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[148]今までの技術、これからの技術

2010/02/18 14:00  

AppleとAdobeのFlashを巡る抗争を斜め見しながら考える。浮かぶ言葉は、未 来への視点と、お節介あるいは介入。

伏線は、そもそもiPhoneでFlashが動かないこと。それが、その大型版とも言 えるiPadでも、Flashが現状動きそうにないことで議論が加速した。世界的に ヒットしているデバイスと、ヒットするだろうデバイスでの未サポートという 事実、そもそも根強い反Flash派の流れと、HTML5への楽観的な期待とが織り交 じっているように見える。

整理すると:

  1. iPhoneにはFlash Playerが搭載されていない
  2. iPadにFlash Playerが搭載されない模様である
  3. Flash Playerが却下された理由は、メモリ消費量も含めたデバイスへの負荷と、バギーであることへの嫌悪感があるようだ
  4. Flash Playerは、ヴァージョン毎に普及率は異なるが、基本的には殆どのブラウザに搭載されていると考えてよく、それを前提にしたサイトも多い
  5. Adobeは、Flash Player 10.1にて、メモリ消費量を押さえた、軽量改良版を投入予定
  6. HTML5のcanvas機能は、表現能力としてFlashに近く、W3C標準の流れであり、非常に近い将来にはプラグインなしで多くのブラウザで利用が可能

結論から言ってしまうと、私はAppleに正義はないように思っている。私が望 む未来に、Apple製のデバイスが含めなくなってきていると言うべきか。

●未来への視点/過去への視線

インターネットが普及しだした頃、いや今でさえ、見ているものは最新ニュー スだけのように感じてしまうけれど、実は使っているのは、過去からの蓄積情 報の方が多いと思っている。最新ニュースは日々、慣習的にも見て回る。それ によって一喜一憂しているのも事実。でも、検索窓に何か文字列を打ち込み、 探し回るという極めて能動的な情報収集は、最新情報というよりは過去のもの の方が多い。すなわち過去の情報が見られないほうが、能動的な検索活動にと っては面倒が多い。

検索するノウハウなり情報に、Flashが使われているか、と問われればほぼNO だと答える。でも、その情報の周りに配置されているものに、Flashが含まれ ていることは極めて普通の状況だろう。Flashが見られないということは、代 替のイメージなりを置くという処理をしていれば、まぁ見られなくはないだろ うが、多少の窮屈さや不自由さは感じるだろう。

ただ懸念しているのは、現実的にどこまでFlashがないと困るかではない。デ ファクトスタンダードを無視する、という決定をする姿勢である。エンジニア であれば、過去からの決別がそれほど容易でないことは、普通は知っている。 ましてや、Appleは、OS9からOS10へのユーザ移行を奇跡的に進めた企業である。 過去(の情報やアプリケーション)を切り捨てられれば、更に未来に進むこと がどれだけ楽なのかを何度も考えた経験もあるだろう。それが、Webという情 報蓄積の仕組みの中の、過去に対して責任を感じていないように見える。

HTML5がFlashの代替になる。それが事実だとしても、今あるサイトにおいて、 わざわざリライト(書き直し/作り直し)をするかと言われれば、これまたNO だろう。予算の関係もある。現時点の景気を考えれば、投資に値するプロジェ クトだとは考えにくい。しばらくは、Flashコンテンツは多々存在するのであ る。そんな状況を考えると、Flashの非サポートという指針を軽々しく示すの は、ユーザ軽視としか映らない。それは、Flashが使われることが皆無、ある いは稀になってから口にすべきことではないだろうか。

●お節介あるいは介入

既に開発姿勢というか、ユーザへの対峙姿勢の領域に入っているが、過去(デ ータ)との決別が、バギーさなど技術的に見てiPadを安定稼動するためには必 要不可欠だという経営判断だとしても、それこそに嫌悪感を感じてしまう。

それは、ある悪夢を思い出すからだ。Microsoft(MS)を嫌う理由につながる 事柄だ。MSが少し前まで極端に嫌われてきたのは、お節介を強制するためだっ たと思っている。データの使い方、見方、さまざまなことに彼らの流儀を押し 付けてくる姿勢。HTMLという標準がありながら、できの悪いIEの解釈を正しい と押し付けてきたことがその最たるものだろう。

コンテンツの見方は、ある規定に則りさえすれば、ツールベンダーがとやかく 言うべきものではない。ブラウザごときが、ユーザ様の見方に物申すこと自体 に怒りを感じる。ブラウザは正しいHTMLを正しく解釈すればよいのであって、 それ以上のことは余計なお節介だろう。

しかし、それほど嫌われたMSも、最近は叩かれない。私の中でも、諦めの境地 の部分もあるけれど、今までになく平和関係が保たれている。何故か。標準を 意識してきたように見えるからだ。世界中からのIE6駄目っ子宣言にも言い訳 をしない。積極的に過ちを認めているようには感じていないけれど、それでも 彼らもこの駄目な子に手を焼いている。彼ら自身のマイグレーションの妨げに なっているからだ。

皆が絡み合って進んでいく世界観を、だいぶ周回遅れの感はあれど、学んでい る。叩かれるたびに、これでもいけないのかと溜息をついているようにさえ感 じる。自分達とユーザとの差異を意識し、学んでいるように見える。そして、 それは方針転換というトップダウンではなく、MSに入ってくる社員達が、非MS ワールドからも多くなってきているためではないかと予想している。

仮に報道されていることがらだけが真であるなら、Appleが今やっていること は、昔の嫌われ者のMSっぽい。昔から排他的で我が道を行くという姿勢はあっ たけれど、普及率98%のデータ形式を全くサポートしないという姿勢が本当だ としたら、それは随分な話だろう。

さらに、iPadの利用シーンを考えると、そのお節介さと違和感が尚さら鼻につ く。ソファーに座ってネットも利用する、そんな時間を演出し効率化するため の道具なのだと予想している。大型化するTVを利用したコンピューティングよ りも遥かに現実的だし、皆で凝視するというよりも極めて個人的に文庫本を読 むかのようにネットするという未来に、きれいにはまる。DSなどのゲーム機で もなく、Kindleのようなほぼ読書に特化したものでもない道具。そこへのニー ズは高い。いや、他人事ではなく私が欲しい。

自分自身のパーソナルな時間を共にする道具。そこにベンダーの趣味やお節介 が入り込むのは、辛い。かなり辛い。私が何を見たいかは、私が決めたい。見 られるようにだけしてくれ。技術的に無理ならしかたがないが、極力束縛は勘 弁して欲しい。そのためにOSが落ちても、私は我慢する。30秒でリブートする なら、昔に比べれば天国だ。それくらい、ユーザには耐久性はあるんだよ。だ から、Macのシェアがある一定線から下がらなかったんだよね、皆我慢しなが ら支えていた。

ただ、常に用意周到にデモをするApple(というかJobsというか)が、わざわ ざFlash未サポートと分かることを行ったことに、何かしらのあざとさを感じ るのも事実だ。普通に考えて、もっとビジネス的な視点での仕掛けを考えてい ると考えるべきなのだろう。

iPadの発売まで1か月ちょっと。様々な未来を夢想するチャンスでもある。も っと色々と感じ考えて行きたい。

以上。/mitsui

[147] 今までのWeb屋、これからのWeb屋

2010/02/04 14:00  

今までのWebは、これからのWebと違うのか。今までのWeb屋と、これからのWeb屋は違うのか。

最初の問いに対しては、本質的な部分では変わらないんだろうなぁと思う。でも、次の問いに対する答えは、違うんだろうなぁというのが本音。立ち上げメンバーと、その拡張メンバーとは、求められる資質が違うのではないだろうかと思うのがその根底。初代社長と二代目社長といったところか。

Webの黎明期に、Webを知らしめるために、文字通り骨身を削ってきた人の蒔いた種は、同じ努力をしなければ刈り取れない種類の実を結んでいる訳ではない。そう思うのは、蒔かれた種が荒地を平らにするためのものだったはずだから。そしてそうでないと報われない気がするから。

情報が走り回れず、特定の場所や人に縛り付けられていた時代。そんな不自由さを知っていたから、使命感も育った気がする。俺がやらねば、この情報はここで死ぬ、それで良いのか。こんなに情報が生き生きと飛び回る、俺がやるんだ、もったいなくて他人には譲れない。様々なレベル感と価値観と悲壮感と使命感とが織り交ぜられて、情報は宙に放たれ続けた。

見ている側は、ただただ驚きや感動をもって受け止めたかもしれないけれど、作り手はかなり頑張ってた。そして、頑張って(意識しながら)ショックや驚きを提供した。それは既存の仕組みに呑みこまれない様に、少しでもアクセルを踏んで加速できるように、未来を1ピクセルでも近くにするために。

でも、それも10年強続ければ、道もできるし、歴史も残る。頑張った実績がきちんと、次世代が通る道を整備していく。同じだけ頑張らないでも同じことができるようになるのが、進歩。使い物にならなかったツールは、重さの難点に目をつぶると、既にかなり良い線まで来ているし、教え方もレベルアップしている。コードサンプルも要点が明確なものがすぐググれる。

黒電話でジーコジーコやっていたことが想像すらできなくなるように、今では自動ドアではないドアの前で開くのを待ってしまうように、ピーガラガラガラというモデム音の記憶が薄れていくように、Web黎明期の苦労は見えなくなっていくのだろう。でも、見えにくくなるだけで、消えては行かない。何かしらの芯として、情報流通の根底を支えるものと化していくのだと思っている。

前回書いたように、「どの会社にも(サイトは)ない」時代から、「どの会社にも(サイトが)ある」時代。それぞれの時代に必要とされるものは当然異なるだろう。誰もが持っているのだから、その気になれば比較がし易い。自社サイトを作る前に、競合サイトをそれなりに見て回れば、それだけである程度指針が見える。見えなければ、担当者としてちょっと淋しいとしか言いようがない。

指針を見据えた上で、戦略を決める。横並びになることをゴールにするのか、先んずることをゴールとするのか。体力、予算、能力、時期。様々な要素があって、ゴールを決める。どっちが良いとかの問題ではない。何が必要なのか、だろう。横並びを選択したなら、スタンダードと呼ばれるものをとにかく探ればよい。コンテンツの種類からその並べ方、遷移の仕方、様々な標準的なものは少しの検索時間で簡単に手に入る。でも先んずることを選ぶなら、様々な問題が起こってくる。業界的に新しいこととなれば、それは尚のことだ。それらを解決していかなければ、公開まで辿り着けない。

システム的な壁、表現の壁、対話の壁、部署間の壁、様々な壁の向こうにゴールがある。苦労はあれど、達成感も大きい。そして、信じるものが正しいと実証されたときの喜びの大きさは経験した者しか分からないだろう。アクセスログを眺めながら、単なる数字の羅列なんだけれど、その増加に涙が出てくる。頑張ってよかったと心から思う。黎明期は手探りの開発が多かったから、そんな感動が様々な場所で見られた。

目新しいアイデア、目新しい表現。未だUIが試行錯誤している時代は奇抜なものも採用されやすかった。それは、その時代にWeb経由で何らかのコミュニケーションが取れるようなユーザに対しては、そのようなアプローチが向いていたからだと思う。戸惑うようなユーザインターフェース(UI)でも、そこに驚きや感動があれば、何の支障もなく何度も訪れた。そのWebサイトのマナーが悪いから戸惑うのか、それとも自分の感覚が悪いから戸惑うのか。多くのユーザは自分の感覚やセンサー自身を疑いながら、鍛えながら、ネットの奥底へと進んで入ったように思う。

それが、総ネットユーザ化にもう少しのところまで来た。高齢者の中には未だネットに縁遠い方々もいるだろう。でも、これからでも孫達が誘導するかもしれない。公共的な情報には興味がなくても、親近者の情報への想いは熱く、それがモティベーションになったりするだろう。更にネットは、PCサイトだけではない。モバイルサイトをWebとは意識せずに使っている人も多いだろう。いずれにしても、既に現状でかなり行き渡っている状態になっている。

対象ユーザが入れ替わった状態というべきなのかもしれない。期待されることが変わってきたと言うべきかもしれない。道具が行き渡れば、奇抜なものよりもオーソドックスなものが、総量的には多くなる。奇抜なコンテンツでさえ、馴染みのある親しみ易いUIで操作されるべきだと考える。もはや「ビックリ箱」を望む場よりも、「あって安心・使って納得」を望む場が増えるのは道理である。

更に、システム的な要件も増えた。もう数年前になるけれど、社内で予算をかき集めて、小さなサイトを作ろうとした時、社内規定に従ってセキュリティを保とうとすると、予算の8割がセキュリティのために必要になった。それではコンテンツに使える予算がない。店は規定通りには作れるが、並べる商品がない状態だ。

でも逆に様々なWebサービスやAPI(Application Program Interface)が活用できるようにはなった。いわゆるマッシュアップ。全部を自分で開発する必要がない。その意味でサイト構築の敷居は確実に下がっている。でも、スタートがしやすくなっただけで、本格的な戦略にそってWeb(サイト)を活用しようとしたなら、実は越えるべき山や壁は以前より遥かに高くなっている。ITの進歩は、リスクの増大とコインの裏表の関係のようなものだから。

そしてWebサイト(Web活動やWeb戦略)自体が、4大メディアの活用路線と入れ替わるように広報活動の中心的な位置に来るようになってきた。アクセスログを生で見れることは、広告代理店という中間層を軽減し、自力でやって行くための道でもある。エンドユーザとの接点をそれまで持たなかった(持てなかった)企業が、いきなりそれらを持てるようになった。

Webでできることと、すべきことは、企業の規模によってもかなり変わる。ブランディング戦略は、多彩なグループ会社や商品構成があるからこそ考慮すべきことだし、多部署間調整はそうそう性急には進められないし、進めては軋み(きしみ)がでることも多い。ゆっくりと進めるべき事柄があり、何よりもスピードが求められる案件も存在する。後者はこれから新サービスを立ち上げて業界に打って出るようなプロジェクトが多く、阿吽の呼吸で共に活動してくれる小規模Web屋が適しているとも言える。前者は大企業が多く、どっしりと社内ネゴにも耐えられる品質のドキュメントが必須のものも多い。

情報の開放が、黎明期とは異なるステージに上がってきて、求められるレベルも広がった。どこまでやるのかが更に決めづらくなり、意思決定の大切さが増し、HTMLや技術的なものでカバーできる範囲が相対的に狭まりつつある。

ということで、Webの本質が明らかになるにつれ、Web屋に求められるものが変わり広がっている、と言った方が正しいのかもしれない。黎明期に見えていたWebの姿は、実はまだ片鱗で、もっともっと浸透して広まった今、更に裾野の広さが実感できるようになってきた。そこに人的・技術的な世代交代とが重なって、再び混沌とした状態になりつつある。でも以前よりもずっと静かにその混沌は進んでいる。

それでも、今までやってきたことが無駄になるわけではない。あくまでユーザのニーズに目を向けていた視線の先にある未来にブレはない。私達は変わっていくしかないのだろう。でも本質は変える必要はない。もっと本質を見据えればよい。道は続く、進むしかない。その先の広がりを求めるならば、尚のこと。

以上。/mitsui

  • なんとなくtwitterの面白みが分かりかけてきた気がする。mixiより時間かかった。
  • 今日は母の命日。様々なことを思い出す。