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[151] 電子書籍 第二幕

綺麗な足を組んだ女性が向かいの座席にいる。熱心に活字を追っている。こちらに向けた表紙から、それが「悩む力」だと分かる。真剣に読む眼差しが鋭い。本人には申し訳ないが、その多少の悩ましい姿とそのタイトルが笑いを誘う。

電車の中ではマンガも相変わらず多い。しかも、中高年が増えた気がする。大事にブックカバーをして大切に読んでいそうな方にもよく会う。先日は横山三国志と蒼天航路を読んでいる人に出会い、一人で感動していた。流行マンガだけではない、古典的なものも読まれている。小さな本の中に広がる世界に笑いながらウルウルしながら没頭している姿は、平和でいい。

最近電車の中で本を読んでいる人が心なし増えた気がする。出版業界の縮小が叫ばれる中、妙な気分だ。でも、BOOKOFF(ブックオフ)の混雑振りやレンタルコミックの拡大を考えると、出版業界は縮小しているようでも、活字(含マンガ)の流通量は実は増えているのではないかと思えてくる。しかも、真剣な眼差しは、さして昔と変わりなく。

逆に新聞を広げている人を見る機会が減った。更に5年前だと新聞を綺麗に折りたたんで邪魔にならないように読める人が多かったのに、それが激減した。無駄に広げて邪魔な御仁は、明らかに新聞で育っていない事を態度で語っている。生粋の新聞人はあんな読み方はしない。新聞を正しく読めることは、大人であることも意味し、邪魔な読み方は恥ずかしい行為と思われたはずだから。

自分の生活の中でも、新聞の位置付けは変わった。40年来慣れ親しんだA紙を捨てたのは、ほぼ1年前だ。ただ、理由は不要だからではなかった。くだらないコラムに対する編集方針に呆れ、抗議を形で表した。大人気ないことなのかも知れないが、明らかに間違ったものを売られることに、NOと言う事こそ必要だと思った。数週間は、新聞を広げている時間が恋しかった。実のところ、情報収集で困ったという感覚はほぼない。欲しい情報は、新聞に当てていた時間分で、ネットから充分過ぎるほど得られた。恋しかったのは、ファンの音も全くしない世界で、ただ大きな紙をめくる音とそれがすれる音のみという空間だった気がする。

この本と新聞の様子だけで未来を考えるのは余りに乱暴だけれど、情報の形や大きさが意味する事柄の大きさを感じている。新聞は、あの大きさ故に、今までは読み易かった。でも今は、読みにくい。ノスタルジーは感じるけれど、決して最適な姿勢で読める訳ではない。逆に本、特に文庫本やコミックサイズは、何とか持ち歩けるそこそこ適切なサイズなのだろう。だから捨てられない。勿論情報の種類も体裁も何かも違う。でも新聞がもし文庫本サイズで、俯瞰性を維持できたとしたら、今捨てる気にはなっていない気がする。コンテンツ自体に魅力がなくなった訳ではないのは、ケータイでニュースを読み漁るのがやめられないことからも分かる。

文字は本や紙面という「束縛」を離れたがっているように見える。文字にとって、紙面という物理制約は邪魔になりつつある。新聞が邪魔なように。ケータイの大きさもやや小さすぎる。ニュース提供者側が変に情報を間引くので充分な情報量に届かないケースも多い。それでも電車内読書家を見ても、文字情報へのニーズは決して小さくない。そして、その動きの裏には、文字情報(マンガでも良いのだが)が誘う世界の意味も関係しているように思っている。

文学少年とは程遠い少年期を過ごした私だが、本の世界に入り込める時間は大切な宝物だったのだと思う。日頃活字に飢えることはなかったけれど、たまにのめり込める作品に出会ったとき、まさに日が暮れるまで、部屋が暗くなるのを忘れて読み耽った。脳内に広がる霧のような情景、日頃はマンガばかり読んでいたので、その明確な視覚情報と対極にある微妙に儚い世界。でも、そのどちらもが記憶に刻み込まれ、そして非日常への入り口であり舞台だった。勉強が好きでもなかった私にとって、本の世界は唯一集中することができる場とも言える存在だったのかもしれない。

Webというかコンピュータの世界を仕事として失ったものは、こうした時間や空間だったのではないかと最近思い始めている。便利さを追い求めることを第一としてしまったが故に、何でもこのモニター越しに解決したくなる自分がいる。アプリケーションをいれ、プラグインを加え、様々な設定とショートカットを用いて、少ないクリックで様々な情報に辿り着ける状態。

おかげで、常に仕事に情報に追われる状態が出来上がる。ボーっとすることが罪でもあるかのようにその時間を排除して、「ボクに気付いて」と仕事自身に叫ばせて、処理していく。システマティックに組み上げた仕掛けに深夜も終電もなく、エンドレスな日常が展開される。

更に、そんな自分の環境を悪いと思えない自分がいる。情報を処理していくこと、適切に処理できること、見栄え良く処理していくこと、それ自体が目標でもあり、努力してそこを目指している。

でも、年齢のせいか最近は時々油切れになる自分に気付く。でも、仕事の達成感が自分への給油所でもある。Steve Jobsが言うように、生まれてからこのかた、人生の大部分を占めているは仕事であり、そこでの成功が一番の幸福感の素である。私はそうした生き方をしてきたし、多分これからもそうする。別に威張ることではなく、仕事と趣味とが不可分なだけである。趣味もネットに依存している部分が多いし、そこから仕事に展開できるアイデアももらう。それはきっとこの業界にいる多くの人たちとの共通点だとも思っている。だからネットジャンキーと自嘲気味に自己紹介するときも、どこか誇らしく思っているし、周りが同業者なら君もそうだよねと同調を求めている。

それでも実は油は切れる。息も切れる。どこかで何かを補充しなければ進めないことを自覚する瞬間がある。「補充」と位置づけてはいるけれど、ネットを漁って得られる情報量でまかなえるものではない。むしろ逆の何か。情報流入がない状態が欲しい。だから意図的にネットを遮断したりする。敢えてパソコンを開けない。ケータイでネットに近づかない。それが、あの頃の読書の時間だった気がしている。ネットから離れて、Twitterからの誘いを断って、何者からも邪魔されない、干渉されない世界で、何かに没頭できる時間を作る。何か1つのことに数時間集中できた満足感は、便利さに囲まれて様々な事柄を処理できる喜びとは別の次元で嬉しい。

今、iPadのおかげで、電子書籍の第二幕が開こうとしている。第三と呼ぶべきかもしれない。何度ものチャレンジがあり、死屍累々たる様々なデバイスの山が残っている。でも今度は本当の幕が上がるのかもしれないと期待している。

幾つかの電子書籍端末を眺めながら、どう使うかを考える。何でもできる状態を目指そうと、やはり脳内で誰かが囁く。でも同時に、いやいや単機能に絞ろうよと声がする。PCモニターはずっと仕事の友だった。そこでくつろげる様には、私はできてはいない。そして今私に足りないのは、ネット作業から離れて、何かに集中できる環境なのではないだろうか。ブラウザでの読書は、やはり何か違うのだ。

単純にPDFやtext形式の「書籍」が読めることに期待したい。そこそこのレスポンスでページがめくれ、何十冊もの本棚を500g程度(可能なら300台)に凝縮できて、目が疲れなくて、PCの横に置けて。ネットは巨大本棚への道としては活用する。仕事の切れ目にさっと持ち上げ、本の世界に没入できる環境。逃げ込む先として、物語や魅力的な理論の世界はうってつけだ。

デジタルという、様々な形式に変換でき、再利用が可能で、重さという束縛からの解放をもたらし、そこそこの満員電車の中でも読めて、ページの折り曲がり曲線に合わせて、顔を左右運動させなくてもよい状況。そう、デジタルとは、対アナログという意味から、状況や環境を意味し始めている気さえする。

「書を捨て野にいでよ」から「PCを置き書に浸れ」というべきか。書に記された価値への再帰を最新技術が誘っている。だからこそ敢えて単機能という方向性もありなのだろう。ネットは書籍を図書館から開放した、電子書籍デバイスは、活字を書籍から開放する。デジタルの意味が「流通」から、「再現」を超えて更に別物になってきた気がする。今度の幕は楽しみだ。

参考:mitmix: [備忘録] 電子書籍系
当然、Android系に大期待です、当面白黒で充分だし。

以上。/mitsui