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[164] 脳内構築力とリアル化力

2010/09/02 14:00  

「カミーユ・クローデル」という映画がある。ロダンの愛人:カミーユの、愛するほどに隔たりが深まるという哀しい実話と、イザベル・アジャーニの熱演が生々しく痛々しい物語。もう何年も前に観たのに、銀幕なのに降りしきる雨の冷たさが、未だに思い出せる。

▼mitmix@Amazon - カミーユ・クローデル [DVD]
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全体的に哀しいストーリーだが、幾つか心休まるシーンがある。主人公カミーユが小さな女の子の前で、ウサギを彫るシーン。石を彫り進むうちに、徐々にウサギが姿を現す。その見事さに、女の子は「どうして中にウサギがいるって分かったの?」と声を上げる。その質問に戸惑うようなイザベル・アジャーニの顔が見事だった。

この問答が時折頭に浮かんでくる。それは、脳内に構築されたものと、リアルの対比が分かり易いからだろうと思う。

大した作品は作れなかったけれど、大学の頃に絵や彫刻に耽った時期がある。絵が好きというよりも、絵を描いている生活に惹かれていたレベルの話である。そうではあったけれど、時たま気に入った作品が生まれることがある。別に誰に褒められる訳でもないのだけれど、何だか気に入った作品達。それらは、間違いなく、当初(あるいは直前)に脳内にイメージしたものが、ドンピシャで目の前に構築できたと思える作品達だった。

いつもは描きながら様々なことを試行錯誤する。でも、気に入った作品では、その過程は実は少なくて、一直線に「思い描いたもの」に向かって進めていたと記憶している。そんなことが稀だからこそ、記憶に残っているし、「どうしてウサギが中にいるって...」と質問されるような確信的に進めて行けたように思えている。

それは、職として就いたプログラマでも起こった。脳内にイメージできた通りにコーディングできた時の嬉しさ。そのイメージが機能的に合っていた(バグがない)だけではなく、一直線にコーディングできたことも、創り上げた喜びを深くした。

コーディングは、基本的にはテストを意識しながらし進める訳だが、想定していなかったテストすら軽々とパスできた場合、「俺って天才?」的な喜びにつながる。それが脳内で構築したイメージを土台に進めていたものなら、尚のこと不思議さが湧いて来る。

そのあたりの謎解きの究明はしていないけれど、積み上げた経験が様々な角度からの試験を既にしているのだろうと思うことにしている。確かに、利用者のイメージや利用シーンが分かっているときこそ、脳内構築の精度は高い。

そうした精度の高さには、デザインの分野でも時々驚かされる。優れたデザインは、見た目の色合いやレイアウト的な要素だけでなく、どう使われるのかを想定した、つまり情報設計(IA)的な部分の精度の高さが鍵となる。どの角度から見ても破綻しないこと、それが求められる。そして、それが少ない情報収集期間の中で、綿密に設計されていた場合ほど、見事さに溜息が出る。

Webデザインの場では、出来上がってきたデザイン案を色々な立場から検証する。○○を探して、このページに辿り着いた人はどう動くのか、その時に迷子にさせないか、求める道筋に正しく誘導できるのか。ボタンの形状や、使っているメタファー(隠喩/暗喩)、トーン&マナー。それらが不整合を起こさないかも確認される。

過酷なテストだと時々思う。そんなの想定外だよと言い出したい気持ちも分かる。でも、だからこそ、多くのテストにパスするデザインを初期段階で見せられるとき、驚き感心する。その人の脳内では何が起こっているんだろうとも。

思い描いた通りに実現すること。それはプログラミングやデザインに限らないのかも、と最近感じている。例えば、マネージメント。チームマネージメントや、プロジェクトマネージメントが分かり易い。

複数の価値観を持った人間の集団を、きちんと御しながら、御されながら、目的地に進めていく力。これを脳内で構築できて実施できたら凄いことだと思う。そして、プログラミングやデザインでそうした様々な角度からの検証ができるのであれば、様々な価値観からの検証も可能ではないのかと思ってきている。

勿論、今の自分にできるかどうかの議論ではない。ただ、コーディングやお作法を分かった上で、脳内プログラミングができるように、人間への理解が深まれば、脳内マネージメントを構築してリアル化することも、絵空事ではないように思える。

そして、その先にあるもの。Web屋としては、Webサイト担当者なのかな、と。

脳内で、来訪者の特性に合わせて、そのサイトが提供すべき情報をきちんと渡せて、更に植えつけるべきブランディングイメージも刷り込むシナリオを描ききって、それを実装する(させる)手腕。

Webがあって当たり前の状況になってこそ必要なスキル。企業はそうした責任と能力を備えた担当者を見つけ、配置しなければならない時代になってきた。技術が進むほどに、見極めも難しくなり、自分の思いと企業としての想いに挟まれつつ、適切な光明に向けて日々改良を進めていくこと。ハードルも日々高まっているのだろう。

最後にTweetからの一言を思い出したので、記す。担当者の狙いや企みの大切さ。そして、その重みや覚悟。諸々のことが、この言葉から広がりました。下記は別にサイトに限定していませんが、現実的にはサイトというかネット上での比重は嫌がおうにも高いでしょう。低価格化が進むWebサイト開発ですが、担うべき任務の大きさに武者震いします。

Twitter / NHK広報局: 広報は広告とは違って、皆さんが持っている...
http://twitter.com/NHK_PR/status/7551428263
"広報は広告とは違って、皆さんが持っているNHKのイメージを再構築する仕事なんです。「NHKは真面目でお固い」というイメージ(←実は大切にしています)に少しだけ「新しい何か」を加えたいな、と願っております。 RT @75mix: @NHK_PR NHKってお堅いイメージがある"

以上。/mitsui

【日刊デジタルクリエイターズ】 [まぐまぐ!]

[163] デジタル教科書は、子供の創造性の夢をみるか

2010/08/26 14:00  

自分の子供の頃と、我が子の頃とを思い出しながら、デジタル教科書を想っている。現実的なデバイスと、先進的なユーザと、声の大きな企業家と、文科省。教育論者の声が小さく、現場担当者の先生も静観し、当人である子供達の声が一切聞こえてこないのが気にかかる気はするけれど、何度目かのこの波こそが本当に乗るべきビッグウェーブに見えてくる。

電子書籍が定着する前に、未来を担う子供たちへの導入には少なからず抵抗感はあるけれど、現時点での私にとってのデジタル教科書に必要なスペックを並べてみた:

A)最優先要件(必須)
  1. 見易いこと(含、拡大縮小)
    → 屋外室内問わずに可読性を保証すること
    → 最低6インチ、可能であれば7インチの画面
  2. 立って音読しやすいこと
    → 最大でも200g、可能なら150gを切るレベル
    → 片手で持ちながら操作できること
  3. 読むあるいは見ることに集中できること
    → 気移りするような仕掛けは不要、目的は集中力の育成
  4. 乱暴に扱えること/頑丈なこと(原則6年間使用を想定)
    → 机から落とすことは想定すること
  5. ページを指定し易く、指定したならすぐにジャンプできること
    → メイン画面以外のUIもあり
  6. 充電は最低2週間に1度でよいこと/高速充電が可能なこと
    → 電池切れによる授業の妨げを最大限に回避
  7. 安価なこと(1台目だけでなく、なくした場合なども)
    → 買換えや親用買い足しを想定すること、5,000円/台辺り
  8. タッチパネル機能をoffにできること
    → 画面に表示された文字をお手本になぞる学習が可能なこと
  9. 膨大な文書量をコンパクトに、容易に収納できること
    → 無線による教材配布がかのうなこと
    → 小学校6年間の主教材、副教材が収納可能なこと
  10. 別UIを別途接続する余地があること
    → 文字盤キーボードやピアノ鍵盤を想定
B)次点要件(基本必須)
  1. 無線を含め、使いこなすには、多少の鍛錬が必要なこと
    → デバイスを使いこなすのに工夫や探究心を要すること
  2. 音読機能
    → 国語主教材に関しては正式な声優品質での音声学習が可能なこと
    → 他教科教材に関してはマシン音読でも許容
  3. インタラクション
    → 簡単なクイズ(選択式回答)と集計と、音楽に関する教育的刺激になるものを想定
  4. ブックマーク/注釈機能
    → 備忘録的なもの。基本的には別途紙のノートの活用を前提とする
  5. ストラップ取り付けや静止画などのカスタマイズ性
    → 自分のものという意識を育てやすい仕掛けがあること
  6. 録音機能
    → 授業時など、ある程度の時間内で音声記録が可能なこと
  7. 検索機能
    → 文字検索が可能なこと(初等時には子より親が対象)
  8. デバイス間通信機能
    → 先生からの優先度高の連絡:「このページ見なさい」通知
    → 生徒間での連絡:
  9. 時間割と座席表、校歌、校則など学校独自情報などの特別コンテンツ
    → アクセスしやすい状況であること
    → 時間割には変更が行われること、緊急対応を想定すること
  10. データ交換機能
    → 連絡レベル:先生から&生徒間の短文メッセージ
    → 文書レベル:平時アナウンス、卒業文集、サイン帳
C)不要要件(禁止はしないが、実装しても評価加点しない)
  1. メモ&落書き機能
    → 手書き学習への促しとしても、実装する必要なし
  2. 動画サポート
    → 参考情報としての映像なので、副教材でカヴァーすればよい
D)コンテンツ要件
  1. 学年指定によって漢字の表示を変更できること
    → 同じ教材でも、1年生用と6年生用とでは表示される漢字が異なる
  2. ルビのon/offができること
    → 当然双方美しい行間になること
  3. コンテンツの総ページ数/現在位置とが明に分かりジャンプ可能なこと
    → 基本的にページ番号が現場での拠り所になる
  4. 図の拡大/縮小が可能かつ見易いものであること
  5. 漢字、図、索引、作者など、複数のインデックス機能を備えること
  6. ページ区切りがコンテンツ単位との整合性がとられていること
    → ページ間を行ったり来たりしないと読めない教材が少ないこと
  7. 試験範囲などの指定が、教師側の操作で一斉に設定できること
    → コンテンツ自体の修正権限
  8. レイアウトは美しいこと
    → デコレーションではなく、培った組版の美しさを目指すこと
  9. 複数のツールで作成&編集できること
    → 標準と定めたフォーマットを守ること(noMoreブラウザ戦争)

子供たちには、教室で、校庭で、日差しの下で、木漏れ日の中で、コンテンツに見入ってほしい。その思いは、上記の文字教材主体からも透けて見えると思う。正直、音楽と美術については悩んだ。誰もに才能を開花させる可能性を提供すべきかとも思った。でも、音楽はともかく、美術の色の再現までサポートするとなると大事だと思った。

それはアナログで体験すべきだろう。紙に絵筆が触れる瞬間。色数の多さに戸惑う感覚。目の前に広がる情景を二次元化する分解能力。ないものをそこに描く想像性。これを5,000円デバイスで実現するのは、現実的ではない。それらは、手を汚し、紙を汚して学んで欲しい。楽しんで欲しい。

同時に、メモ書き系も優先度を落とした。何もかもデジタルで処理することは、大人でさえ無理である。デジタルで資料を配布し、それ自体をデジタルで備忘録とし、再配布する。そんな芸当をなしている人は稀である。それを子供に求めては、教師が死ぬ。

きっとその辺りは、行ったことはないけれど、文科省が完全デジタル化され、書棚がなくなり、電子書籍系でスピーディーな対応ができてからで良いのではないだろうか。省内見学をする子供たちに、「こうするのがカッコいいんだよ」と胸を張れば良い。きっと心に残り、デジタルリテラシは向上する。

そんなこんなで、6年間手に携える教科書が手に入ったならば、どんな未来が待っているだろう。このデバイスに公式に入れる最後のコンテンツは、卒業文集だ。野球選手になりたい、大臣になりたい、科学者になりたい。屈託もなく書いた夢を持って歩ける。いや、持って歩く人は少ないだろうが、その言葉は本棚の片隅にデジタルデータで見やすく鎮座する。少なくとも悪い方向に進ませるアクセルにはならない気がする。

様々な角度からのコメントは増えてきている。中でも下記は興味深い。デジタル教科書の狙いが拡散しているのが読み取れる(今までの経験から言うと、無駄な税金投入になりかけている)。法改正しないと「教科書」ではない議論には溜息しか出ないが、推進者が教育の現場をデバイスによって変えようと思っている節があるとことが厄介だ。

▼デジタル教科書は、イノベーションを触発する契機となるか? 電子書籍を巡る狂騒とデジタル教科書導入の行方(1/3):企業のIT・経営・ビジネスをつなぐ情報サイト EnterpriseZine (EZ)
http://enterprisezine.jp/article/detail/2472

すぐに思い出すのが、マネージメントの父:ピーター・ドラッカーの言葉だ。

▼小さく始めなければならない。大がかりな万能薬的な取り組みはうまくいかない。
http://twitter.com/DruckerBOT/status/21925187866
DruckerBOT/ピーター・ドラッカーBOT

狙いは子供たちに絞った方が良い。そもそも様々な「大人」の発言に利権が絡みすぎているように見える。ドロドロの先に、清流がないことは、もはや学習済みだろう。ゆとり教育の反省も活かして欲しい。学習は苦しいものだし、子供たちは大人が思っているよりも大きい、様々な意味で。大人ができることは、その大きな種を育む環境を少し整えることと、大人のドロドロに巻き込まないことだけなんじゃないだろうか。

教育が聖域であり、教職が聖職であった時代は過ぎてしまった。学級崩壊が叫ばれて久しい。それでも、未来はあの並んだ小さな机の中で育つ。英断が成されますように。

以上。/mitsui

  • 当然上記を満たすのはiPadではない
  • Nook的なマルチ画面(表示用+操作用)は現実的だと思う
  • Kindle3は2日早く出荷らしい。待ち遠しい

[162] こだわりと無駄の中で育む力

2010/07/29 14:00  

細部にこだわる。小さなことに見えかねないことで悩む。そんな積み重ねの重みをひしひしと感じるときがある。Webサイトを構築しながら、大きな構造を練りつつ、細部が引っかかってしょうがない。そこを紐解ければ、全てのパズルが解けるかのように全力で、その細部を解決する。勿論、それで万事解決にはならない事の方が多いのは経験から知っている。でも、やらないと気持ち悪い、片付けるとかなりすっきりする。

全然効率的ではない。ある程度の時間をかければ、次に進むべきなのだろう。全体スケジュールを思い浮かべながら、ヤバイよなぁとつぶやきながら、こだわる。ここで頑張っても、誰も気付かないだろな、とか口をつく。

でもいいや、と思う。もう少しだけ時間をかけると覚悟を決める。プロジェクト管理上は、それがいけないのかもしれない。でも自分が納得できないものでは、クライアントに説明ができない。自分の中で、どこかしっくり来るまで、諸々煮詰めなければ、「そこ」に辿り着けない。

「そこ」って何処だよ。自分の中でも悩むときがある。もはやどの会社もWebサイトを持っている。品質上上下の幅は実は拡大しているけれど、保持しているかどうかの指標の方が大きく映る。相対的に圧倒的な個性を求めるクライアントは減っている気もする。5年強前までは、作るなら凄いのを作ろうという野心に溢れたクライアントが、目だっていたし、彼らが牽引した部分は大きい。

でも、目指すべき「そこ」は今もあるのだろうと思う。無理やり存在を信じようとしている部分は自覚しているけれど、ないと困る。達成感という言葉が当てはまるのか、それともゴールなのか。いずれにしても目指すべき到達点。そのために頑張れる、目の前に吊るされたニンジン。

誰が決める訳でもない。個人的な「掟(おきて)」にも近い。自分自身が納得する線を自ら引いていて、それを越えるまでは、なんだかしっくりこない、落ち着かない。意地と言ってもいいかもしれない。

そんな経験が活きて来る場面がある。何もかもが、クライアントのお気に召してしまう瞬間。え?、これも気に入ってもらえるの??、自分でも驚くほどの出来事。不思議な嬉しさの包まれながら、その根底に、重ねたこだわり苦労が横たわることに気がつく。そっか、あそこでこだわったから、あの作業がなんなくできたのだ。

クライアントとの関係がしっくり行くと、プロジェクトもまわる。プロジェクトが回らないから関係が悪化することはよくあるけれど、プロジェクトを円滑に進めるために良い関係を構築すべきなのだと改めて想う。

同じこだわりの海を航海してきた仲間には、不思議な連帯感が生まれる。まるで、同じ会社のようだ。こだわりを共有して、辿り着いたのだ、最早ブラザー(兄弟)じゃないか。同じ課題、同じゴールに取り組み続けるからこそ、成立する共有感。プロジェクトマネージメント(PM)的に言うと、あのこだわりの季節は、チームビルディングにあたる期間だったのかもしれない。

個々の個性とスキルを活かしつつ、同じ目的(サイト構築)のために全力以上の力を発揮できる環境つくり。そう考えると、一朝一夕にできる訳のない話だと思える。多少の無駄がかかっても致し方ない。むしろ、効率的な無駄作業を選んで行くべきとさえ思える。

それがこだわり議論の部分なのだろう。ユーザビリティへの関心が低い人には、まさにどうでもいいような細部に対して、真剣に白熱した議論ができることは、互いの考え方の傾向までも提示しつつ、合意形成のパターン認識の練習とも言える。

Webサイトが一般的になるにつれ、実は開発プロセスは二極化する。いかに早く安く作れるかという方向と、いかに細部にこだわりつつ様々な価値観を収束させて作っていくかという方向。「ポテトも如何ですか?」と紋切型の店員を放置する接客と、相手の顔色を見ながらおもてなしを考えるコンシェルジュとどちらが好ましいですか、という問いで分類できるものだとも言える。

前者は価格競争に呑まれて行くのが分かっている道だ。ある程度は企業努力すべき必須部分ではある。けれど、全面的にモットーとしていくには、Web屋の生活を脅かす部分がありすぎて危険だ。一発芸で散っていく覚悟ならまだしも、疲弊の蓄積の先には明るい未来はない。

それに対して、後者は、理想論に見えつつも、実はニッチ領域、あるいはエッジのきいたユーザやコンテンツ(商品)に活路を見出そうとするなら、全うに見える道だ。そして、実はそうした領域が多くなっていく気がしてならない。十羽一からげ的なコミュニケーションの時代は終わっている。多種多様な商品を多種多様なユーザにマッチングしてあげる時代のはずだろう。

だからWebサイトは、決まったブロックを積み上げて、はい終了という訳には行かない。一見そうであるかのように見えて、実はそうした手抜きはユーザにはバレバレで、そうなっては本来の目的に反して、ユーザとのコミュニケーションに対する真摯さが低いように見えてしまう。

Webサイトは、自己満足のために情報を羅列している訳ではない。いかにユーザを大切に扱っているかを示すためにも、精一杯の分かり易さでお話ししているようなものなのだ。だからこそ、こだわりは必要になる。

こだわりの連続の先での提案に、「おぉ、やるじゃないか」、と言ってもらう。その一言で、それまでの苦労が消える。威張る訳ではない、奢る訳でもない。頑張ったことへの報酬、この一言のためだけに頑張れる魔法の言葉。そして今までの涙が、底力(ポテンシャル)に変わっていく瞬間。そして、連帯感が強まる瞬間。互いにパートナーとして認め合う瞬間。

ここにショートカット(近道)はないのだろう。効率化と声高に叫ぶと、するりと抜け落ちてしまいがちな、大切な部分。回り道のようで、実は王道。これを短期化に拍車がかかるプロジェクトでいかに成すか。大きくも楽しみな課題である。精進あるのみ。

以上。/mitsui

【日刊デジタルクリエイターズ】 [まぐまぐ!]

[161] 電子書籍、突き進むべし

2010/07/22 14:00  

「自炊」と、自己人体実験を繰り返している。自炊とは、書籍を裁断してスキャンして取り込む作業の総称。人体実験とは、どの程度のことが許されて、何にイラつくのかを試す作業。

自炊で言えば、裁断からスキャン、そして検証(ページ落ちやズレなど)までの時間的な測定。多くのデータが、ちょっとググれば出てくるけれど、やはり自分で試さないと分からないことは多い。

特にコンテンツに関する嗜好性によって、設定方法は異なるだろう。私の場合、5割が漫画、2割が小説、残りが技術系。傾向的には漫画は微増(昔の捨てられないものが圧倒的)で、技術系が増加中。共通項は、写真は少ないが図が多い。更に、部分的にカラーが入るものが混じる。総じて漫画は昔の方が手の込んだ製本が多く、自炊にはそれなりに気を使う。

自炊処理としては、単一の処理を集中した方が効率が私には良さそうな感じなので、白黒だけ、カラーだけと処理をして、PDF結合でまとめる。作業的には、3:2位の割合で裁断とスキャンをして、最大でも3時間程度にするのが、苦に感じないコツ。それ以上だと肉体労働色が苦痛に感じだす。また、OCRをかけるとKindle2ではページ送りが極端に遅くなるなど、未だ未だデバイス依存があることも分かっているし、その意味で自炊済み具材を捨てにくい状況が続く(かと言って再度スキャンし直すかどうかは微妙)。

人体実験としては、読む場所や集中度、その他活用に関しての主観的な事柄。克服したいのは、基本的には通勤時間帯。mailニュースやTwitterでの情報収集も有効ではあるけれど、自分がお金を出しても学ぼうとしたことを読む時間がなくて辛い。

▼asahi.com(朝日新聞社):電子書籍、読む速さ低下 満足度は同じ 紙と比較調査 - 文化 http://www.asahi.com/culture/update/0707/TKY201007060729.html

そうした観点では、上記の調査は私にとっては殆ど意味がない。ゆっくり座って本を読むときのデバイス別快適度調査に興味がない。ゆっくり読めないけど、読みたいから工夫している。理想的な読書スタイルが現実的なら、電子書籍は正に本の再現だし、そのUIに勝負が付けば、書架節約率だけの競争になる(それはそれで魅惑的だが)。

ただ、この調査で面白いのは、パソコン(PC)との比較だろうと思う。明らかに、読書に関して低い満足度しか得られていない。

 比較のため、パソコン(PC)でも同じ小説を読んでもらった。その後、使い勝手に関する満足度を7段階で採点するアンケートをしたところ、iPad、キンドル2、紙の本は、それぞれ5.8点、5.7点、5.6点とほぼ同じだった。パソコンは、3.6点と低かった。

ここでいうPCが何を指すのかは、よく分からない。Adobe Readerなのか、他の専用ソフトか、あるいはそれらが搭載されている統合環境としてのPCなのか。私的には、PCは他のことができ過ぎて読書に集中できないことが一番ネックで、次はPDFリーダが貧弱すぎるのが障壁。漫画のトーンの表示に関して比べれば差は明確で、PCではモアレ(網目のつぶれ)が酷い。更に適正な大きさに調整することが微妙に面倒。検索したり、文献をコピーしたりする作業には、最適に近いのかもしれないが、やはり読書へのノイズが大きい。更に考えれば、姿勢なのかもしれない。PCモニターと顔との位置関係は、読書には余り向いていない気がする。

実験の中で感じているのは、PC系(情報操作/詳細検索)+ケータイ系(オーガナイザー)+Kindle系(閲覧)の三種コラボ辺りに収束する予感。それ以上には減らない、そして今PCとケータイで済ましている現状に問題があるのではないかという予想。この三種をの必要性は実は今でも変わりなくて、大抵の会議には、ノートPCと紙資料とケータイはぐちゃぐちゃとACアダプター込みで持ち込んでいる。

会議が集中している日は、溢れんばかりの資料と機材を束ねて、引越ししているような感じさえする。時々はトートバックに詰めて会議室を移動する。無様ではあるけれど、移動が問題なのではない。全てがデータとして管理されていれば良い訳でもない。短い時間内に手際よく諸々決めるためには、PCだけでは余り効率的ではなく、だから工夫している。

映画などに出てくるような、全てのデータがクリック(或いはタッチ)1つで検索されて、見やすく一覧され、更にドリルダウンできる環境は、SIerがそこに価値を認めていない現状では未だ未だ先だろう。しかし、それが達成できたとしても、会議が円滑に進むかというと少し微妙だと思っている。

いつも、頭によぎるのは、「AKIRA」の1コマ。極秘情報が微妙に漏れるきっかけのシーン。膨大な予算案の表の横に、「アキラ」と落書き(メモ)された紙切れ。それが確信や疑念を膨らませて、ドラマの緊迫感を高めた。

思えば、教科書も書かれてあるコンテンツのみが大切なのではなかった。文字が読めないほど描いた落書き、ページの端っこを埋めたパラパラ漫画。授業と関係ないことばかりだった気がするけれど、私にとっては大切な情報だった。

この辺りまで考え出すと、もはや単なるデジタル化だけの話ではなくなる。今まで自分達がしてきた情報処理の根本から再考する必要がある。電子書籍は、そのための大切な一歩だと思う。

デバイスとしては、(主にPDFの)表示速度とメモリ容量が問題となるのだろう。様々な実機を試せる場所は少ないけれど、幾つかの展示会で触ってみている。もっとこうした場が常設されることを期待したい。

モニタ部分が、液晶になるのか、Eink系になるのか微妙だけれど、後者だとしたら、画面のリフレッシュは重要な要素だ。あのチラつきを気にする人は多いだろう。白黒がカラーになるのにも、それ程時間はかからないようだ。けれど、現時点の実験結果からすれば、私には白黒で充分なものが7割以上だと思われる。どれが自分の感覚にマッチするかは、実際に見てみないと分からないだろう、iPod時代のイヤホン選び以上に大変な作業になるだろう。今のうちに目を肥やしておかないと。

あと、iTunes的な母艦も必要だろう。メモリ量がどんなに増加しても、持ち歩くものである以上、紛失のリスクは避けられない。そして、今Kindle2で試している感覚では、最低でも500冊のレベルで持ち歩きたい。馬鹿げた話かもしれないが、iPodで500曲を持ち歩いている人は普通だろう。今に本もそうなる。そして、500冊を持ち歩く=500冊を一度になくす可能性がある、ということだ。だから、母艦が必要になる。バックアップは避けられない。更に、総合的母艦に育てるなら、同じコンテンツの別バージョンに関する割引システムも必要だ。もう、同じコンテンツをベータ/VHS/DVD...と買い換えるのは勘弁して欲しい。

今、書籍系ではこの辺りを利権絡めてゴニョゴニョやっているのだろう。今の書店を守るとかなんとか言いつつ、すっごく使いにくいUIとややこしい手続きが襲い掛かってくるようで怖い。だから、自炊に踏み切った。あと10年位は、PDFというファイルフォーマットは生き残るだろうし、デバイスはドンドンと安くなるだろうし、自分だけの快適さを求めてもバチはあたらないと決めた。

さっさと新しい仕組みに行って欲しい。コンテンツは後から付いてくると思う。それで、教科書のデジタル化と国産Kindleの大量生産まで突き進む。山ほどの場数を短期間でこなせば、あっという間にデジタルリテラシの上昇に寄与するだろう。その子達が、世界に出て行く。そういう投資を選ぶべき時に来た。この話は、また別の機会に。

▼環境設定メモ:
  • 裁断機:楽天オークション系で購入
  • スキャナ:ScanSnap1500をヤフオクで入手
  • 書籍:BookOff系の主に100円もの(未だ自分の財産には手をつけられない)

以上。/mitsui

【日刊デジタルクリエイターズ】 [まぐまぐ!]

[160] GDP世界2位なんて、忘れてしまえ。

2010/07/15 14:00  

威勢のよい講演だった。日本の低迷を嘆く話の流れで、この台詞が飛び出した。「GDP世界2位なんて、忘れてしまえ」。あの米国に次ぐ成長を達成したなんて、成功体験があるからこそ、もう一歩先に進めないのだ。失うものなど、既にない、チャレンジのみ。壇上から、振り下ろされるように叫ばれた言葉は、そんな栄光に彩られた記憶がない私にもビンビンと響くものだった。

講演とは無関係ですが、日本のGDPに関しては、下記などをご参照を:
▼大前研一「ニュースの視点」Blog:KON284 日中GDP逆転の衝撃 ~自滅しつつある日本経済~大前研一ニュースの視点~
http://www.ohmae.biz/koblog/viewpoint/1415.php

過去の成功体験が、次の一歩を踏み出すブレーキになることは多々ある。ドラマでも、自分の体験でも。少し上の目線から俯瞰すれば、きっと何にしがみついているんだろうと思えるほど可笑しな事なのだろう。けれど、その時の本人的には、様々な比較が脳内を走り巡り、失敗したときの恥ずかしさや不名誉ばかりが浮かんで、体がますます重くなり、決断がますます鈍くなる。

そうした時の処方箋は、ほぼ確定している。過去のことなど忘れてしまえ。新しき挑戦者として課題に対峙せよ。恐らく、これ以外にないのだろう。自らの判断力や即応性を縛るものから開放されなければ、大きな挑戦が成功する可能性は少ない。

10年以上も虜になっている「蒼天航路」にも同じような(真逆とも言えますが)台詞がある。「いいか! 呂布(りょふ)という名なぞ忘れてしまえ!」。猛将呂布と戦うと決めた曹操が、自国の穀物の取れ高から、兵卒数を算出し、理詰めで決戦の構図を決めようとした時である。計算上、収穫作業を優先すると、最強とも言われる呂布に対峙できる兵力は、余りに小さく絶望的なものだった。

▼mitmix@Amazon - 極厚 蒼天航路(3) (モーニングKCDX)
http://astore.amazon.co.jp/milkage-22/detail/4063757560
第97話:誘いの王

しかし、それで戦わねばならないのだ。兵力の計算と、戦地の選定、戦術の策定。それぞれを軍師に負わせ。他人事ではなく、自分事として、戦いに臨ませた。その時に発したのが、「呂布という名なぞ忘れてしまえ!」だ。

名を巨大な実(じつ)として捉えるから、縮こまってしまうのだ。萎縮しないで戦うには、最強という冠の付く名など忘れてしまってよい。敵は、単に敵なのだ。後先考えない猛進にも見えるけれど、人生そんなことが必要な時もある。

過去の栄光に縛られる。虚実に関わらず、名(声)に縛られる。今、対峙している何かを、別の何かとして捉え違いをして、残念な方向に進む。そんないつものこととも言えるルートを考えている。

それは、頭の中で声がするからだ。「Webなんてことは、忘れてしまえ」。クライアントの求めるものを探り、アイデアを練るうちに、ネットの常識を尊重すべきところと、そんな常識など忘れてしまえという両面の心境になる。

人と商品、人と企業。人と人。様々な結び付きをデザインしている、実は。時々何をデザインしているか迷子になるけれど、生業の根底はここなのだ。アウトプットの形として、「技術」や「表現」が占める割合は多いだろうけれど、ここの中心軸がぶれると、余り良いプロジェクトという印象が薄いものになる気がする。

クライアントのリクエストや諸々の政治的課題に対して解をゴニョゴニョしたり、ユーザテストの結果とそのユーザの属性との間でモンモンとしたりしている日々の中、「あれ?、俺何やってるんだろう」と立ち返る瞬間がある。その時に明確な答えが出たり、疑問の発端が単なる疲労だと認識できているプロジェクトは大丈夫だろう。でもそうでないプロジェクトも多々ある。

そんな時に、「Webなんてことは、忘れてしまえ」と誰かが囁く。Webの流儀を軽視する訳ではない、今までの実績や考え方を否定する訳でもない。でも諸々の諸事情から解き放たれた場所で、課題を検討すべき時だと声がする。

その時が訪れないまま完了するプロジェクトは幸せなのだろう。でも、設計や開発が進む中で、そうした根底部分を再考する機会がないというのも、どこか淋しい。頭の中では、毎回問われ答えているループ的問題の一つではあるだろうから。

冒頭の講演に戻ろう。過去の名声なぞ忘れてしまえ、と言い放ちつつ。彼がセッションの最後に見せたのは、広島の写真。戦後の爆心地となった痛ましい写真と、今の写真。これが、どれ程の「希望」になっているか、と続く。

特に中近東の人たちにとって、数十年でのこの復興は、奇跡であり希望である。日本に住みながらも、この2枚の写真の連続性に驚き息を呑む。遠い国、更に焼け野原や荒地が続く国の人たちから見れば、インパクトは否応なく大きいのだろう。

自分の、自分達のなし得て来たことは、自分のためにはあらず、なのかもしれない。自分にとっては「忘れてしまえ!」の対象であり、でも他者にとっては大きな励ましであったり、目標であったり。

そうした想いの絡み合いが、綿々と続く。ネットやWebが、10年前とは異なる定義になりつつある今、その織りなす先に、更に興味が湧いて来る。どこまで、どんな形で、この織物は続くのだろう。ワクワク。

以上。/mitsui

【日刊デジタルクリエイターズ】 [まぐまぐ!]