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[138] 作り手の存在を忘れた議論の行方

HTML5の姿が見えてきたせいか、Silverlightの凄さが分かってきたせいか、最近Flashの価値論を目にする機会が増えた気がする。もはや、Flashを特別扱いする必要はないと言わんばかりの論調が多い。

確かに、Flashを特別視する必要は、もはやなくなりつつあるのかもしれない。事実右クリックをするまで、Ajaxだと気がつかない動きも多い。見抜けない自分を可笑しく思いながら、何で作られたかが問題ではなくなってきている流れも感じる。

昔、Flashでなければできなかったことが多かった。もたついたサイトの中で、たくさんの感動をもらえたのは幸運だったし、幸福だった。99%が有害であるというクジ運の悪さもなかった。自己満足だけのスキップしたくなるオープニングムービーには今でも沢山出会っているけれど、得られた感動の方が大きいせいか、腹立たしさはそれ程残っていない。

▼Alertbox: Flash: 99%有害(2000年10月29日)
http://www.usability.gr.jp/alertbox/20001029.html

もしかしたら、当時ですら山ほどの技術を盛り込み、ブラウザを限定すれば同じような体験は可能だったのかもと思ったりする。特に最近のRIA技術の水準の平均化を見ていると、そう思ってしまう。機能別○×表を作成したら、殆ど優劣はつかなくなってきている気さえする。

でも、Flashは特別なんです。心の奥でそう叫び声がする。それは自分の故郷を想う気持ちなのかもしれないし、自分の恩師への感謝の念なのかもしれない。自分の中の何とも呼べないスイッチを入れてくれたもの。そして、それを拡張して行ってくれた先人達。そう、Flashは技術だけではなく、それを支える人たちも含めてFlashなのだ。少なくとも私にとって。

だから、最近のFlash不要論や技術なんでもOK論を聞きながら、つぶやいてしまう。「いやいや、誰が作るのか分かっているのかね、ワトソン君」。機能が同じなら、誰が作っても同じだと言わんばかりの主張には、もはや溜息しか出ない。なら、あんたが作ったら?、と悪態が口をつく。

メディアは、未だにFlashをコアにしているサイトに問題があると、Flashのせいにする論調を捨てていない。先の大学での問題もCMSの問題も。でも、特に大学サイトの場合、メディアの見出し上はFlashが悪者だったけれど、すぐさま原因究明+改善策を暗示していたコメントの多くは設計の甘さを指摘するものだった。Flashが悪いのではない、Flashを使う者が心してかかるべきなのだ。結論は既に出ている。全ては人にかかっているのだよ、ワトソン君。

にもかかわらず、未だに技術だけを論点にする風潮が消えない。システムインテグレータ(SIer)にいた頃、社内にActionScript(AS)を理解する人たちを育てようとしたこともあった。誰かが作ったものをメンテする要員はかろうじて育った。けれど、「最初」を作れる人には遂に出会えなかった。どんなにロジックが書けても、データのやり取りができても、ぎこちない動きに不自然さを感じないセンスの上には、何も積みあがらないのを肌で感じた。技術をスケープゴートにするのは、ズルすぎだ。ASのスパゲッティの塊がFlashと思われては困る。綺麗なFlashだけがFlashとして評価されるべきで、その辺りの勘違いこそが99%有害だと言わしめた根源なのだろう。

言語を憶えても、立派なプログラマにはなれない。SQLがどんなに理解できても、素敵なDBアプリケーションは作れない。立派なプログラマが言語を熟知していることは多いけれど、逆は真ならざり、だ。国語辞典編集者だからといって感動的な小説を常に書けるとは限らないのと同じ道理であり、それは優れたエンジニアの中では常識だ。言語や文法には収まり切れない何か。センスとしか言いようのない何か。それがない限り、その道のプロとは言い難い何か。皆、それを得ようと精進している。

そしてそれこそが、Flashを支える人達の魅力だった。オタッキーで、コダワリが強く、意地っ張りで、疲れを見せない。呑んで騒ぐわ、語りだすわ。いつ寝ているかも不明で、どのサイトの話をしても乗り遅れない。それでいて、子煩悩だったり、別の趣味を持っていたり。それもどれが本業か分からないほどの深さの知識。更に言えば、それがお金になる可能性の余りの低さ。知っていることが何の得になるのかと問われれば、「好きだから」とだけ言い切れる潔さ。多彩な関心アンテナこそが、人の気持ちに触れる動きを作れる原動力だと言わんばかりのバイタリティ。

インタラクションという言葉を使ってしまうと、単なる技術のように感じてしまうが、実はもっともっと生活の身近にある生活臭に近い「気付き」を大切にする感覚も強い。コップを動かしたときに揺れる水面を見て、この揺れをモニターで使えないか凝視する。北風で落ち葉が舞う情景を、作品集や人の検索に使えないか震えながらたたずんでいる。生活しながら、何か楽しいことを常に探していて、その動きを展開しようとする。自分の得た印象を応用しようとする。そうしたチャレンジに感動したのかもしれない。

ネットが黎明期を過ぎ、普及率も一定線を越えた。ネットがない状況を想像できない世代も出ている。明らかに以前とは異なる状況になってきた。その中で、Flashはどう必要なのだろう。

答えのひとつは、US MAX 2009で語られた、Flash Playerの広がりだろう。メモリとCPUの使用量を抑え、どこでも液晶時代のデファクト・メディアプレイヤーを目指す姿だ。描いていいキャンバスの広がり。PCモニターという制限を嫌う者を誘っている。ケータイだけではない、モニターと名のつくところ全てがキャンバスになる。そこにワクワクする人は少なくはないだろう。

▼Adobe - Adobe MAX 2009 イベントレポート
http://www.adobe.com/jp/joc/events/max2009/video/day1/
(ちょっと長いけれどFlashの未来を考える上では今こそ見ごろ)

でも、それだけでは足りない。キャンバスが広くても、先へ先へと進むには、一人ぼっちでは淋しすぎる。だから、もうひとつの答えは、やはり人、あるいはコミュニティなのだと思う。何ができるかではなく、誰が作るのか。その誰かを更に誰が支援しているのか。今後のRIA技術というか、新しいWeb技術は、そうしたコミュニティの成長にかかってくる。Flashを超えるものは、Flashコミュニティを超えるコミュニティを有する何かだろうと強く想う。

どんなベンダーもW3Cも、技術という小石をデベロッパーという市場に、投げ込めばそれが広がるとは考えてはいまい。技術的にできることが多いとか、価格が安いとか、それがキーにはならなくなってきている。いや、今に始まったことではなく、面白いか面白くないかが一番の壁なのだと思う。面白いと思ってしまう人をどれだけ束ねられるかだと言い換えても良いかもしれない。

面白いことが好きな人の周りには、引力ができる。様々なスキルを持った凄い人間を惹きつける力。Webはそうして深化している。何もW3Cやブラウザベンダーやツールベンダーのおかげで強くなったのではない。面白くする力のある人が寄ってたかって全力を注いで、今がある。

「RIA」や「おもてなし」や「エモーショナル」や「体験」が平然と言葉として表される時代。ベンダーは、より心した対応を迫られている。クリエイティブな人たちを大切にしているのか、機会を与えているのか、チャレンジを与えているのか、厳しい評価基準を与えているのか、鍛えているのか。同様に、作り出す側はもっとシビアな道を歩んでいくことになるのだろう。誰だってツールを使えばそこそこできるように水準が上がっているのだから。

Flashが不要になるのは、実はこうしたコミュニティが崩壊したときなんだろう。技術的に追い抜かれた時ではないのだろう。その意味で、ベンダーも岐路に立たされている。どう支援していくつもりなのか。どう買っていただくのか。ツールベンダーとクリエイターとの新しい関係模索は未だ未だ黎明期なのかもしれない。

以上。/mitsui