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その晩

その晩、私は1日ぶりの我家に帰る。とても一晩を助産院で過しただけと は思えない疲れがある。しかし、気が立って寝付けない。胎教に悪いと敬 遠されていたビデオ[1]を借りてくる、「ブラック・レイン」。癌である 事を知りつつ熱演する松田優作氏がそこにいる。良くできた映画だ。しか し、小さな命の誕生に立ち会ってきた目には、自分の中で生死に対する感 覚が麻痺しかかっている事を痛切に訴えるように映った。ショッキングさ を売り物にする毎日に浸りすぎているかもしれない。

[1]ショッキングなシーンの多発するビデオは妊娠5ヶ月頃から御法度。

翌日の日曜日、昼までゆっくりと休み、助産院へと向かう。一晩中泣き続 け、妻がろくろく眠れなかった事を知る。私の前では常に「良い子」であ る、すやすやと眠っている。助産婦さんから、一晩泊まって妻を休ませな いかと提案される。願ってもないことだ。まるで、民宿に泊まりに来た様 に3人で「家族」というものを感じていた。その晩、噂通り3時間毎に子 供は泣くが、それほど苦労もなく収まってくれる。助産院の方針で未だ食 べ物(ミルク)は与えられない。胎内にいた時の名残を排泄させるために、 水酸化マグネシュウム(通称:スイマグ)を水で薄めて与える。生後1日 で、金属製のスプーンで与えるのだ。初めは何だか残酷な様に感じた。御 腹に居た時も、聴診器の様な金属製のモノをあてると、ビクッと反応した のを思い出す。妻はそれを「嫌がっている」と言って居た。しかし、小さ な唇にスプーンを何度か当てている内に必死に飲もうとしてくる。一晩の 内に、助産婦も感心するほど飲んでくれた。飲んでは眠り、眠ってはぐず ついて、再た飲む。私の腕枕で休む息子は想像以上にいとおしい。子供好 きで、10才離れた弟がいる私は、きっと我が子でも今までと同じ位の可 愛さだろうとタカをくくって居た。しかし、そんなものではない。正に目 の中に入れても痛くないほど可愛い。驚きだった。