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24時間Illustrator「愛(Ai)はクリエイティブを救う」

[178] 自分の目、節穴、過信

プロジェクトが祭る。いたる所に火が灯りメンバーが騒がしく右往左往する。余り嬉しくないけど、微妙に不謹慎にワクワクする祭り。そのお祭りに至る道には傾向がある。分かっている。けれど避けられずに何度も迷い込む。

どうして君は他人の報告を信じるばかりで、
自分の眼で観察したり見たりしなかったのですか。
ガリレオ・ガリレイ「天文対話」

この言葉を目にするたびに、「すいません」と声に出しそうになる。いつもいつも丸投げで仕事をしている訳でもないのに、何回かの「火傷」を思い出して、懺悔する気分。あの時、ちょっと時間を割いて自分の目で確かめていたなら、と苦い思い出が蘇る。

サイトを公開したり、アプリケーションを開発して、納めた後に愕然としてしまう失敗。全く機能がダメとかの場合はまずない。さすがにそれは検証段階で分かって、手を打つ。全ての場合に事前に有効な手が打てる訳ではないけれど、手は尽くす。開発のレベルから折衝的政治的なレベルまで様々。最悪リスケ(公開延期)、深刻度によっては、稼働中のシステムに対して、気付かれる前に修正するなどの隠密行動もとる、ハラハラしながら。

さすがにリスケともなれば別だけれど、大きな問題よりも、小さな問題の方が、心象的に大きな「祭り」だと認識する気もする。尾を引く。ちょっとした確認作業を怠ったせいで、例えばIE6で表示が崩れたり、リンクが外れてたり。ささいな不注意だからこそ後悔する。うじうじ悩む。

大きな問題は、基本的に何らかの言い訳が存在する。それが、決して許されるものではないにせよ。しかも、ある程度公開時点で分かっている問題となっている場合が多く、残念な形にせよ、公開するという決意のもとでその日を迎えているので、心理的な葛藤は終わっている。でも小さなものにはそれはない。気付くべきものであり、気付いたら何かしら手を打ったはずのものだから。

巨大なサイト開発だったり、そもそも短工期だと、確認範囲は開発の進捗とともに日々拡大し手に負えなくなる。だからチームが存在し、分業し、皆で検証を進める。つまり全部を我が目で確認することはワークフロー上はあり得ない場合もある。それでも、この言葉に対しては頭を下げたくなる。

ガリレオは、他人を信じるなとは言っていない。疑うことを薦めている訳でもない。さらに、疑うことと信じていないこととは同じではない。単に自分でも確かめろと言っている。

地球が動いているなんて信じられない、天が動いているのだ。そんなことは、考えるまでもない、当たり前だろう。この地面が動いているなんて、バカバカしい。そう固く信じ認識している人に地動説を説く。それは自分の目で観測した結果がそう"ささやく"からだ。その内なる声を無視することは、彼にはできなかった。

モチベーションの根幹が、正義感なのか、地動説そのものへの感動なのか、反骨なのか、その辺りはよく分からない。でも彼は「定説」や「固定概念」と格闘した。科学的な間違いも犯したようだが、それでも信じて闘い抜いたと言っても良いんだろう。

そうした生き様が、この言葉に更なる重みを与えてくれる。名前を見た瞬間に、グッときたものがズシリとくる。そして、自分が我が目で確認してこなかった諸々を思い出す。そうすると、敵が自分の外だけでなく、内にもいることに気付く。

自分の中にある固定観念を客観視するのは難しい。考えることもなく反射的にそう思い込んでいる部分も多い。自分が当たり前と思っていることが、全然常識外れだったりもする。私の常識、あなたの非常識。何故「常識」としたのかを、一度くらいは検証すべきことも多いはずだ。

Web屋の仕事、ブラウザ検証や情報設計の段階。これは動いて当たり前じゃん、こーなっているに決まっているじゃないか、フツーここクリックするでしょ、そんな言葉にあたる部分だろうか。自分を検証する鏡のようなものがないままプロジェクトを進めると、迷ったことすら気が付かない。ユーザテストをしてみて、えーっそこでそれクリックするの?とか、げっ…そうレンダリングされる訳?とか、マジ?とか叫びそうになることもある。想定外の動きを見せつけられて、そーくるのかぁと平静を装いながら冷汗で対応策を考える。軌道修正を脳内でシミュレーションする。想定外の結果に終わったことを見つめて自問する、私は自分の目で確かめようようとしたか。

生き方。あの人に文句を言っても駄目だろう、ルールはルールなんだから、私なんぞが何を言っても…、あの人に逆らうなんて。常識とか大人対応とかいう言葉の陰で、自分の中の固定概念が硬直化していく。試してみる前から、諦めて当然のように思てしまう種類の壁がある。でも、やはり思うべきなんだろう、本当に越せない壁なのかを自分の目で観察したっけ?

結果論的に言うと、事前に問題を見抜けない自分の目が節穴なのである。想定がどうとかは言い訳でしかない。プロなんだから。

自分の目で確認しなくなると、恐らくこの「我が目節穴化」のスピードが速まる気がする。想定という枠を作っているつもりが、本当に小さな範囲をその名で呼んで、そこから1ピクセルでもズレたら「我関知せず」となり、見ていても見えていない状態に陥る。メンバーを信じると言いつつ丸投げになる。

そしてその自分が見ている小さな土俵を大きなステージと勘違いして、そこでの成功事例を自分の才能の結果だと過信して、更に土俵を縮めて勘違いを重ねる。過信や勘違いは、経験や正しい自信以上に蓄積される。危うい。間違った人生への入り口が、大口を開けて待ち構えている。

ガリレオの言葉は、時折こう見える、「"何故"自分の眼で"自分を"観察したり見たりしなかったのですか」。

老眼性錯覚だろうか。自分は、一番近くいるからこそ見えにくいものだろう。自分のセンサーとそれを使うタイミング、文字通り見誤らぬようせねば。精進精進。

ガリレオの人生を、自分の目で確かめる方法を下記に。小学校以来触れていない方は、新たな発見があるやもしれません。闘ってます。頭が下がります。

▼ガリレオ・ガリレイ - Wikipedia
http://goo.gl/MmcZ2
▼世界天文年2009ホームページ
http://www.astronomy2009.jp/index.html
→ 世界天文年2009:ガリレオの生涯 - トップ
http://www.astronomy2009.jp/ja/webproject/life-g/index.html
▼天文対話(岩波文庫) mitmix@Amazon
・天文対話〈上〉http://goo.gl/y9sDS
・天文対話〈下〉http://goo.gl/mgCK2

以上。/mitsui

■電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[178]自分の目、節穴、過信/三井英樹 : 日刊デジタルクリエイターズ