、立場を知る、価値を知る。様々な「知る」ということ。「知」に至る姿勢、方向、防御法、拒絶法。これすら形式を変えていっている。それを推し進める風の生まれるところに、Webもあるように感じる。

Webって本当に様々なものを揺らしながら深化拡大している。本棚の広辞苑を取りに行くより、ネットにつないでググってしまう現在、便利に表示される文字を見ながら、少し考える。「知ること」って何だろう、これからも知り続けられるのだろうか。知った後、自分達はどう変わっていくんだろう。

以上。/mitsui

ps.今期は25回の約束でスタート。期せずして2000回達成号にも混ぜてもらえた。今回分で第4コーナーを回ったところくらいか。結構ネタ切れ気味。