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[182] そうだ!嬉しいんだ生きる喜び

2012/01/19 14:00  

ここ数週間同じ歌が頭の中で響いている。アレンジは、マーチ風の時もあれば、オーケストラ風の時も、シャウトしたようなものまで様々。微妙にその時の気分を察して、心の中で楽器が選ばれるように思う。

♪そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
 たとえ胸の傷が痛んでも
   アンパンマンのマーチ/作詞:やなせたかし/作曲:三木たかし

息子達が小さい時によく一緒に見たアニメ。アンパンマン。以前から私の中では、ドラえもんより高評価(原作ではなくTV版の話だが)。某マルチメディアスクールで、講師を一瞬やった時には、教材的に使ったこともある。ストーリーの組み立ても、キャラクターも、背景などの近景から遠景の使い方まで、限られた予算の中で大健闘している。何よりも安心して子供を任せられたのも大きい。幾つかの話は息子達よりも真剣に見ていたかもしれない。

それにしても、こんな形で再会するとは思わなかった。今回の出会いの発端は、毎日曜日に通う教会の牧師。作者やなせたかしがクリスチャンであることもあり、孫との共有財産でもあり、かなりのお気に入りで、何週かごとに歌い、これは讃美歌だと力説する。

歌詞を探して、読み返す。深い。ただ聞くよりも、ずっと深い。とても子供向けのものじゃない。難しすぎると反対されたというのも頷ける。「胸の傷」とかそもそも通じるのだろうか。でも逆に幼児にそう歌われると、かなりグッとくる、とも言える。

♪そうだ!恐れないでみんなの為に
 愛と勇気だけが友達さ

今年高校を卒業する娘は言う、「愛と勇気だけが友達さ」は、寂し過ぎる、他に居ないのか、と。当時は友達とそれを笑っていたとのこと。でもね、その通りなのかもしれないんだよ、と思ってしまう。孤独の中で、自分の心の中に灯る何かとだけ連れ添って闘わなければならない時がある。そして、そんな風に闘える者が本当に強いんじゃないか、とか口から出そうになった。

愛とか勇気という言葉がためらわずに口にできた時代。そんな時期に、そんな言葉を心の底から大声で歌う。そして、諸々の現実の壁の前に、そんな言葉を口にしにくくなる。でも、年を取ると、やはりそこに真実があるように思えてくる。愛とか勇気とか、形のないものをよく言葉にしたなと思わされる。

そして、こうした歌を歌い続けて大人になったら、もしかしたら強いんじゃないかと思うようになってきた。疑いも持たずに、小さなときから胸を張ってこうした歌を歌い続けたなら、何かあったときでもふとこうした歌が口からでてくるんじゃないだろうか。そしたら、幾つかの不安は消し去るかもしれない。胸の傷が痛んでも、人生は素晴らしいと言えるかもしれない。言葉の持つ力の大きさを想う。

アンパンマンを見ていた頃、そのシンプルさにも感動していた。アメコミのヒーロー達のように、何故僕は皆の為に…と悩むシーンを見た事がない。私が知らないだけかもしれないが、さすがに1話15分という制約の中では無理そうだし、見ている子供達の望むものでもないのだろう。

♪何の為に生まれて 何をして生きるのか
 答えられないなんて そんなのは嫌だ!

アンパンマンは迷わない。自分の生きる目的に疑問を挟むこともない。ただ、皆のため、僕らの為に生きて行く。明快、気持ちがいいくらい。でも、当の本人は強くない。助けを求めた少年が、アンパンマンを助けることの方が多い。でも、迷わない。そこが大事なのかもしれない。結果と目的とは必ずしも一致する必要はない。

また、迷っている暇もないのだろう。牧歌的に見えつつも、人生を楽しむ為に彼らは精一杯なのだ。一緒にお茶を飲んだり、散歩したり、たわいもない日々が重要なのだとも言われている気がする。自分に課せられた使命や目的を再考する時間など持つ必要はなく、そんなことを考えて立ち止まるよりも、一緒にお茶を飲んで楽しもうよ。原作の持つ、ある意味終戦後の物悲しい空気を一掃して、焼き上がったパンの香りの豊かさで、アニメ版は満たされている。

さて、現実の世界の話である。複雑に絡み合った諸々の壁が、バイキンマン以上にしつこく行く手を遮る。先を行きたい自分も、アンパンマンのように一途にはなれず何度も立ち止まって色々考える。

♪今を生きることで 熱いこころ燃える
 だから君は行くんだ微笑んで。

ネットは一巡してしまった感がある。何もない所から、一見なんでもありの世界へ。もはやネットにないものは存在しないかのようだ。でもネット越しに見える世界だけが、本当の世界ではない事を震災はまざまざと教えた。それでも、生活の一部として、ネットはもはや不可欠なライフラインとなっている。そして、多くの新デバイスがこれでもかと登場しては、一部は定着し、多くは消えて行く。

♪時は早く過ぎる 光る星は消える
 だから君は行くんだ微笑んで

時代が変わり、キャッチーなものよりも、より安定した仕組みとしてのWebが求められ、0から1を創り上げて来た熱気が冷め、1から2を3を5を生み出す熱気が以前とは違う形で沸き上がっている。「だけど」行くのではない。「だから」行くんだろう。Web屋としての使命を少しでも感じているのなら。

以上。/mitsu

[181] 行け。勇んで。

2011/12/22 14:00  

余りに思い返したくないことが大きく沢山あった年が暮れようとしている。敢えて振り返ることを拒み、なんとか前を向こうとしても、重い何かが足に絡みつく。直接の悲しみに襲われた訳ではないにも関わらず、背後にそびえ立つ暗闇が、いつしか目の前に回り込んでくる気配すら感じる。

前途は遠い。そして暗い。
然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。
  有島武郎「小さき者へ」

高校の頃に触れた文書に、何度か目を向ける。日本全国「頑張れ!」の連呼の中に静かに佇(たたず)むような言葉。後押しするかのようでいて、それほどポジティブでもない。目の前に開ける道が明るいとも言ってくれない。ただ開ける、と。でも、恐れるなと告げる。そして勇み行け、と。

いさ・む【勇む】
心が奮いたつ、勇気が沸き起こる、はりきる、励ます、元気づける、慰める(iOS内蔵辞書)。
※辞書 http://itunes.apple.com/jp/app/id473493861

ハリウッド的な勇ましさじゃない何かが含まれている。心が折れたらお終いだよと響く。他には諸々折れてもしょうがない、でも心だけは折っちゃ駄目だ。勇めるだけの余地は残せ、そしてそれは無理じゃないんだよ、と聞こえてくる。

つくづく日本語っていいなぁと思う。もちろん他の言葉だってその言葉を生んだ土地に住む者たちには特別な響きを持つんだろうけれど、やはり特別な匂いを感じる。特別なエールを感じる、まさに励まされるようだ。

神戸の震災以来、傷ついた人に「頑張れ」と声をかけることに抵抗が生まれた。無理矢理頑張った先の疲れを考えるから、そう声をかけられない。頑張り尽くした人だと分かるから、更には頑張れと声をかけられない。

でも、「勇み行こう」と声をかけるのはどうだろう。もちろん、そう声をかけたら、かけた人も行く。共に行く。たとえ「勇み行け」と言われても、一人ではない感じがする。奮い立つ心のリズムを一緒に聴いてくれる誰かが隣にいる感じが伴う。孤独にはしない、一人で頑張らせはしない。あなたが勇んでいることの証人に私がなってあげる、だから勇み行こう!

そして、勇み行く先は、元居た場所ではない。もっと先だ。元に戻る旅なら勇む必要はない、郷愁だけで進める。また、元居た場所も天国ではないだろうから、何かしら残念なところもあったろう。でも、勇んで行く場所には、そんなネガティブな要素は少しでも減っていて欲しい。そして勇んで行く限り、何の苦労もない場所を目指しているとも思わない。苦労はあるものだし、悲しみも癒えないし消えないだろう。でも勇んで行こう、もっともっと先へ。

震災の過酷さの前には甘ったれているのかと言われそうだが、この業界の厳しさも今年は増した。3K(きつい/厳しい/帰れない)、7K(3K+規則が厳しい/休暇がとれない/化粧がのらない/結婚できない)と、自虐ネタを言えていた時の方が未だ元気があった。

私の中には、何かが途切れた感がある。ITというか技術の限界を突き付けられた感。今年の漢字は「絆」だそうだが、様々なものを結びつける「強さ」よりも、その「か細さ」に目が行く。自分たちをくっつけていたモノは一体何なのだろうか、いか程のものなのだろうかと考え込んでしまう。

蓄積された情報とそれを使いたい人たち、知らせたいシーズと知りたいニーズ、様々な諸々の事柄と好奇心。それらを結び付けていたか細い糸、ネット。正直、多くの場面でネットは多くの事柄や人やチャンスを結びつけ、この十年余りの間に驚くほどの変化と浸透を果たして来た。Twitterは既存メディアの届かないところで支援の炎を広げた。ホリエモンの捜索依頼リツィートも忘れられない。ネットは一昔よりも確実にリアル世界に影響を強く与えている。

でも何か敗北感を感じる。本当に結べてたのか。必要としている人たちに、必要なものを届けられて来たのか。端的に言えば、「IT」が本当に人の役に立ったのか、という問いだ。地震予知から、諸々の想定、原発の安全神話、そして報道というかニュースの伝達、そして実のある被災地支援。多くの場所で、堅牢さよりも脆弱性を感じさせられた、というのが本音だ。「IT」が実効性を持ちえたのは、実は技術力ではなく、不眠不休でリツィートしていた男気の方だと思えてならない。

被災地に送ったものが、被災者に届かずに*再び*倉庫に積まれる状況が全てを象徴している。善意とマニュアル対応なのだろうけれどズレている。ネットもどこか寸断されたというか、ちぐはぐに何かが繋がっていない。そうした領域にリーチで来ていなかったという現実を見せつけられた。そこに挫折感みたいなものを感じてしまった。

私は世代的には図書館世代であり、それがネットに夢を重ねすぎているのかもしれない。TVを見て、当初原発が何基あるんだよと腹が立った、海外でウォークスルーできる3D動画が出て来ているのに細々と成長し続ける模型での説明に耐えねばならなかった。省庁のサイトは難解だし、メディアは政府発表のコピーをそのまんま画像掲載した。アクセシビリティもマシンリーダブルもあったものじゃない。Webが何かを伝えるという行為をシェープアップさせているとは言い難い状況じゃないか。今までやって来たことは何だったんだろう。

そう考えると、先は遠く暗い。でも、勇み行く者たちはいる。世界が驚く程の礼儀正しさに誇りも感じた。驚くべきスピードで幾つものサービスが立ち上がり、更に多くのそれらを利用したアプリケーションが広まった。少し前まで考えられない程に、開発者の交流は進んでいるように見える。オフ会も勉強会も盛んで、Ustで全世界公開も躊躇すらなくなった。ハッカソンが事もなく行われ、多くの技術者が惜しみなく腕を見せる。もの凄く濃い話をフツーにして、それが全くフツーに見える様にもなった。

確かに、先は遠く暗い。でも、恐れない者の前に道は開ける。そこがどれだけ明るい未来かは、行ってみれば分かる。今目の前に横たわるチグハグさは、いつか解消されるのだろう。そして振り返ると、沢山の希望に出会った一年でもあった。だからこそ生き残れている。来年は、もっともっと希望に出会える新たな場所で暮らしたい。行こう。勇んで。

以上。/mitsu

  • 良き聖夜を、メリークリスマス!
  • 被災地支援の話で先日ドキッとさせられた。「震災がなくても、この村は終わっていたんだよ」。もちろん過疎のことであり、若者離れの話だ。その台詞にカチンと来た表情は見せるけれど、老人達は悲しく納得しているんだと聞かされた。復興は思っているより、もっともっと奥深く根深い話なのだと改めて。

[180] 忠告、そして自戒

2011/12/08 14:00  

親切心から声がかかる。迷ったときに、困ったときに。でも困ってない時にも声がかかる。それが精神を揺らす。助けられるときもあるけれど、メンドーな沼地に誘われる臭いがするときもある。

手軽なことだ。災難を身に受けない者が、
ひどい目にあっている者らにあれこれと忠告するのは
アイスキュロス「縛られたプロメーテウス」
岩波文庫 http://goo.gl/CTQj7

子供によく話していた物語がある。イソップだったと思うが、オジイさんと孫とロバの話。遠くに出かける用事があって、ロバに孫を乗せていく。周りから「なんてひどい子供だ、老人を歩かせて」と声がする。オジイさんがロバに乗ると「なんて非道い奴だ、あんな小さなロバに乗っかるなんて」となじられる。しかたがないので、ロバの足を棒に縛り、オジイさんと孫が担いで進む話。

子供たちが、やたらアドバイスや周囲の目を気にしていると思ったとき、この話をした。何度も繰り返しているので、話し出した途端に子供達は「分かった、分かった、自分で考える」といって逃げ出すようになった。無責任なアドバイスに耳を傾ける必要はない。先ず自分で納得するまで考えることが大切だ。

それにしても、私がそのオジイさんなら、素直にロバを担ぐ前に、怒っていたと思う。無責任な攻撃よりも腹立たしい接し方はない。自らは傷を負う事も、汗を流す事もなく、高見に座って、俺の指示に従っていれば楽になれるんだと物知り顔で指を指す。そんな声が悪魔の囁きであり、結局残念な結果につながり易いことは、経験値は教えてくれている。

かけられる声が、真の救いの声か、勘違いお馬鹿さんの声かを判断するのは、その姿勢や眼差しなのだろう。状況をどこまで見つめるのか、何を悲惨な状況として避けようとしているのか。その時の犠牲をどの程度と見込んでいるのか。人の接し方は様々な情報を与えてくれる。

きっとオジイさんと孫に後ろ指をさした人々は、手を口の前に当て、自分の素顔を隠すように、半分聞こえるようにヒソヒソと非難したのだろう。ロバを担ぐ重さを考えもしないし、経験したこともない上で。残念ながら、そんな人が増えて来た。

手軽にアドバイスする風潮は強くなっている気がする。前線から安全なだけ離れ、現場の状況をよく聞きもせず、最新技術をよく知りもせずにこっちが行くべき道だと指し示す。いかにも親切で、困っている人のことだけを考えているように見えるが、何か違う。寄り添う気持ちがない。正論を言っている自分を愛おしんでいるだけの香りがする。

震災以降、この辺りの境界線を強く感じるようになってきた。語る人がどちら側にいるのか、自分事として考えているのか、それとも他人事なのか、ただ言いたいだけなのか。そんな立ち位置で判断され、語るだけならもう結構ですという所に落ち着いてき始めているように感じる、様々な場面で。

何が正しく、何が間違っているのかを、絶対的な尺度で判断し実行できることはない。でも、何もしないよりは何かした方が良い。静観という選択肢は受け入れがたい雰囲気がある。間違っているかもしれないけれど、間違った時には私も一緒に対応するから、という姿勢にこそ人は惹かれる。その傾向が強まった。

特に技術の話であり、ネットの話である。今現時点で、将来に関わる事を瞬時に俯瞰し、判断し即決できるのは、神かそれとも勘違いおバカの二極だろう。現時点でのアドバイスというかディレクション支援は、ノウハウ的知識ではなく、「責任」という局面を持つものだけにシフトしているように思えている。

口を出すなら、責任を少しでも負え。そんな雰囲気で現場が進む事が、多少ギスギスしてでも良いのではないかとさえ思えている。責任を負う回数を重ねれば、そのうちに奇麗に負える様にもなるだろうから。

そう考えたら、身近なところではチームや会議のメンバも絞れる。的確なアドバイスだけくれる絶妙な人もいなくはない。しかし、例外的存在だろう。ただ会議に参加して仕事をしているアリバイ作りに精を出す人は基本的には排除しよう。勝手に仕事をした気になる人は不要だ。共に仕事をなす人だけをメンバと呼ぶ。動く人間だけが集まったチームは多分強い。それは最小限の人数だからだと思う。

「80対20の法則」や「パレートの法則」と呼ばれるものがある。組織人材論的にかなり乱暴にまとめると、どんな組織でも働く2割とさぼる8割とに分かれるという話で、そもそも人材やスキルに依らないと言われている。4番打者ばかり集めても、打つ人と打てない人に分かれる、と言えば、体感的にも正しいように感じる。

▼80対20の法則 - @IT情報マネジメント用語事典
http://goo.gl/T6MJ
▼パレートの法則 - Wikipedia
http://goo.gl/5TAn

少人数チームというのは、この比率で計算すると主要機能担当者がゼロになりかねない状況なのだろう。つまり、企画し情報整理する人、プログラムを書く人、デザインを作り出す人、この3人ならば、さぼる8割は生まれないのである。数では多く見える「80」は、実は「20」の前に勝てないからだ。20が先に生まれる、といっても良い。つまりは、自分事として全力を尽くす方が優性遺伝子なのだ。だからこそ20が全体を引っ張っていける。

こうやって文字にすると危険な香りもしないではない。独裁的な匂いもする。でも閉塞感がものごとも縛りつけるような時代には求められる要素なのだろう。大災害を前に、最前線にやっても来ないで訳知り顔で分析だけしている御仁に人望は集まらない。そして、コトは大災害だけではない。技術革新の現場だって、通常のことだって、山場はある。優しい道などないと思った方が正しい。

そうやって少数精鋭で研ぎ澄まされた体制と経験こそが、実は「空洞化」を防ぐ手段なのだ。責任を負いつつ、退路を断ってこそ工夫が生まれる。その工夫の蓄積こそが宝であり、ポテンシャルであり、活力だ。上からの指導で成り立つ場ではない、現場が必死になって試行錯誤をする体制。指導する立場に価値があるとしたら、その神聖な聖域である「現場」の自由度を守ることであり、縛ることではない。だから高みからの無責任発言は、現場を冒涜し、無力化させる忌み嫌うべき存在なのだ。偉そうな戯言を吐く前に、現場に足を運び、共に汗を流した方が良い。

そして日本では他国のようにいきなりデモが起こったりする否定行動は起こらないのだろうとも思わされる。静かに無視するのが流儀だ。戯言を言う上司が無視されるように、お高い位置にいた方々が続々と無視されている。天下りの御仁たちが一部の間で「クダラー」と呼ばれるのも時代の動きを感じる。今、心が折れていない現場は実は活性化している。

翻って、私はいかがが。相談事に対して、プロジェクトに対して、プロジェクトのメンバに対して、組織に対して、家庭に対して、地域に対して、震災に対して、国に対して。考えるほどに頭を上げられない。でも無責任な世迷い事を言わぬ姿勢は貫ける。できることから、責任ある行動に移っていこう。

以上。/mitsu

・期せずして、編集っぽいこととイラストを担当して、更に名前まで出して頂けた本(単なるミスのような気がしている)。旧約聖書のダビデの話:

▼Amazon.co.jp: ソーン・バード: 平野 耕一, 三井 英樹: 本
http://goo.gl/mF2TF

[179] 壁とスキ〜NOMO+Future Vision

2011/11/24 14:00  

無性に自信を失う時がある。絶望的な気分に襲われる時がある。進むべき方向を見失い糸の切れた凧のように旋回し落ちていくのではないかという不安を抱える時がある。そんな時に支えてくれるモノはなんだろう。

「つらいと思ったことはない」
「強いですね」
「強くはない。メジャーで野球をやりたいだけです。
 やりたければ、やるじゃないですか。」
          野茂英雄(日米通算200勝時)

精神的な強さ、誰にも負けない実績、卓越した理解力やスキル、あるいは頼りがいのある仲間達。それらが、緊急時の支えになると思って来た。でも、最後の砦は、もっと単純なものなんだと思わされた言葉。

もしも道を失いかけた時、卓越した何かでないとその壁を乗り越えられないとしたら、もっと多くの挫折が広がっているように思う。挫折が皆無だとは言えないが、希望の方が大きく輝いて見えるのは、卓越した何かや超人的な努力ではない何かが、再起や成功を支えているように思える。

それは、「好き(スキ)」という気持ちなのだと、野茂英雄は言う。駄洒落ではないけれど、好きだと思う心が、壁に隙(スキ)を作り、そこから決壊していく姿を思い浮かべる。浮かべると同時に、愉快に感じる。そう思うだけで越えられるのであれば、誰にだってできるじゃないか。

私は基本的には野球をよく知らない。試合もあまり見ない。でも数人の選手だけは、時折意識してみる。野茂はその筆頭だった。申し訳ないが、私が「巨人の星」系マンガから学んで来たどのピッチャーとも違ったタイプ。マウンド上の巨漢。その肉の塊のような肉体がしなり、うなるようなボールがキャッチャーミットに突き刺さる。そのぼーっとは見てられない光景と、その緊張感そのものが好きだった。

それにしても、マウンド上の野茂は楽しそうに見えなかった。苦しそうに見えた。必死で投げている印象で脳裏に焼き付いている。記事を読んでいると、ポーカーフェースは教えられ学び取ったものの様だが。でも、野球が好きなのは伝わって来た。精一杯投げる姿に嘘はなかった。流す汗は、重そうだったけれど、爽快感が滲んでいた。苦しそうだけれど、それ自体をも本人は愉しんでいるんだろうなぁ、と。

軽さを重んじ始めた時代にも迎合しなかった。(メジャーで)野球をやりたい、そのためには、どんな目で見られようと、どんな努力であろうと厭わない印象。そしてそれが故の信頼感。そして、海を越える。その果てしなく高い壁に挑む姿が眩しかった。マウンドに立つ彼は、ピッチャー以上の何かがまとわりついて、それが尚更大きく見えた。

もちろん、誰もができることを彼がして来た訳ではない。ほぼ誰もできないようなことをして来た。でも、それを支えて来たのが「(メジャーで)野球をやりたい」というシンプルな想いというのが嬉しい。

Web業界にいる者の多くは、この世界に憧れて入って来た人が多いだろう。この15年の業界だし、参入障壁も当初はかなり低かった。HTMLソースがかなり自由に見れるのも大きかった。一部が去っていったが、黎明期メンバーは未だに多くが現役で頑張っている。離れがたい何かがある業界なのだろう。

でも、その業界は揺れている。かなり揺れていると思う。登場人物(マークアップエンジニア、IA、アナリスト…)は増え、舞台数も増え、シナリオも複雑化し、稽古の時間も、大道具小道具を作り込んでいる時間もない。そして料金も叩かれ、ツールのバグは減らずに、ヴァージョンアップ代だけは確実に近づく。憧れのWebデザイナーから、3Kとも7Kとも言われる職場に変わりつつある。

コスト感もグラグラだ。恐らくは最悪の非常時用のページも含まれた某省庁のサイトが1.4億で発注されているとし、某政調会長はサイトは数十万程度で開設できるという。これらの数字そのものにも意見はあれど、それ以上に、「正しく情報を伝える為のコスト」という意識が余りに希薄に感じて悲しくなった。

▼HP作成1億4千万円!3次補正で過大計上指摘 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111108-OYT1T01054.htm

この震災を通じて、大切な情報を適切なタイミングで流すための準備も規定も工夫も、この国には備わっていないことが白日の下に晒された。情報は伝わってこそ価値がある。オウムの様に同じ言葉を連呼すれば良い訳でもない、適切に情報構造を分解し視認性を高め認識可能な状況をデザインしなければ、伝わるモノも伝わらない。

Web業界にいる者は、実のところHTMLで苦労するよりも、Photoshopで苦労するよりも、そこで汗をかいているはずだ。何をコード化するのか、何を画像化するのかが決められない限り前に進めないから。

そして、この国には、そうした情報構造を正しくデザインできる人が沢山いる。その多くが、震災時の情報流通に対して苛立ったり、自ら立ち上がったりした。そしてその品質は、海外に見劣りするどころか誇って良いレベルにある。クールジャパンで並べられるものも嫌いではないけれど、何故もう一つのクールジャパンをもっと前面に出さないのかが、この「数十万で」発言に透けて見えた気がした。そもそも情報を馬鹿にしているのではないのか。

築き上げて来た文化も、評価されなければ、広がらないし、深くも強くもなりはしない。それに加えて、多デバイス問題がメンテナンスや検証の方向から強大な圧力をかけてくる。Web業界はかなり深刻で構造的な様々な段階(企画/見積り/制作/評価…)での試練を受けている。

でも試練だけでもない。技術の革新は、大方の想定を越えていると思う。ツールも、環境も、想像以上に便利に利用し易い形で目の前に展開されている。多くの複雑な評価が機能拡張やプラグインでさくっと実現できたりする。SFの世界だと思っていたものが次々と実現されていく。その意味で、本当に良い時代になったのだと思う。

でも試練されているのは事実だ。そして業界全体が試練を受けていれば、そこで働く人材にも余波はくる。辛い状況に出会う確率も回数も多くなる。そんな時に言ってみる、「つらいと思ったことはない…Webをやりたいだけです。やりたければ、やるじゃないですか」。

どこまで惹かれたか、どこまで恋焦がれているかが、これからの道を左右するのだろうと思う。次の震災は微塵も願わないが、たとえ何が起こっても、もっと気の利いた、もっと役に立つ、もっと意味のある情報基盤をあと数年で作っておかなければならないという漠たる焦りがある。恋焦がれる力、研ぎすませておかなければ。

そこまで来ている、1つの未来:
▼Productivity Future Vision
 http://www.microsoft.com/office/vision/

以上。/mitsu

[178] 自分の目、節穴、過信

2011/11/10 14:00  

プロジェクトが祭る。いたる所に火が灯りメンバーが騒がしく右往左往する。余り嬉しくないけど、微妙に不謹慎にワクワクする祭り。そのお祭りに至る道には傾向がある。分かっている。けれど避けられずに何度も迷い込む。

どうして君は他人の報告を信じるばかりで、
自分の眼で観察したり見たりしなかったのですか。
ガリレオ・ガリレイ「天文対話」

この言葉を目にするたびに、「すいません」と声に出しそうになる。いつもいつも丸投げで仕事をしている訳でもないのに、何回かの「火傷」を思い出して、懺悔する気分。あの時、ちょっと時間を割いて自分の目で確かめていたなら、と苦い思い出が蘇る。

サイトを公開したり、アプリケーションを開発して、納めた後に愕然としてしまう失敗。全く機能がダメとかの場合はまずない。さすがにそれは検証段階で分かって、手を打つ。全ての場合に事前に有効な手が打てる訳ではないけれど、手は尽くす。開発のレベルから折衝的政治的なレベルまで様々。最悪リスケ(公開延期)、深刻度によっては、稼働中のシステムに対して、気付かれる前に修正するなどの隠密行動もとる、ハラハラしながら。

さすがにリスケともなれば別だけれど、大きな問題よりも、小さな問題の方が、心象的に大きな「祭り」だと認識する気もする。尾を引く。ちょっとした確認作業を怠ったせいで、例えばIE6で表示が崩れたり、リンクが外れてたり。ささいな不注意だからこそ後悔する。うじうじ悩む。

大きな問題は、基本的に何らかの言い訳が存在する。それが、決して許されるものではないにせよ。しかも、ある程度公開時点で分かっている問題となっている場合が多く、残念な形にせよ、公開するという決意のもとでその日を迎えているので、心理的な葛藤は終わっている。でも小さなものにはそれはない。気付くべきものであり、気付いたら何かしら手を打ったはずのものだから。

巨大なサイト開発だったり、そもそも短工期だと、確認範囲は開発の進捗とともに日々拡大し手に負えなくなる。だからチームが存在し、分業し、皆で検証を進める。つまり全部を我が目で確認することはワークフロー上はあり得ない場合もある。それでも、この言葉に対しては頭を下げたくなる。

ガリレオは、他人を信じるなとは言っていない。疑うことを薦めている訳でもない。さらに、疑うことと信じていないこととは同じではない。単に自分でも確かめろと言っている。

地球が動いているなんて信じられない、天が動いているのだ。そんなことは、考えるまでもない、当たり前だろう。この地面が動いているなんて、バカバカしい。そう固く信じ認識している人に地動説を説く。それは自分の目で観測した結果がそう"ささやく"からだ。その内なる声を無視することは、彼にはできなかった。

モチベーションの根幹が、正義感なのか、地動説そのものへの感動なのか、反骨なのか、その辺りはよく分からない。でも彼は「定説」や「固定概念」と格闘した。科学的な間違いも犯したようだが、それでも信じて闘い抜いたと言っても良いんだろう。

そうした生き様が、この言葉に更なる重みを与えてくれる。名前を見た瞬間に、グッときたものがズシリとくる。そして、自分が我が目で確認してこなかった諸々を思い出す。そうすると、敵が自分の外だけでなく、内にもいることに気付く。

自分の中にある固定観念を客観視するのは難しい。考えることもなく反射的にそう思い込んでいる部分も多い。自分が当たり前と思っていることが、全然常識外れだったりもする。私の常識、あなたの非常識。何故「常識」としたのかを、一度くらいは検証すべきことも多いはずだ。

Web屋の仕事、ブラウザ検証や情報設計の段階。これは動いて当たり前じゃん、こーなっているに決まっているじゃないか、フツーここクリックするでしょ、そんな言葉にあたる部分だろうか。自分を検証する鏡のようなものがないままプロジェクトを進めると、迷ったことすら気が付かない。ユーザテストをしてみて、えーっそこでそれクリックするの?とか、げっ…そうレンダリングされる訳?とか、マジ?とか叫びそうになることもある。想定外の動きを見せつけられて、そーくるのかぁと平静を装いながら冷汗で対応策を考える。軌道修正を脳内でシミュレーションする。想定外の結果に終わったことを見つめて自問する、私は自分の目で確かめようようとしたか。

生き方。あの人に文句を言っても駄目だろう、ルールはルールなんだから、私なんぞが何を言っても…、あの人に逆らうなんて。常識とか大人対応とかいう言葉の陰で、自分の中の固定概念が硬直化していく。試してみる前から、諦めて当然のように思てしまう種類の壁がある。でも、やはり思うべきなんだろう、本当に越せない壁なのかを自分の目で観察したっけ?

結果論的に言うと、事前に問題を見抜けない自分の目が節穴なのである。想定がどうとかは言い訳でしかない。プロなんだから。

自分の目で確認しなくなると、恐らくこの「我が目節穴化」のスピードが速まる気がする。想定という枠を作っているつもりが、本当に小さな範囲をその名で呼んで、そこから1ピクセルでもズレたら「我関知せず」となり、見ていても見えていない状態に陥る。メンバーを信じると言いつつ丸投げになる。

そしてその自分が見ている小さな土俵を大きなステージと勘違いして、そこでの成功事例を自分の才能の結果だと過信して、更に土俵を縮めて勘違いを重ねる。過信や勘違いは、経験や正しい自信以上に蓄積される。危うい。間違った人生への入り口が、大口を開けて待ち構えている。

ガリレオの言葉は、時折こう見える、「"何故"自分の眼で"自分を"観察したり見たりしなかったのですか」。

老眼性錯覚だろうか。自分は、一番近くいるからこそ見えにくいものだろう。自分のセンサーとそれを使うタイミング、文字通り見誤らぬようせねば。精進精進。

ガリレオの人生を、自分の目で確かめる方法を下記に。小学校以来触れていない方は、新たな発見があるやもしれません。闘ってます。頭が下がります。

▼ガリレオ・ガリレイ - Wikipedia
http://goo.gl/MmcZ2
▼世界天文年2009ホームページ
http://www.astronomy2009.jp/index.html
→ 世界天文年2009:ガリレオの生涯 - トップ
http://www.astronomy2009.jp/ja/webproject/life-g/index.html
▼天文対話(岩波文庫) mitmix@Amazon
・天文対話〈上〉http://goo.gl/y9sDS
・天文対話〈下〉http://goo.gl/mgCK2

以上。/mitsui

■電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[178]自分の目、節穴、過信/三井英樹 : 日刊デジタルクリエイターズ