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[055] 本は解答自動販売機か?

情報がWebで簡単に引き出せるようになった今、「本」の意味とか価値って一体何なのだろう。実のところ、私自身は本に囲まれている状況が大好きだ。太いネットにつながっている状況と比べても、好みとしては本の方だと言える。情報検索も、ほぼ習慣的に本を探してしまって、横で若手がグーグッ(Google)ているのを見て苦笑することはよくある。

母が司書だった関係もあり、書籍の山の中に入る経験は小さいときから多々あった。しかし、文字を読む経験は人より多くは積んでいない。手塚治虫に出会ってから、「絵本」にしか興味がなかった。文字を通して読み解いていくプロセスよりも、視覚的に直接訴えられる方が心地よいと感じた(この辺りが稚拙な文書しか書けない理由かもしれない)。

少し古くなった本特有の「匂い」も、好きではあるけれど、ハウスダストのアレルギーに微妙に触れるようで、満喫することもできない。大きな本は、持ち歩くのに苦労するあの重さが嫌いだし、読み続けた本の手の触れる部分が色濃くなっていくのも、カバーの縁がささくれ立っていくのも気になる。

なのに、本に囲まれている状況は好きだし、なんだか安心できる。何故なのだろう。そこに書かれている情報以上のものを身近に置いているという気持ちのような気がしている。

本に求めるものを、現在のWebデザイン系定期雑誌が端的に現している。淘汰の結果、今や二誌(或いは二社)に絞られた状況で、この二つが中々好対照で面白い。一つはとにかくTipsに肩入れしている。読んで直ぐに使える情報。他方は、理論的な話や哲学的な色彩も含む。誰もが直ぐには使える訳ではないけれど、記憶に残っていればいつか花を咲かせる種のような話も多い。

本を求めるとき、この二つの方向性で探す。JavaScriptやActionScriptの記述で困ったとき、そのまま使えるコードが欲しい。何冊もめくり、Webを歩き回って拾い集める。火が付き始めたプロジェクトで、こんな方法で難を逃れたこともある。けれど、少し余裕があるときには、「考え方」そのものに触れようとしている自分に気がつく。決して即効性の解答を求めていない。そして、どちらが記憶に残っているかというと、圧倒的に後者であることが多い。

更に考えると、得られたものの再利用の局面でも面白い傾向がある。Tips集は、その技術が欲しいのだけれど、本当に欲しいのはコードであって解説文じゃない。しかも本の印刷されたものではない。CD-ROMに収録されている、そのままコピーペースト可能なモノが欲しい。そして、それは大抵の場合、Webの何処かにも埋もれていたりする。「本」という形が必須だとは言い難い。収録してくれている本にも愛着は薄い。

では、理論や哲学論的なものはどうだろう。アイデアという面で見れば、こちらも本の形をしている必要はない。引用などを考えると、シンプルなテキスト状態でネットに置いてある状態が一番嬉しい。

でも、本の形にして手元に置いておきたくなる情報がある。そのアイデアや熱い言葉をもう一度思い出すときに、その本という形のお世話になったりする。ページ数は覚えていなくても、「あの写真とこの表がこんな風に配置されたページの上から1/3あたり」という憶え方をしている情報も幾つかある。その写真を思い出そうと頑張っていると、その文書そのものが頭の中にパッと浮かぶときもある。これは「固定」されているとか「制約」されていることが、何か記憶の引き金になっているのかもしれないし、Webの日々更新されるバナー広告に代用させることはできそうにない。上手く書けないけれど「ページ」という単位が記憶しやすく刷り込まれているのかもしれない。本の形をしている必要はないかもしれないが、本の形をしていることで助けられる部分も多い。

一度触れた考え方などを何度も思い返すようなことを考えると、「本たるべき『本』」とは、実用書的な部分だけではなく、理論や考え方や熱意等がある程度含まれているものであるように感じる(Tipsのありがたさも必要性も否定はしない)。なのに、最近目に付くのは、やはりTipsの比重が高い。編集者とも話す機会があるのだけれど、読んで直ぐ使えるものでないと商品価値がないと言い切る方も多い。

Webの開発手法論にしても、客観的情報だけとか答えが欲しいと言われる時もある。読者に考えさせるな、読者が読んで直ぐに真似できるものが一番、という文脈だ。けれど、私は著名人の話を読んだり聞いたりしても、その通りにしたいと思ったことは余りないし、答えが欲しい訳じゃない。サイトマップを模造紙四枚張り合わした大設計図にびっしり書いたり、プロジェクト部屋を作って常に情報を張り出したり。様々な実話に接したけれど、関心も感動もするけれど、興味を持つのは、どうしてそうしなければならないのか、何がしたくてそんなやり方を採用するのかという原点部分だけだし、自分とその著名人との差異を考えるのが楽しい。そんな見方が可能なのだという驚きを期待している。

でも、そんな感覚の方が稀なのかもしれない。本に対してだけでなく、相談でも先ず解答を求める人が増えている。自分の状況を充分に説明することもなく、「どうすれば良いと思いますか」とか「何か良いアイデアもらえませんか」と言い寄られる。「考えるって、実は楽しいことですよ」と悩むことを薦めてみたりする(そんなに冷静には言わないけれど)。

悩んでいるときは本人にとって辛い時間かもしれないけれど、あとで考えると成長みたいなものが見える時でもある。そう考えると、深く悩むネタをもらえることも一種の恵みだ。だとしたら、答えばかりが並んでいる本ではなく、自分が考えもしなかったことに眼を留めるようにしてくれる本はかなり貴重なのではないだろうか。

そもそもWebサイト開発には「解」なんてなくて、悩む入口だけが一杯あるのかもしれない。ユーザビリティとかアクセシビリティなんて、根本的には、そういった話だ。どこにでも適応可能な技術Tipsは少なく、考え方の基準や原点こそが使いまわせる。

Webという圧倒的な情報蓄積システムがここまで育っている現状で、本が挑むターゲットって「便利さ」なのだろうか。即席インスタントラーメンよりも、料理を作るプロセスを味わい楽しむ人もいるし、その数は実は多いように思える。実際、Webにない本の武器は、幾重にも重ねられたであろう編集プロセスとか出版(情報発信)に伴う覚悟のようなものではないだろうか。それが活かせるのは、枝葉のTipsの方向ではなく、根底の思考的基盤の方向のような気がしてならない。

出版不況の数字は何度も見るけれど、実体験としては薄い。立ち寄る本屋は常に客がそれなりにいるし、電車の中の読書家も昔より多い気がする。結構な分厚い本を熱心に読む姿に、老若男女の隔てはない。「情報」に皆が飢えているというお国柄は昔とあまり変わっていないのだろう。なのに、本が売れないとしたら、売られているモノと、求められているモノとがずれてるのではなかろうか。あるいは値段のズレか。

最近、便利な本は増えたけど、いい本は減ってはいないだろうか。ユビキタスな環境がそれなりに整いつつある今、手に持って歩きたい「本」って何なのか、今日も電車で本を開きながら考える。

以上。/mitsui