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[150] 探す/伝える/結ぶ

2010/03/11 14:00  

Twitterで不満を述べた結果、その不満解消に一歩近づけたという話が増えてきた。企業と個人がダイレクトにつながった好例なのだろう。

サウスウエスト航空の乗客が怒りをツィートして、その結果お詫びのメッセージと次回無料航空券をゲットした話があった(らしい)。Twitter凄いな、と思いつつ少し引っかかった。いやいやちょっと待て。そもそもサウスウエスト航空はユーザ重視指向性の強い会社だ。目の前の仕事に注力する前に、目の前のお客様が望んでいることを考えようとする風土がある。そっちの方が鍵なのではないか。

そもそもお客様サポートという部隊はどこでも持っている。アンケートだってどの機内誌にもついてるだろう。ましてや、口頭で言おうと思えば、空港中にいるその会社ロゴを付けている人全てが窓口だ。ユーザの声を集める仕組みはなくはない。

そうした窓口にクレームを言うあるいは書くという行為の敷居の高さはある。レスポンスも早いとは言えないかもしれない。でも、そうした場での振る舞いをきちんとしてきたから、Twitterという波が来ても即対応できたのではないだろうか(検索すると幾つかの失敗の歴史も見れます)。

Twitterに限らず、ネットでの発言は広がりやすい。それは今に始まったことではなく、路上で大声でクレームを叫ばれているのに等しい。更にそれが人という媒体を通して増幅減衰されながらこだましていく。残響のように延々と残る場合もある。それに眉をひそめることもできるが、真摯に向かい合うこともできる。リスク管理として実直に取り組む企業も多い。

情報が、TVのコマーシャルでガンガン流され、紙メディアでダメ押しをする時代が衰退していき、ようやくネット特有の文化が定着のレベルで広まっている。商品をネットで初めて知り、興味を持ち、評判を見て、購入するなり更なる評判を書く。一般ユーザはここ10年で確実にネット社会での振舞いを学習し、身に付けて行っている。

mailで連絡し合い、自分のサイトを作り、Blogに乗り、mixiにはまり、SNSをやりつつCGMに加担し、オークションで売買し、アフィリエイトで小銭を稼ぎ、Twitterでつぶやく。しかも、パソコンなしでケータイでそれらを苦もなくやっていく人たちもいる。肩肘張らず、自然体に新しいことを覚え、試行錯誤し、馴染み、自分色に染めて、更に発信する。

勿論それらができるのは総人口から考えると未だ未だ少数派だろう。でも何事もアーリーアダプターがいて、広まっていく。その中で、更なる試行錯誤が起こり、喧嘩も起こり衝突も起こって、新たなルールや秩序が生まれていく。それらも数ヶ月のスパンで徐々に崩壊し再生し育っていく。

個人がネットを受け入れて生活自体を変えていき、ネット自体、社会の一部として何かしら変化をしながら広がって行く。でも会社はその最後にやってくるようだ。看板のような形としては早かったのかもしれない。もはや自社サイトがない企業は珍しいだろう。10年前には想定しなかった予算がここに使われている。

でも、その後が続かない。看板を立てて満足してしまったようにも見える。その看板がどのように見えているのかを気にしない。でも紋切型の情報提供の後に続くものがある。それがコミュニケーションである。挨拶をしてから握手をして友人になっていく、そんな関係性の育成が、企業と個人の間で成立するのである。10年前はおとぎ話のように聞こえたかもしれないけれど、実際にそれらは起こっている。

CMを見て検索し、思いついては検索し、人との会話の中でひらめいてアクセスし。企業や商品と、人との距離感が明らかに変わり始めている。コミュニケーションのスタイルが変わってきているのだ。

その最たる部分が、今はTwitterなのだろう。ようやく企業Twitterも始まり、面白い動きが出てきている。こんなコミュニケーションが成立するのかと驚かされることも多い。いきなり有名社長と話ができたり、提案ができたり、担当者に感情移入したり応援したり。

でも、未だ未だ道が定かではない。どこに向かっているのか分からない。広告代理店を通さずに、ダイレクトにコミュニケーションできることに直面して、未だに困っている感がある。だから最近の企業Twitterも名物担当者で終わってしまう危惧がある。企業として、個人ユーザに真剣に向かい合っているんですよ、と伝えるべき場面なのに。

双方向コミュニケーションという言葉を、技術用語として捉えていたんだろうなと、自分でも思う。話ができる二人(企業と個人ユーザ)が出会えば、そこには必然的に会話が生まれるのである。何を話していいか分からないでは済まされない場面も多い。

Web屋はそういった領域でも呼ばれ始めている。より現実的な戦略策定の場である。単なるグラフィックでも、情報整理でもない。事業計画に密接に関わる部分で必要とされ始めている。それは嬉しい。かなり嬉しいと言って良い。

そんなWeb屋の進み方を考えながら、ちょっと前に、自分でネットって何だろうと考えた図を思い返す。ネットの本質は何かを省くもの、何かを集めるもの、そして何かを広げていくものなのだろう。その上で、ユーザも企業もどう使うか。それは探す/伝える/結ぶの3点だろう、と。

▼探す
情報を探す、モノを探す、技術を探す、人を探す、熱意を探す、チャンスを探す
▼伝える
人を伝える、情報を伝える、技術を伝える、想いを伝える、熱意を伝えるチャンスを伝える。
▼結ぶ
人と情報を結ぶ、人とモノとを結ぶ、人と技術を結ぶ、人と想いを結ぶ、人と人とを結ぶ、人とチャンスを結ぶ。技術と技術を結ぶ、技術とモノとを結ぶ、技術と情報を結ぶ、技術と想いを結ぶ、技術と人とを結ぶ、技術とチャンスを結ぶ。情報と情報を結ぶ、情報とモノとを結ぶ、情報と技術を結ぶ、情報と想いを結ぶ、情報と人とを結ぶ、情報とチャンスを結ぶ。
そして、ビジネスとビジネスを結ぶ。

的をはずしてはいない気がしている。さて、何と何を結びつけてこうか。

以上。/mitsui

[149]ふたつの工事現場、普通化するネットという道

2010/03/04 14:00  

そろそろ年度末である。道路工事を見ながら思う。またこの季節になったなと。同時に before/after の道路の状態と働く人々を想う。綺麗になった頃だけは、評価され、工事中も含めて記憶にも残らない道路工事現場の方々。

未だ子供だった頃、家の周りに舗装されている道は少なかった。目の前の道で、ガリガリと棒切れで絵を描き、ケンケンパと遊んだ。雨の度にどろどろになり、それがまた楽しくて。思えば、そんな時期の方が遥かに短いと思うくらいには生きてきたけれど、強く季節を感じさせてくれた。

それがいつしかアスファルトに変わっていく。もう道端で遊ぶこともなくなった頃だったのかもしれない。それでも真新しいアスファルトの匂いの中、自力で何かした訳でもないのに、なんだかレベルアップというかステージアップしたような錯覚にとらわれたのを憶えている。

アスファルトを流し込み、それをローラーで圧着(?)していく。その工程を見るのも好きだった。怖そうなおじさんに、おらあ見てねぇでどっか行けと言わんばかりに睨まれたものだ。

それがどこでも普通になっていく。今や舗装されていない道路に迷い込んで、ガタガタとした道からの直接信号を受け取ることはほぼない。同時に、工事をじっと眺めることもない。時々見かける女性警備員の姿が珍しかったり、余りに車をさばくのがヘタッピなおじさんの時だけ意識を向ける程度かもしれない。

綺麗であって当たり前。きちんと通れて当たり前。何か特別な配慮を忍ばせても、多くの利用者には分からない。でも、きっと目利きの担当者には、いい仕事をしているのかどうかは分かる。できの良い工事とできの悪い工事があるのだろう。綺麗な道と、そうでもない道とがある。でも、でも、綺麗だからと言って工事費用が高くなる訳ではないのだろうな、と。端っこの方が多少残念な仕上がりになっていようが、期間内に終わらせることだけが評価対象なのかもしれない。

そして、そんな当たり前の工事現場があり、もっと注目を集める特別な工事現場がある。スポットライトの当たり方は違っても、そこを通る人達の快適さを支えるための基礎技術は、恐らく変わらない。そして、安全にその工事を進めることも、基本の部分では変わらない。

道が綺麗かどうか、記憶にも残っていない。家でさえ、取り壊しのときになって、あれ、ここに何が建っていたっけと思う。その前の道にどんな表情があったかなんて、考えもしない。それくらい当たり前に、何かが壊され、何かが新たに建てられる。そして当たり前のように風化が進み、定期的にメンテナンスが行われる。とどまるものは何もない。

硬いアスファルトを見ていると、それが磨り減って行く事なんて余り想像しない。できない訳ではないけれど、しない。でも風化していく。気がつかないけれど、消耗していっている。

見えない消耗と日々戦っている人たち。気がつけば朽ちていたと、なる前に対策に着手する。計画的に、数年かけて、あるエリアをくまなく舗装し直すのだろうか。

自分たちのことのように思う。我々もそこに属するのだろうと思う。何を想って実装しようが、その上を人が通る。恐らくは削りながら。どんな想いを込めて作りこんでも、それに気がついてくれる人は未だ未だ少ない。でも差はある。差はあると信じたい。

あの人達は、深夜、どんな気持ちで穴を掘り、アスファルトを流し込み、一息入れているのだろう。そういえば、生活時間帯も似通っている気がする。方や、その時間しかできない工事であり、片や祭っ(炎上し)てその時間になっている部分が多いという決定的な違いがあるとは思うけれど。直接話したことはないけれど、きっと使命感があり、楽しさを感じる部分があるんだろう。

きっと、工事の人たちから見れば、我々のモニターにかじりつきながらコーディングやピクセル着色の面白さは分からないかもしれない。我々も、ツルハシの重みも責任も楽しさも分かるとは言えない。でも、お互いの仕事が全くなくなる未来は、そう簡単には来ないだろう。

車が変わろうが、デバイスが変わろうが、そこを走る人間の傾向は急激な変化をしない。でも徐々に変わっていく。それこそ磨耗しているのが分からない道のように、徐々に。でも微細な動きに思うけれど、振り返ると我々は想像以上に遠くに来ている。今でも思う。ほんの10年前に夢想していたことが、いま手のひらの中で動いている。多々不満はあれど、望んでいた未来の片鱗ではある。

95年前後のパラダイムシフトと叫ばれた頃から、時代が何回か回った気がする。そして、ネットが「普通」になった今、実は更に大きなパラダイムシフトが迫っている気がしてならない。目立った花火ではない。メディアも取り上げにくい微細な動きの連動。でも着実に、一人一人の生活を押し上げる地殻変動。その前兆として、ネットユーザがごっそり入れ替わったとさえ感じる局面も出てきているのではないだろうか。

我々は、そのうねりの中で、様々なことを行っている。その営みの中で、デザインという言葉のもつ意味も、コミュニケーションの実体も、やはり徐々に変えていっている気もする。Webデザイナの未来は、その辺りをどう考えるかによって、明るくも暗くもなる。

そういえば、真新しいアスファルトに、砂埃まみれの運動靴で踏み込んで、その足跡を見つめて、汚してしまったという罪悪感と、初登頂という偉業感の両方を感じたものだった。

無垢の未来に足を踏み入れるのは、実は実は作り手だったりする。そのワクワク感も、この世界から離れられない理由の一つだ。そして、無垢なキャンバスは、かなり技術よりな部分ではあるけれど、未だ未だ広大に広がっている。

デザインができること。コミュニケーションができること。技術ができること。そして、作り手ができること。我々の、利用者としての我々の生活を豊かにする術。激動は止まってなんかいない。

以上。/mitsui

  • 会社の近所に24時間のドンブリ屋さんがオープン。かなり嬉しい。