「最近の子供は目が肥えている」。最近朝日新聞のどこかの特集で語られた言葉。語ったのはゲーム業界の方で、何がウケるのか予想が付かないという趣旨だった(確か「学ぶ意欲」という特集だったと思ったんですが、見つけられませんでした)。
でもこの言葉を何度か読み返して、自分の体験も踏まえて考えると、なんとなく違和感があった。そもそも作品は本気で作られているのか、という素朴な疑問がそこにある。ゲームはド素人なのでテレビで考えてみる。
私は1963年生まれ。アニメやプラモの活気のあった時代に育った。余り裕福な家庭ではなかったので、飽きるほどそれらに浸った訳でもなく、その頃の映像には未だにキュンとする。ウルトラマンや仮面ライダーやゴジラなど、その頃のヒーローは未だに心の中では大きな存在だ。子供とテレビを見る時も、平成ウルトラマン3部作なんかは、私の方が真剣に見ていた。
実はここ1年殆どテレビは見ていないのだけれど、少なくとも1年前の状況では、この作品本気で作っているんだろうか、と首をかしげる作品が多々あった。今でもそれなりに人気がある作品でも、戦いの最中に突然「愛」とかいう言葉が唐突に出てきて、それまでの力比べ体力勝負戦がいきなり一見高尚な戦いになったりしたものがあった。それまでのストーリーの流れから見て、余りに場違いな結論。今までは何だったんだ、そんなんで納得できるのかと怒りさえ感じる。一応一緒に見ていたけれど、噴出してしまい、隣で真剣に見ていた子供に悪いので咳でごまかしたりしたものだ。そもそも、キャラクターデザインからして、これって最終稿なのかと疑問に感じるものまである。
もちろんそんな作品ばかりじゃない。平成ウルトラマンは自分と同世代の、昔ウルトラマンに憧れた世代が作ったものに相応しい出来だったし、真剣さがにじみ出ていた。仮面ライダークウガだって、制作スタッフの情熱が画面からほとばしる感があった。所詮怪獣モノだと、ともすると手を抜いてしまうモノに、本当に真剣に取り組んでいる姿が、確かに伝わってきた。ありきたりの答えではない何か、それを考えて台詞にし映像を撮る。見る者に、「こいつら本気でやってる」と思わせる何か。
メフィラス星人やジャミラ、クレージーゴン...目を閉じるまでも無く、当時インパクトがあった話は頭に浮かぶ。それを見て育った同世代が当時の疑問をぶつけてくる。どうしてウルトラマンは1人でなにもかも背負い込んで戦わなければならないのか、人間はただ見ているだけなのか。当時の疑問に最新のCG映像で自分達なりの答えを伝えてくる。奇麗事で何でも済ます大人は卑怯なのか。「でも、奇麗事で済めば一番良いじゃん」とクウガは誰にも真似できない微笑で返す。万人ウケする訳じゃないし、多少空回り的に感じる演出も、荒削りさも感じたけれど、一生懸命なのは伝わってくる。
こんなドラマを見ているとき、我が子達は真剣だ。一所懸命台詞の意味を受け取っている。下の娘などは小1にして、私が選んで見せるビデオでは度々涙を流し、私の手を耐えるようにきつく握る。真剣さは伝わっている。
私はドラマ作りが仕事ではないので分からないことも多いけれど、安直な答えに流されている作品は増えているように感じてならない。同じ答えに至るにしても、怪獣とか荒唐無稽なモノに対する対応にしても、作り手の身を削るような模索を経ているのかはとても大切な要素だ。そしてその苦悩は画面を通じて伝わって行く。
じゃあその子供達の感受性に今と昔の差はあるのだろうか。多分無い。大人が真剣に取り組んでいる姿は、スレ切ってしまっていない限り子供達の心には届いている。今「目が肥えて」いて、見透かされているのは、作り手の安直な逃げの姿勢ではないだろうか。まぁこれ位で良いか、スポンサーの意向もあるしィ、これ以上やってもやんなくてもワカりゃしないよ、このご都合主義の設定でもいいさ。こんな声には私達も昔も今も感じ取れるし、今の子供達もそうだろう。
さてネットである。自分でサイト訪問をしていて惹かれるのは、技術である場合もあるけれど、やはり真剣さじゃないかと思うことが多い。星の数ほどあるサイトには色んなサイトがある。HTML技術的にも、グラフィック技量的にも、全然駄目だと思えても、それでも気になって見に行ってしまうサイトがある。こんなテーマにこんな情熱をかけている。馬鹿にしているのではない。言葉で「馬ッ鹿だよね~」と発したとしても、そうした情熱の矛先を向けられる対象を持っていることに、羨ましさを感じている。「凄い、この人、真剣だ」。それが再度訪問したくなる理由だ。ふとした瞬間、その真剣な未だ見ぬ人が気になる。あのサイトどうしてるかな。だから久々に訪ねて、様々な事情で廃屋になっていたりすると、なんだか気落ちするし、寂しい。誰かの情熱が冷めることが寂しい。もう少し頑張って欲しい、と思ってしまう。
ゲームメーカーが目の肥えた子供達を相手に奮闘するように、サイト開発者もそれ以上に奮起しないと駄目なんだろう。これ位でいいや、これ以上詰めるのはやめよう、これ位で勘弁してよ...。多分そんな言葉は伝達されてしまうのだ。そして、ネットの端っこでまだ見ぬ人が呟く、「あっ、手抜いてる」。
情熱という言葉で全てを語ることはできないだろう。先日自分でこのコラムを読み返して、その青臭さに赤面してしまった。しかし、それでも「人」に惹かれている自分を否定できない。個人サイトであろうと企業サイトであろうと、頑張っている人やチームの姿が、あるいはその影が見えることが魅力に繋がっている。その本人への興味もあるし、その本人に権限委譲している組織にも興味が湧く。そしてそれだけ入れ込んでいる対象物にも自然と興味が高まる。
ウルトラマンの話をもう一つ。平成4作目のコスモス。怪獣との共存という今までに無いテーマに挑んだ意欲作。テーマの掘り下げに物足りなさを感じ、更に最終話直前に主役俳優の誤逮捕のゴタゴタがあって、後味の悪い終わり方をしてしまった作品でもある。そのゴタゴタのさなか、テレビ局は打ち切りを一度は決意する。しかし話の結末を見せろという視聴者の声に押されて、主役俳優の映像を出来る限りカットしたモノを放送した。それを見ながら更に考えさせられた。人類の危機が来て、巨大戦士ウルトラマンが現れて、問題を解決する、というだけではつまらないのだ。苦戦していても、人間が変身するシーンがないだけで、感情移入の度合いが下がる。一人の人間が、もがきながら傷つきながらウルトラマンになって戦うからウルトラシリーズは魅力が溢れるのだと知らされた。結局「人」なんだ。
どんなに堅牢でパフォーマンスの高いシステムをを作り上げても、それは多分便利なだけ。好きとか嫌いとか主観の後押しは少ない。だから、より便利なサイトが出現したら、さっさと移っていける。後ろめたさも無い。それはそのブランドに対する想いが育っていないということだ。人間が変身しないウルトラマンと同じ、ただ便利でありがたい存在。でもそこに知人が居たら、別に本当に会って話せるかどうかは問題ではなくて知っている人、親密感を勝手に抱ける人が居たなら、話は変わってくる。
ネットは中間層を剥ぎ取っていく構造だ。データを手渡しするだけの層を排除して需要と供給の接点を驚くほど接近させる。だから現場は情報発信について多くの権限を持たねば立ち行かなくなる。そしてそれを進めることで、人の姿がネットの端っこの人にも見えてしまう構造を作れる。ハイテク(最新技術)&ハイタッチ(心からのもてなし)。数年前にこの言葉が出たときは、イマイチ手垢まみれで真実味が無かった気がする。でもITバブルも厳しくなってきた今は、原点のように思える。現場に居るのも「人」だし、「肥えた目」で厳しく見てくれるのも「人」である。
以上。/mitsui
ps.コスモスは、主演の無実が判明した後、彼が登場する回が全て放映された模様。