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[122] 進化と深化

「進化」と「深化」を、意識的に使い分けている。「進化」は極力使わないようにしている。理由は二つ。一つは宗教的なもの、私は自分の先祖がミジンコであるとは思いたくないので、今は学校で習った進化論には距離を置いている。

もう一つの理由は、「進み変(化)わっていく」ということがシックリこないという点。進化したケータイ、進化したアプリケーション、様々な進化したもので街は溢れているけれど、それが私には「進化」に見えない。

よほどねじ曲がった視点を持っているのかもしれない。けれど、TVなどで格好良い青年達がこれ見よがしに「進化」とイメージ付ける度に、よりよい方向に進んでいない印象や疑念を持ってしまう。

【補足】
 学術的な「進化」には、良い方向とか悪い方向とかという価値観は含まないものらしい。良い方向という意味を含む「進歩」とは別物。但し、一般的には、そのようなイメージが含まれていることは否定できない。
< http://jvsc.jst.go.jp/earth/sinka/ >

ダーウィンの進化論で言っている、「必要に応じた変化」の積み重ねが、自分を取り囲むモノ達には感じられないのかもしれない。それって本当に必要なのか、それってメーカーの儲けたい戦略だけなんじゃないのか。派手なキャッチコピーになるほど、頭のどこかで拒否反応が起こる。それって退化じゃない?

だから、音が同じの「深化」という言葉を使うことが多い。Web屋職人として、技術やスキル等を見る場合にも、深みにはまって行くイメージが良い具合に重なる。そもそも、物事の真髄に近づいていく時には、どこかに遠くに進み行くというよりは、内在する「核」に向かって進んでいく印象がある。

Webのデザインや、サービス構築を考えれば考えるほど、コトの「核心」を意識する。色々な場面で話す機会も得ているけれど、本質的なことは既に語りつくされている感は高まるばかりだ。自分で探り当てたような顔をして話しながら、これって聴いたことあると思っている。

ただ言葉を替えて伝えているのかと、落ち込むことがある。でも、本質が一つであるなら、伝えるべきことが絞られることはしょうがない。聴く者への説得力は、その言葉を発するに相応しい生き方をしているかどうかが、決め手になるのかもしれない。そう考えるとまだまだ道は遠い。

●ある棋士の「深化」

何かのデザインをする際、何かを付け足すのではなく、削ぎ落として行く方向が好きになりつつある。その対象物の本質が何であるのかを見極めて、それが一番アピールできる姿を構築していく。本質は、何か別のものを足して花開くのではなく、既に内在しているというのが大前提のアプローチだ。

先日たまたま見たテレビで、棋士・羽生善治氏がこんなことを言っていた。十年前の七冠時代の自分と今の自分とが対戦したらどうかと問われ、勝負はしてみないと分からないと前置きしながら、今の自分の方が将棋を深く理解していると思うと答えた。

将棋の真髄に迫ろうとする姿勢は、「進化」という言葉は似つかわしくない。煌くフラッシュに囲まれていた当時の印象は薄くなった。変わらぬ飾らない出で立ちと考え込む姿。幾分深くなったシワ、幾分鋭くなった眼光。どれも、深みに進み行く「深化」の方が似合っている。私には、今の方が格好良い。

こうも言う、「才能とは、一瞬のひらめきやきらめきではなく、情熱や努力を継続できる力だ」、「勝ち負けだけにこだわらず、生涯をかけ自分の将棋を極める」。「負けました」と投了する姿でさえ、悔しさと屈辱感に満たされつつも、未だ極める余地があるのだと開拓の喜びが垣間見える。人は進み行くのではなく、深く活きるのだと感じさせる。
< http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/060713/ >

●技術の方が進歩を諦めたのか

そんなことを、ActionScript3デビューセミナーの話を聴きながら考える。このおかげで、Flash業界は今騒がしい。これからの「自分達」と「Web業界」と「ソフトウェアベンダーの姿勢」について、様々なところで、様々な意見が飛び交っている。

思い切り簡単に言ってしまえば、ActionScript3は、これまで路線通り、よりエンジニア的な方向に舵を切っている。計画をキチンと立て、キチンとプログラミングして、進捗管理も危機管理もキチンとやる。それができる土台を用意している。エンジニア社会にとって、文句の出ようもない方針だ。

そう、今までFlashに見向きもしなかった者には大歓迎の方向と言って良いだろう。見向きもしなかった原因の殆どがなくなる。開発時とテスト時の不安の多くを吸収できるようになっていく(まだアルファ版なので、来年の正式版まで変更される可能性がある)。

これで、大きなバグがなく、迅速な情報公開を含むサポート体制が約束されるなら、大手システムインテグレータが避ける理由は、「不勉強」しかない。ようやく、ここまでFlashは育ってきた。デザイナーよりもエンジニアの方が人口は多そうなので、Adobeにとっては狙った路線である。

しかし、である。旧来からのユーザーからの不満の声が上がっている。かなり強く。そこの根幹は、どうも新しいことを憶えるのが億劫だとかいうレベルではなさそうだ。FlashのFlashたる、本質的な部分に関わる問題として声が上がっているように感じてならない。

アプリケーションを構築していく場合には、計画性やテストの容易性、開発手順の標準化など、エンジニア的に必須な部分が多々存在する。でも、それは従来型エンジニア対象物にとっての必須なのかもしれない。Flashは少し別物だ。それだけでは不充分なんだ。

Flashを今のFlashの地位に押し上げたのは、触って面白いという部分だったはずだ。計算づくの規定路線を順調に開発していけるところに、あの頃のWeb系の才能は結集してはいなかった。自分達でもどうなるか分からない「面白いこと」に向かって、「これって、どうよ」と自問込みで世界に向けて問いかるというエネルギーがあった。

そんな事もできるのか、あんな事もできるのか、じゃあこれはどうだ。Flashという開発環境を試しているでもない、タイムラインを吟味しているのでも、ASを評価しているのでも、自分の発想だけを試しているでもない、奇妙な技術と才能とのコラボレーションという時空間は確かに存在していた。

粘土をこねながら、最初は二時間でウサギを作るつもりが、三か月かけてキリンを作っちゃったよ、と笑うような感じ。そんなハチャメチャな魅力が、ほんの数年前まで蔓延していた。そうした「熱」を受け入れられるかどうかが、何かの「線」となり、Web業界は二分されてきた。そう、スーツ組とピアス組に。

そして、それを融合させたいと願う人たちもいて、葛藤が続いている。どちらも諦めたくない。本当に笑ってお仕事したいと思っている層。本来融合できない人達が、一緒にお仕事できるはずだという希望を捨て切れない層。

でも、風評を聞く限り、技術の方が進歩を諦めたようだ。今回は「しょせん相容れない人種をコラボレーションさせるなんて無理なんだ。だから、片方の、いま人口の多い層になびいた」ように見える。諦めずに、両者が受け入れたくなるアッと驚くモノを期待していたのだが。

●Flashに期待しているのは「深化」

Flashは、「進化」でもなく、「深化」でもなく、「新化」して行っているのかもしれない。別物へと変身しつつあるのかもしれない。新しい開発者を取り込むために、旧来の「核」となっている部分を捨て去ってはいないのだろうか。本当にこの道の先に、「我々」全員の明るい未来が待っているのだろうか。

Web黎明期に、ソフトウェア(アプリケーション)と開発者(ユーザー)の関係も変化してきている。オープンソースの流れもそうだし、シェアウェア系の流れもそう。与えられたものを、ただ使うという関係ではなくなった。ユーザーは「消費」する者ではなく、口を出す者にもなりつつある(様々な業界でも)。

そうした時代を後押ししてきたWebの、そうした流れの中核にあったのが、実はShockwaveであり、Flashだ。様々な技術やテクニックやコンポーネントが、無料で配られたし、当のMacromediaでさえ驚かす使い手が次々に世に出てきた。Flashは単なる技術ではない部分で、Web 屋の心をとらえた。未だに「嬉しい驚くべき作品」がでて来るのは、そこが原点だからだ。

先日、Gus氏のBlogで教えてもらったアニメーションがある。Alan Becker氏(17歳)の作品。いやぁ、見入ってしまった。でも、熱いのは、技術じゃない。
< http://www.albinoblacksheep.com/flash/animator >
(FlashPlayer8以上で、「PLAY」ボタンを押してください)

AS3(Flash9)になることで、これが作れない訳ではないだろう。しかし、今発表された進化の方向性が、この楽しさを広げるものに見えないのは何故だろう。こうした作品に触れる度に思う。Adobeの責任は重い。技術開発の域を超えているんだから。これは文化だ。Adobeには、そんな文化創出をしている気概の開発を期待したい。

そう、少なくとも私がFlashに期待しているのは、「進化」ではない。明らかに「深化」なんだ。そして、Web自体にもそうなんだろう、きっと。

以上。/mitsui

ps. イントロ長すぎた。Gusさんのblogは必見、感化されます。但し試験中は休み。卒業後が楽しみ。
< http://blog.thebadtiming.com/ >