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[065] 新しいぶどう酒と新しい皮袋

Flashプロジェクトに深く関わるようになっている。Webの世界の新しい幕開けに立ちあっているようで興奮している。毎日が通常の倍の忙しさとスピードで駆け抜けていく。疲れが取れないまま翌日に突入していく。今日と明日の境が曖昧になっていく。年齢が足かせになっていることを思い知らされる。

エンジニアとして生きていた頃、30代後半が現場で生きていく限界だと、言われていた。世界有数のエンジニアを抱える会社にいたので、その能力的引退年齢を超えてもバリバリ新しい機能を産み出していく人達を数多く知っていた。けれど、彼らは、明らかに普通とは異なるオーラを発していた。それは自分がまといたいと思うことすら失礼に感じるほど神々しかった。

Ridualを始めて、少し革新的な技術領域に足を踏み入れることができたと思いつつ、年齢的に最先端の分野にいることの難しさを感じている。そんな想いは、Flashプロジェクトに関わり、益々増幅されて感じる。もう、ついて行けないかもしれない...、そんな弱音が喉まで何度も出かかる。

でも、先日、私達のワガママな仕様を、忍耐強く実装してくれるエンジニアと話をした。開発は末期の状態で、忙しさも複雑さも未体験ゾーンに入っていた。事実上この時点では、どんな優秀なエンジニアを投入したところで事態が楽になることはない。そんなことは分かっていながら質問した、「今、どんな人を投入して欲しいか」。彼は1秒も待たずに答えた、「ディレクターですね」。

開発が軌道を失い始めとき、起こることは情報の混乱だ。当初の仕様を満たす時間がないと分かったとき、採れる道は最低ラインを見極めて、最短ルートを確保することだろう。やるべきことを明確にし、無駄なく進むこと。しかし、軌道修正の名の下に、実はより無軌道に陥りがちだ。判を押したように、タスクの洗い出しとその優先順位をつけろと叫びだす者が現れ、進捗会議や対策会議を召集したがる者が声を大きくする。ただでも忙しく、責任感から1秒でも長くコードを見つめたいエンジニアに、状況分析資料の作成業務が投げられる。

こんなに「火」が付くまで何をやっていたのだ、と怒るのは一番簡単な道だ。怒鳴るだけなら誰でもできる。火事の現場では、火元の責任者をつるし上げるよりも、助け出す方が先だ。現場から言わせれば、火の付いた現状を見て、何をどうすれば良いか指示できない「監督」の方がどうかしている。

火が付いた現場には、容赦なく電話やmailが降ってくる。ロジック的な修正をする身でありながら、その対応をしなければならないのは辛い。一人と対応するだけなら何とかなるだろう。しかし複数から責められるように、全体像を考慮しない要求がチグハグにやって来られたら、最早気力そのものが萎える。情報整理が追いつかない。時間軸によって大幅に揺らされ、mailと電話で左右にふられる状況で、何をなすべきかを見極めるのは常人のタスクではない。

そんな時、余計な火の粉を払いのけて、本当の火の粉の中に突き進んでいく道を確保するのがディレクターの役割だ。本当の火の粉の中では百戦錬磨の働きができるように現場は訓練している。その能力を信じて、全力を発揮できる場を提供するのが指揮官の役目だ。それをディレクターと呼ぶ。

火の付いたと呼んでもいい現場で、メインエンジニアが「ディレクター」を欲する。現状でその声を聞かされるということが、満足していないということを多分に現しているとしても、それは私には福音(Good news)に聞こえた。まだ、頑張れる領域があるという希望だ。Flashの動きの設計や、ActionScriptでゴリゴリ書けなくても、情報整理や社内調整という分野でも、Webの最先端に絡んでいける道がある。そして、それは現場が望む姿で存在し得る。

実は、ここ数年のFlashプロジェクトを通して、Flashの開発は、その他のシステム開発と何ら変わりがないと主張してきた。上流工程をどこまでキチンとできるかが要であり、開発プロセスもインタラクション系の幾つかの特別な部分はあるけれども、全体としてみれば大差ない。でも今回の修羅場を通して、何か違和感を感じ始めてきた。実は別物ではないのだろうか、そんな疑問が頭を持ち上げる。

加えてアテネオリンピックの話で考えさせられた。同じ「走る」という競技でも練習方法は微妙に異なりそうだ。基礎練習的な部分で7~8割が同じであっても、最後の最後に差のつく筋肉を鍛える方法は、競技種目によって細かく分かれるように、解説を聞いていた。

Flashや「Rich」と呼ばれるシステム開発は、何か特別な「決め手」が仕組まれていて、その部分に関しては、やはり特別な開発/検証手法が存在する。それは、従来の手法に似てはいても非なるものだ。無理やり対応表を作ることはできても、何処かに不協和音が響くイビツなものになる気がする。

その根幹には人材という部分がある。多くの優秀なFlash開発者が、今までのエンジニアを輩出してきた「層」以外の部分から出てきている。全く畑違いの業界からの参入や、そもそもプログラミングやコンピュータから遠かった人達が数年で壇上で注目を集めたりする。

Web黎明期は従来技術を引きずっている人達が立上げざるを得なかったけれど、ここに来てWebという純粋な土壌が整い始め、純正なWebな人達が出てきているように感じる。Web以外の何かと比較しながら考える人と、Webの上に立って先ず考え始める人。Webの時間軸の速さを考えると、そうした新世代が育ってきても不思議はない時間が既に経っているのだろう。

新しい人達と新しい活躍の場を考えると、1つの聖句(聖書の言葉)を思い出す。

また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。
ルカによる福音書5:37-39

新しいFlash開発者達が、「新しいぶどう酒」ならば、「新しい皮袋」は何だろう。マーケットかもしれないが、マネージメントかもしれない。新しい人達が興されているのに、それを納め切れる「器」があるとは言い難い。様々な意味で、この言葉を想い返す。

古いものが良いと見なされるのは、このスピードで革新を続けるIT業界でも根付いている文化だろう。Flashシステムもまだまだそうした壁と戦っている。けれど、この言葉が言うように、新しいモノを古いモノの中に納めること自体に無理があるのかもしれない。

ならば、新しいWebの形を模索するなら、新しい「器」の模索も必須なのではないだろうか。Webを既に成熟し完成した状態だと思ってしまう人達には、辿りつけない場所へ行くためには、「新しいぶどう酒」と「新しい皮袋」の両輪が必要だろう。

最新技術に振り落とされそうになった時、新しい地平線が見えてきた。まだ一緒にこのWeb界で格闘できる場所。「新しい皮袋」作り。辛さが増して、楽しいとは言えない時が多いけれど、仕事の喜びがここにはある。まだまだ、この現場から離れたくない。頑張ろう。

以上。/mitsui