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[143] 探す/伝える/結ぶ

2010/03/11 14:00  

Twitterで不満を述べた結果、その不満解消に一歩近づけたという話が増えてきた。企業と個人がダイレクトにつながった好例なのだろう。

サウスウエスト航空の乗客が怒りをツィートして、その結果お詫びのメッセージと次回無料航空券をゲットした話があった(らしい)。Twitter凄いな、と思いつつ少し引っかかった。いやいやちょっと待て。そもそもサウスウエスト航空はユーザ重視指向性の強い会社だ。目の前の仕事に注力する前に、目の前のお客様が望んでいることを考えようとする風土がある。そっちの方が鍵なのではないか。

そもそもお客様サポートという部隊はどこでも持っている。アンケートだってどの機内誌にもついてるだろう。ましてや、口頭で言おうと思えば、空港中にいるその会社ロゴを付けている人全てが窓口だ。ユーザの声を集める仕組みはなくはない。

そうした窓口にクレームを言うあるいは書くという行為の敷居の高さはある。レスポンスも早いとは言えないかもしれない。でも、そうした場での振る舞いをきちんとしてきたから、Twitterという波が来ても即対応できたのではないだろうか(検索すると幾つかの失敗の歴史も見れます)。

Twitterに限らず、ネットでの発言は広がりやすい。それは今に始まったことではなく、路上で大声でクレームを叫ばれているのに等しい。更にそれが人という媒体を通して増幅減衰されながらこだましていく。残響のように延々と残る場合もある。それに眉をひそめることもできるが、真摯に向かい合うこともできる。リスク管理として実直に取り組む企業も多い。

情報が、TVのコマーシャルでガンガン流され、紙メディアでダメ押しをする時代が衰退していき、ようやくネット特有の文化が定着のレベルで広まっている。商品をネットで初めて知り、興味を持ち、評判を見て、購入するなり更なる評判を書く。一般ユーザはここ10年で確実にネット社会での振舞いを学習し、身に付けて行っている。

mailで連絡し合い、自分のサイトを作り、Blogに乗り、mixiにはまり、SNSをやりつつCGMに加担し、オークションで売買し、アフィリエイトで小銭を稼ぎ、Twitterでつぶやく。しかも、パソコンなしでケータイでそれらを苦もなくやっていく人たちもいる。肩肘張らず、自然体に新しいことを覚え、試行錯誤し、馴染み、自分色に染めて、更に発信する。

勿論それらができるのは総人口から考えると未だ未だ少数派だろう。でも何事もアーリーアダプターがいて、広まっていく。その中で、更なる試行錯誤が起こり、喧嘩も起こり衝突も起こって、新たなルールや秩序が生まれていく。それらも数ヶ月のスパンで徐々に崩壊し再生し育っていく。

個人がネットを受け入れて生活自体を変えていき、ネット自体、社会の一部として何かしら変化をしながら広がって行く。でも会社はその最後にやってくるようだ。看板のような形としては早かったのかもしれない。もはや自社サイトがない企業は珍しいだろう。10年前には想定しなかった予算がここに使われている。

でも、その後が続かない。看板を立てて満足してしまったようにも見える。その看板がどのように見えているのかを気にしない。でも紋切型の情報提供の後に続くものがある。それがコミュニケーションである。挨拶をしてから握手をして友人になっていく、そんな関係性の育成が、企業と個人の間で成立するのである。10年前はおとぎ話のように聞こえたかもしれないけれど、実際にそれらは起こっている。

CMを見て検索し、思いついては検索し、人との会話の中でひらめいてアクセスし。企業や商品と、人との距離感が明らかに変わり始めている。コミュニケーションのスタイルが変わってきているのだ。

その最たる部分が、今はTwitterなのだろう。ようやく企業Twitterも始まり、面白い動きが出てきている。こんなコミュニケーションが成立するのかと驚かされることも多い。いきなり有名社長と話ができたり、提案ができたり、担当者に感情移入したり応援したり。

でも、未だ未だ道が定かではない。どこに向かっているのか分からない。広告代理店を通さずに、ダイレクトにコミュニケーションできることに直面して、未だに困っている感がある。だから最近の企業Twitterも名物担当者で終わってしまう危惧がある。企業として、個人ユーザに真剣に向かい合っているんですよ、と伝えるべき場面なのに。

双方向コミュニケーションという言葉を、技術用語として捉えていたんだろうなと、自分でも思う。話ができる二人(企業と個人ユーザ)が出会えば、そこには必然的に会話が生まれるのである。何を話していいか分からないでは済まされない場面も多い。

Web屋はそういった領域でも呼ばれ始めている。より現実的な戦略策定の場である。単なるグラフィックでも、情報整理でもない。事業計画に密接に関わる部分で必要とされ始めている。それは嬉しい。かなり嬉しいと言って良い。

そんなWeb屋の進み方を考えながら、ちょっと前に、自分でネットって何だろうと考えた図を思い返す。ネットの本質は何かを省くもの、何かを集めるもの、そして何かを広げていくものなのだろう。その上で、ユーザも企業もどう使うか。それは探す/伝える/結ぶの3点だろう、と。

▼探す
情報を探す、モノを探す、技術を探す、人を探す、熱意を探す、チャンスを探す
▼伝える
人を伝える、情報を伝える、技術を伝える、想いを伝える、熱意を伝えるチャンスを伝える。
▼結ぶ
人と情報を結ぶ、人とモノとを結ぶ、人と技術を結ぶ、人と想いを結ぶ、人と人とを結ぶ、人とチャンスを結ぶ。技術と技術を結ぶ、技術とモノとを結ぶ、技術と情報を結ぶ、技術と想いを結ぶ、技術と人とを結ぶ、技術とチャンスを結ぶ。情報と情報を結ぶ、情報とモノとを結ぶ、情報と技術を結ぶ、情報と想いを結ぶ、情報と人とを結ぶ、情報とチャンスを結ぶ。
そして、ビジネスとビジネスを結ぶ。

的をはずしてはいない気がしている。さて、何と何を結びつけてこうか。

以上。/mitsui

[149]ふたつの工事現場、普通化するネットという道

2010/03/04 14:00  

そろそろ年度末である。道路工事を見ながら思う。またこの季節になったなと。同時に before/after の道路の状態と働く人々を想う。綺麗になった頃だけは、評価され、工事中も含めて記憶にも残らない道路工事現場の方々。

未だ子供だった頃、家の周りに舗装されている道は少なかった。目の前の道で、ガリガリと棒切れで絵を描き、ケンケンパと遊んだ。雨の度にどろどろになり、それがまた楽しくて。思えば、そんな時期の方が遥かに短いと思うくらいには生きてきたけれど、強く季節を感じさせてくれた。

それがいつしかアスファルトに変わっていく。もう道端で遊ぶこともなくなった頃だったのかもしれない。それでも真新しいアスファルトの匂いの中、自力で何かした訳でもないのに、なんだかレベルアップというかステージアップしたような錯覚にとらわれたのを憶えている。

アスファルトを流し込み、それをローラーで圧着(?)していく。その工程を見るのも好きだった。怖そうなおじさんに、おらあ見てねぇでどっか行けと言わんばかりに睨まれたものだ。

それがどこでも普通になっていく。今や舗装されていない道路に迷い込んで、ガタガタとした道からの直接信号を受け取ることはほぼない。同時に、工事をじっと眺めることもない。時々見かける女性警備員の姿が珍しかったり、余りに車をさばくのがヘタッピなおじさんの時だけ意識を向ける程度かもしれない。

綺麗であって当たり前。きちんと通れて当たり前。何か特別な配慮を忍ばせても、多くの利用者には分からない。でも、きっと目利きの担当者には、いい仕事をしているのかどうかは分かる。できの良い工事とできの悪い工事があるのだろう。綺麗な道と、そうでもない道とがある。でも、でも、綺麗だからと言って工事費用が高くなる訳ではないのだろうな、と。端っこの方が多少残念な仕上がりになっていようが、期間内に終わらせることだけが評価対象なのかもしれない。

そして、そんな当たり前の工事現場があり、もっと注目を集める特別な工事現場がある。スポットライトの当たり方は違っても、そこを通る人達の快適さを支えるための基礎技術は、恐らく変わらない。そして、安全にその工事を進めることも、基本の部分では変わらない。

道が綺麗かどうか、記憶にも残っていない。家でさえ、取り壊しのときになって、あれ、ここに何が建っていたっけと思う。その前の道にどんな表情があったかなんて、考えもしない。それくらい当たり前に、何かが壊され、何かが新たに建てられる。そして当たり前のように風化が進み、定期的にメンテナンスが行われる。とどまるものは何もない。

硬いアスファルトを見ていると、それが磨り減って行く事なんて余り想像しない。できない訳ではないけれど、しない。でも風化していく。気がつかないけれど、消耗していっている。

見えない消耗と日々戦っている人たち。気がつけば朽ちていたと、なる前に対策に着手する。計画的に、数年かけて、あるエリアをくまなく舗装し直すのだろうか。

自分たちのことのように思う。我々もそこに属するのだろうと思う。何を想って実装しようが、その上を人が通る。恐らくは削りながら。どんな想いを込めて作りこんでも、それに気がついてくれる人は未だ未だ少ない。でも差はある。差はあると信じたい。

あの人達は、深夜、どんな気持ちで穴を掘り、アスファルトを流し込み、一息入れているのだろう。そういえば、生活時間帯も似通っている気がする。方や、その時間しかできない工事であり、片や祭っ(炎上し)てその時間になっている部分が多いという決定的な違いがあるとは思うけれど。直接話したことはないけれど、きっと使命感があり、楽しさを感じる部分があるんだろう。

きっと、工事の人たちから見れば、我々のモニターにかじりつきながらコーディングやピクセル着色の面白さは分からないかもしれない。我々も、ツルハシの重みも責任も楽しさも分かるとは言えない。でも、お互いの仕事が全くなくなる未来は、そう簡単には来ないだろう。

車が変わろうが、デバイスが変わろうが、そこを走る人間の傾向は急激な変化をしない。でも徐々に変わっていく。それこそ磨耗しているのが分からない道のように、徐々に。でも微細な動きに思うけれど、振り返ると我々は想像以上に遠くに来ている。今でも思う。ほんの10年前に夢想していたことが、いま手のひらの中で動いている。多々不満はあれど、望んでいた未来の片鱗ではある。

95年前後のパラダイムシフトと叫ばれた頃から、時代が何回か回った気がする。そして、ネットが「普通」になった今、実は更に大きなパラダイムシフトが迫っている気がしてならない。目立った花火ではない。メディアも取り上げにくい微細な動きの連動。でも着実に、一人一人の生活を押し上げる地殻変動。その前兆として、ネットユーザがごっそり入れ替わったとさえ感じる局面も出てきているのではないだろうか。

我々は、そのうねりの中で、様々なことを行っている。その営みの中で、デザインという言葉のもつ意味も、コミュニケーションの実体も、やはり徐々に変えていっている気もする。Webデザイナの未来は、その辺りをどう考えるかによって、明るくも暗くもなる。

そういえば、真新しいアスファルトに、砂埃まみれの運動靴で踏み込んで、その足跡を見つめて、汚してしまったという罪悪感と、初登頂という偉業感の両方を感じたものだった。

無垢の未来に足を踏み入れるのは、実は実は作り手だったりする。そのワクワク感も、この世界から離れられない理由の一つだ。そして、無垢なキャンバスは、かなり技術よりな部分ではあるけれど、未だ未だ広大に広がっている。

デザインができること。コミュニケーションができること。技術ができること。そして、作り手ができること。我々の、利用者としての我々の生活を豊かにする術。激動は止まってなんかいない。

以上。/mitsui

  • 会社の近所に24時間のドンブリ屋さんがオープン。かなり嬉しい。

[148]今までの技術、これからの技術

2010/02/18 14:00  

AppleとAdobeのFlashを巡る抗争を斜め見しながら考える。浮かぶ言葉は、未 来への視点と、お節介あるいは介入。

伏線は、そもそもiPhoneでFlashが動かないこと。それが、その大型版とも言 えるiPadでも、Flashが現状動きそうにないことで議論が加速した。世界的に ヒットしているデバイスと、ヒットするだろうデバイスでの未サポートという 事実、そもそも根強い反Flash派の流れと、HTML5への楽観的な期待とが織り交 じっているように見える。

整理すると:

  1. iPhoneにはFlash Playerが搭載されていない
  2. iPadにFlash Playerが搭載されない模様である
  3. Flash Playerが却下された理由は、メモリ消費量も含めたデバイスへの負荷と、バギーであることへの嫌悪感があるようだ
  4. Flash Playerは、ヴァージョン毎に普及率は異なるが、基本的には殆どのブラウザに搭載されていると考えてよく、それを前提にしたサイトも多い
  5. Adobeは、Flash Player 10.1にて、メモリ消費量を押さえた、軽量改良版を投入予定
  6. HTML5のcanvas機能は、表現能力としてFlashに近く、W3C標準の流れであり、非常に近い将来にはプラグインなしで多くのブラウザで利用が可能

結論から言ってしまうと、私はAppleに正義はないように思っている。私が望 む未来に、Apple製のデバイスが含めなくなってきていると言うべきか。

●未来への視点/過去への視線

インターネットが普及しだした頃、いや今でさえ、見ているものは最新ニュー スだけのように感じてしまうけれど、実は使っているのは、過去からの蓄積情 報の方が多いと思っている。最新ニュースは日々、慣習的にも見て回る。それ によって一喜一憂しているのも事実。でも、検索窓に何か文字列を打ち込み、 探し回るという極めて能動的な情報収集は、最新情報というよりは過去のもの の方が多い。すなわち過去の情報が見られないほうが、能動的な検索活動にと っては面倒が多い。

検索するノウハウなり情報に、Flashが使われているか、と問われればほぼNO だと答える。でも、その情報の周りに配置されているものに、Flashが含まれ ていることは極めて普通の状況だろう。Flashが見られないということは、代 替のイメージなりを置くという処理をしていれば、まぁ見られなくはないだろ うが、多少の窮屈さや不自由さは感じるだろう。

ただ懸念しているのは、現実的にどこまでFlashがないと困るかではない。デ ファクトスタンダードを無視する、という決定をする姿勢である。エンジニア であれば、過去からの決別がそれほど容易でないことは、普通は知っている。 ましてや、Appleは、OS9からOS10へのユーザ移行を奇跡的に進めた企業である。 過去(の情報やアプリケーション)を切り捨てられれば、更に未来に進むこと がどれだけ楽なのかを何度も考えた経験もあるだろう。それが、Webという情 報蓄積の仕組みの中の、過去に対して責任を感じていないように見える。

HTML5がFlashの代替になる。それが事実だとしても、今あるサイトにおいて、 わざわざリライト(書き直し/作り直し)をするかと言われれば、これまたNO だろう。予算の関係もある。現時点の景気を考えれば、投資に値するプロジェ クトだとは考えにくい。しばらくは、Flashコンテンツは多々存在するのであ る。そんな状況を考えると、Flashの非サポートという指針を軽々しく示すの は、ユーザ軽視としか映らない。それは、Flashが使われることが皆無、ある いは稀になってから口にすべきことではないだろうか。

●お節介あるいは介入

既に開発姿勢というか、ユーザへの対峙姿勢の領域に入っているが、過去(デ ータ)との決別が、バギーさなど技術的に見てiPadを安定稼動するためには必 要不可欠だという経営判断だとしても、それこそに嫌悪感を感じてしまう。

それは、ある悪夢を思い出すからだ。Microsoft(MS)を嫌う理由につながる 事柄だ。MSが少し前まで極端に嫌われてきたのは、お節介を強制するためだっ たと思っている。データの使い方、見方、さまざまなことに彼らの流儀を押し 付けてくる姿勢。HTMLという標準がありながら、できの悪いIEの解釈を正しい と押し付けてきたことがその最たるものだろう。

コンテンツの見方は、ある規定に則りさえすれば、ツールベンダーがとやかく 言うべきものではない。ブラウザごときが、ユーザ様の見方に物申すこと自体 に怒りを感じる。ブラウザは正しいHTMLを正しく解釈すればよいのであって、 それ以上のことは余計なお節介だろう。

しかし、それほど嫌われたMSも、最近は叩かれない。私の中でも、諦めの境地 の部分もあるけれど、今までになく平和関係が保たれている。何故か。標準を 意識してきたように見えるからだ。世界中からのIE6駄目っ子宣言にも言い訳 をしない。積極的に過ちを認めているようには感じていないけれど、それでも 彼らもこの駄目な子に手を焼いている。彼ら自身のマイグレーションの妨げに なっているからだ。

皆が絡み合って進んでいく世界観を、だいぶ周回遅れの感はあれど、学んでい る。叩かれるたびに、これでもいけないのかと溜息をついているようにさえ感 じる。自分達とユーザとの差異を意識し、学んでいるように見える。そして、 それは方針転換というトップダウンではなく、MSに入ってくる社員達が、非MS ワールドからも多くなってきているためではないかと予想している。

仮に報道されていることがらだけが真であるなら、Appleが今やっていること は、昔の嫌われ者のMSっぽい。昔から排他的で我が道を行くという姿勢はあっ たけれど、普及率98%のデータ形式を全くサポートしないという姿勢が本当だ としたら、それは随分な話だろう。

さらに、iPadの利用シーンを考えると、そのお節介さと違和感が尚さら鼻につ く。ソファーに座ってネットも利用する、そんな時間を演出し効率化するため の道具なのだと予想している。大型化するTVを利用したコンピューティングよ りも遥かに現実的だし、皆で凝視するというよりも極めて個人的に文庫本を読 むかのようにネットするという未来に、きれいにはまる。DSなどのゲーム機で もなく、Kindleのようなほぼ読書に特化したものでもない道具。そこへのニー ズは高い。いや、他人事ではなく私が欲しい。

自分自身のパーソナルな時間を共にする道具。そこにベンダーの趣味やお節介 が入り込むのは、辛い。かなり辛い。私が何を見たいかは、私が決めたい。見 られるようにだけしてくれ。技術的に無理ならしかたがないが、極力束縛は勘 弁して欲しい。そのためにOSが落ちても、私は我慢する。30秒でリブートする なら、昔に比べれば天国だ。それくらい、ユーザには耐久性はあるんだよ。だ から、Macのシェアがある一定線から下がらなかったんだよね、皆我慢しなが ら支えていた。

ただ、常に用意周到にデモをするApple(というかJobsというか)が、わざわ ざFlash未サポートと分かることを行ったことに、何かしらのあざとさを感じ るのも事実だ。普通に考えて、もっとビジネス的な視点での仕掛けを考えてい ると考えるべきなのだろう。

iPadの発売まで1か月ちょっと。様々な未来を夢想するチャンスでもある。も っと色々と感じ考えて行きたい。

以上。/mitsui

[147] 今までのWeb屋、これからのWeb屋

2010/02/04 14:00  

今までのWebは、これからのWebと違うのか。今までのWeb屋と、これからのWeb屋は違うのか。

最初の問いに対しては、本質的な部分では変わらないんだろうなぁと思う。でも、次の問いに対する答えは、違うんだろうなぁというのが本音。立ち上げメンバーと、その拡張メンバーとは、求められる資質が違うのではないだろうかと思うのがその根底。初代社長と二代目社長といったところか。

Webの黎明期に、Webを知らしめるために、文字通り骨身を削ってきた人の蒔いた種は、同じ努力をしなければ刈り取れない種類の実を結んでいる訳ではない。そう思うのは、蒔かれた種が荒地を平らにするためのものだったはずだから。そしてそうでないと報われない気がするから。

情報が走り回れず、特定の場所や人に縛り付けられていた時代。そんな不自由さを知っていたから、使命感も育った気がする。俺がやらねば、この情報はここで死ぬ、それで良いのか。こんなに情報が生き生きと飛び回る、俺がやるんだ、もったいなくて他人には譲れない。様々なレベル感と価値観と悲壮感と使命感とが織り交ぜられて、情報は宙に放たれ続けた。

見ている側は、ただただ驚きや感動をもって受け止めたかもしれないけれど、作り手はかなり頑張ってた。そして、頑張って(意識しながら)ショックや驚きを提供した。それは既存の仕組みに呑みこまれない様に、少しでもアクセルを踏んで加速できるように、未来を1ピクセルでも近くにするために。

でも、それも10年強続ければ、道もできるし、歴史も残る。頑張った実績がきちんと、次世代が通る道を整備していく。同じだけ頑張らないでも同じことができるようになるのが、進歩。使い物にならなかったツールは、重さの難点に目をつぶると、既にかなり良い線まで来ているし、教え方もレベルアップしている。コードサンプルも要点が明確なものがすぐググれる。

黒電話でジーコジーコやっていたことが想像すらできなくなるように、今では自動ドアではないドアの前で開くのを待ってしまうように、ピーガラガラガラというモデム音の記憶が薄れていくように、Web黎明期の苦労は見えなくなっていくのだろう。でも、見えにくくなるだけで、消えては行かない。何かしらの芯として、情報流通の根底を支えるものと化していくのだと思っている。

前回書いたように、「どの会社にも(サイトは)ない」時代から、「どの会社にも(サイトが)ある」時代。それぞれの時代に必要とされるものは当然異なるだろう。誰もが持っているのだから、その気になれば比較がし易い。自社サイトを作る前に、競合サイトをそれなりに見て回れば、それだけである程度指針が見える。見えなければ、担当者としてちょっと淋しいとしか言いようがない。

指針を見据えた上で、戦略を決める。横並びになることをゴールにするのか、先んずることをゴールとするのか。体力、予算、能力、時期。様々な要素があって、ゴールを決める。どっちが良いとかの問題ではない。何が必要なのか、だろう。横並びを選択したなら、スタンダードと呼ばれるものをとにかく探ればよい。コンテンツの種類からその並べ方、遷移の仕方、様々な標準的なものは少しの検索時間で簡単に手に入る。でも先んずることを選ぶなら、様々な問題が起こってくる。業界的に新しいこととなれば、それは尚のことだ。それらを解決していかなければ、公開まで辿り着けない。

システム的な壁、表現の壁、対話の壁、部署間の壁、様々な壁の向こうにゴールがある。苦労はあれど、達成感も大きい。そして、信じるものが正しいと実証されたときの喜びの大きさは経験した者しか分からないだろう。アクセスログを眺めながら、単なる数字の羅列なんだけれど、その増加に涙が出てくる。頑張ってよかったと心から思う。黎明期は手探りの開発が多かったから、そんな感動が様々な場所で見られた。

目新しいアイデア、目新しい表現。未だUIが試行錯誤している時代は奇抜なものも採用されやすかった。それは、その時代にWeb経由で何らかのコミュニケーションが取れるようなユーザに対しては、そのようなアプローチが向いていたからだと思う。戸惑うようなユーザインターフェース(UI)でも、そこに驚きや感動があれば、何の支障もなく何度も訪れた。そのWebサイトのマナーが悪いから戸惑うのか、それとも自分の感覚が悪いから戸惑うのか。多くのユーザは自分の感覚やセンサー自身を疑いながら、鍛えながら、ネットの奥底へと進んで入ったように思う。

それが、総ネットユーザ化にもう少しのところまで来た。高齢者の中には未だネットに縁遠い方々もいるだろう。でも、これからでも孫達が誘導するかもしれない。公共的な情報には興味がなくても、親近者の情報への想いは熱く、それがモティベーションになったりするだろう。更にネットは、PCサイトだけではない。モバイルサイトをWebとは意識せずに使っている人も多いだろう。いずれにしても、既に現状でかなり行き渡っている状態になっている。

対象ユーザが入れ替わった状態というべきなのかもしれない。期待されることが変わってきたと言うべきかもしれない。道具が行き渡れば、奇抜なものよりもオーソドックスなものが、総量的には多くなる。奇抜なコンテンツでさえ、馴染みのある親しみ易いUIで操作されるべきだと考える。もはや「ビックリ箱」を望む場よりも、「あって安心・使って納得」を望む場が増えるのは道理である。

更に、システム的な要件も増えた。もう数年前になるけれど、社内で予算をかき集めて、小さなサイトを作ろうとした時、社内規定に従ってセキュリティを保とうとすると、予算の8割がセキュリティのために必要になった。それではコンテンツに使える予算がない。店は規定通りには作れるが、並べる商品がない状態だ。

でも逆に様々なWebサービスやAPI(Application Program Interface)が活用できるようにはなった。いわゆるマッシュアップ。全部を自分で開発する必要がない。その意味でサイト構築の敷居は確実に下がっている。でも、スタートがしやすくなっただけで、本格的な戦略にそってWeb(サイト)を活用しようとしたなら、実は越えるべき山や壁は以前より遥かに高くなっている。ITの進歩は、リスクの増大とコインの裏表の関係のようなものだから。

そしてWebサイト(Web活動やWeb戦略)自体が、4大メディアの活用路線と入れ替わるように広報活動の中心的な位置に来るようになってきた。アクセスログを生で見れることは、広告代理店という中間層を軽減し、自力でやって行くための道でもある。エンドユーザとの接点をそれまで持たなかった(持てなかった)企業が、いきなりそれらを持てるようになった。

Webでできることと、すべきことは、企業の規模によってもかなり変わる。ブランディング戦略は、多彩なグループ会社や商品構成があるからこそ考慮すべきことだし、多部署間調整はそうそう性急には進められないし、進めては軋み(きしみ)がでることも多い。ゆっくりと進めるべき事柄があり、何よりもスピードが求められる案件も存在する。後者はこれから新サービスを立ち上げて業界に打って出るようなプロジェクトが多く、阿吽の呼吸で共に活動してくれる小規模Web屋が適しているとも言える。前者は大企業が多く、どっしりと社内ネゴにも耐えられる品質のドキュメントが必須のものも多い。

情報の開放が、黎明期とは異なるステージに上がってきて、求められるレベルも広がった。どこまでやるのかが更に決めづらくなり、意思決定の大切さが増し、HTMLや技術的なものでカバーできる範囲が相対的に狭まりつつある。

ということで、Webの本質が明らかになるにつれ、Web屋に求められるものが変わり広がっている、と言った方が正しいのかもしれない。黎明期に見えていたWebの姿は、実はまだ片鱗で、もっともっと浸透して広まった今、更に裾野の広さが実感できるようになってきた。そこに人的・技術的な世代交代とが重なって、再び混沌とした状態になりつつある。でも以前よりもずっと静かにその混沌は進んでいる。

それでも、今までやってきたことが無駄になるわけではない。あくまでユーザのニーズに目を向けていた視線の先にある未来にブレはない。私達は変わっていくしかないのだろう。でも本質は変える必要はない。もっと本質を見据えればよい。道は続く、進むしかない。その先の広がりを求めるならば、尚のこと。

以上。/mitsui

  • なんとなくtwitterの面白みが分かりかけてきた気がする。mixiより時間かかった。
  • 今日は母の命日。様々なことを思い出す。

[146] これからのWeb、これからのWeb屋

2010/01/27 14:00  

これから自分が何をして食べていくのか、Web屋として。そんな問いは数ヶ月ごとに脳裏に浮かんでは消える。別に答えが見えたから消える訳ではない。不安と展望とが入り混じった状態が浮かぶときで、展望が勝ると考えている時間が惜しくなって沈んでいくというのが近いだろうか。そんな今までの経験と、他のITメディア系の興亡からの推測を重ねている。

いい年にもなっているし、Webの発展は、一応黎明期から体験していると言ってもいいだろう。気に入ったサイトに出会うたびにソースコードを覗き、マネをする毎日。あ~そう書くのか、おーこう書くのか。新しい表現に出会うたびに、その骨格を眺めては感心していた。

たいした技術はなくても良かったのかもしれない。#ffffffが白を指定するものだと知っているだけで、「外側」の人たちには驚かれた。個人の技が世界を変えると言いきってしまうほど、SOHOやら個人クリエイターたちが注目を集めた。各自の技を惜しみなく開示し、時代のアクセルを踏んでくれた恩人たちともその頃に出会っている。

そして時代は、個人からツールにシフトして行く。個人のスキルを、ツールが代行できるかのような流れ。オペレーションを重要視し、それを使いこなせることがスキルと呼ばれた。定型的なサイトが増え、巨大サイトが誕生したのも、その頃だ。ツールを使った大量生産を、少数チームでも可能となった。

ツール至上主義は、省みられることなく未だに一部の人たちの中で信奉されている。ツールがヴァージョンアップするたびに、競って買う層。最新オペレーションを教えることこそが大切だと言わんばかりの学校群。けれど、真のクリエイティブがオペレーションの中から生まれるとは思えない。ツールが提供する、ある意味汎用化された利便性は、結局均質化したものを生むことが多く、更にそれらは劣化コピーであることが多かった。

そうして漸く、ツールは持っているだけでは駄目だし、オペレーションが長けていても、感動作が作り込める訳ではないことが、潜在的に広がっていく。同時に、ツールは作り手を楽にさせるという意識から、より高い完成度を目指す際に助けてくれるものという意識も生まれていく。これは後にコンテンツ・マネージメント・システム(CMS)という領域でも同じ歴史を繰り返す。導入すれば楽になるという幻想は広まってはいるけれど、実際に楽になったという話は余り聞かない。けれど、担当者が様々な工夫をして、質の高いサービス提供ができるようになったとは聞く。

その辺りはパソコンとも似ている。持っていさえすれば、凄く賢くなった気になるけれど、持っているだけで何が変化する訳ではない。ちょっと使うためには、設定とか諸々正直言って手間がかかる。けれど、キチンと作れば、明らかに一段上の品質のものを作成することができる。夜明けまで格闘するようになったのは、パソコンと格闘すると高品質になると自覚してからだと思える。楽にはしてくれない、でも、満足させてくれる。それがIT系ツールの特性なのだと思う。

そんな高品質をアウトプットにする人達は、徐々に大きな舞台を求めるようになっていく。いや、実際は大きな舞台が彼らを求めたのかもしれない。大企業が、ただ大量なものではなく、高品質な情報提供をするための仕掛け、Webサイトを必要とするようになる。高品質な、という枕詞が付く以上、品質に対する評価指標が存在する。指標はほぼ会社ごとにあり、その品質は実はピンからキリまで存在した。

指標があるところには、評価が伴う。様々なWebスキルが、Web以外の評価軸で断裁されていく。それは今でも続いている。Photoshopの使い手が、Java開発者の評価軸で見られる。鶴と亀とを同じ天秤で測ろうとしているようにも見える。かくして生産性や効率性や費用対効果(ROI)の話が至るところでなされる。生産性の高低は議論されるけれど、その評価軸が正当かどうかの議論に、評価される側が呼ばれるはずは無い。評価しなければならない状況が正論であることは認めつつ、生産性の良さを考慮して娘や息子と話をするのかという思いも頭をよぎる。効率を求めて伝えて、本当に効率よく進むのか。北風と太陽の話も思い出す。吹き飛ばせば効率良いように思えても、結局旅人がコートを脱いだのは暖かさの故の自発的行動だった。

一つ上の段階に進むたびに、何かしら新しい評価軸の壁に突き当たる。それがWebの進展や進度や深度を測るバロメータなのだろう。そうした測る側の構造も変わりつつ、測られる我々自身も変わっていく。創意工夫のテーブルレイアウトの時代から、情報構造的なCSSレイアウトの時代。セキュリティに対する対策。HTMLという言語における、コードの品質。Webという枯れた技術に見えながら、実は日々深く深く根を伸ばし続けているこの業界。決して歩みが止まっている瞬間すらない。そして下水道管を内包している普通の道路や、年中工事を繰り返している主要鉄道駅と、実はよく似ているのかもしれない。

普通になったからこそ、深化しているもの。一般的になったからこそ、高度なものが求められる世界。ここまで来て、時代は巡っていると意識する。Webサイトって何?、という時代に、他社に抜きん出るために我れ先にWebサイトが構築された。それが、いまやサイトを持たない企業は無い状態になった。

「ない」状態から「あって当たり前」状態に。ここでこの種の競争の一巡目が終わったのだろう。「ない」状態での競争から、「あって当たり前」状態での競争へ。次元が一つ増える感覚だろうか。「ない」時代に、一足早くWebの可能性を見出し、投資を始めた担当者の苦労を考える。何度「それは役に立つのか」という問いに答えたのだろう。今、先進的な担当者は、「あって当たり前」という前提で「今あるんだからもういいじゃないか」との問いと格闘しているのだろう。

Web屋も同じ問いと戦っている。HTMLだけなら誰でもかける時代になった。そのスキルだけを見ると価格競争に入らざるを得ない。「ほとんど書ける人がいない」時代の戦い方と、「誰もが書ける」時代の戦い方は、自ずと変わる。

どこかにヒントはあるはずだ。例えば、花王社長は次のように語る、「商品は機能だけでは売れない。情緒性が必要」。洗剤やシャンプーなどの日用品は、ある意味、どれでも同じでどこででも入手可能だ。その中で、わざわざこれだと思わせ選ばせ買わせる秘訣を、「情緒性」という言葉で示しているのだろう。

▼花王の尾崎社長が語る「消費者心理」成熟市場では“共感と情緒”がカギ
http://diamond.jp/series/psychology_dw/10002/

情緒に訴える、感性に訴える。それはより深いコミュニケーションを目指してると言えるだろう。文字情報、イメージ情報を提供するだけでなく、もう一歩先に踏み込んだ交流。形式は同じであろうと、従来よりもレベルの高い方法での交流。一方通行ではなく、相互の交流を意味する場合も多いかもしれない。

ここまで書いて、思わされる。なんだ、それってWebじゃないか。原点回帰である。伝えたいことをより深く伝える。Web屋なら当たり前に考えるべきことを、キチンとやる先に未来が待っている。それをクライアントも求めている。悲観することは何も無い。だって、それこそが他社に抜きん出る根幹施策なのだから。

Webサイトを作りながら、コード生産やグラフィック生産が根幹課題ではないことを、各プロジェクトで思い知ることは多い。一番クライアントからも細かな指摘を受ける部分でもあるが、それが問題なのではない。対象となるユーザに、適切なメッセージが、適切に届くのかどうか。「ない」時代のそれらから、「あって当たり前」時代のそれらへの変革。

その変革努力に価値を見出せない人は、「ない」時代にWebに目を向けなかった人達と同種なのかもしれない。ならばその人たちとは共に未来へ歩んで行けはしない。第一段階ですら、実は登れた人と、登れなかった人たちがいる。既得権にこだわり、従来手法に頼りきった結果は、余り明るいものへとはつながっていないと言えるだろう。第二段階に差し掛かった今、同時にそうした生き残りフィルターが降りかかっている。いや常に降りかかっているのだろう。

無限ループのように、問いを繰り返し、答えを模索する。でも、原点をぶらさない範囲で、自分にも説得力のある答えの尻尾が見えた気になる。そのアンテナが朽ちていないかを気にしながら、一歩踏み出す。踏み出し続ける以外に道は無い。

以上。/mitsui

  • iPadでましたね。欲しいです。制作ツールであるMacが、日常ツールに変わって行ってます。Photoshopマシンという名残すら希薄。事実若い人には、そういった意識すらないんだろうなぁ。隔世の感有り。
  • 最終回ではないです、もう少し書かせてください(笑)。