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[098] 家庭

数年前に、ある演出家の講演を聴いた。人を惹きつける話をどう生み出していくのか。あるいは、どう生み出してきたか。様々なエピソードを聴きながら、「あぁこの人は、どしようもなく『人』が好きなんだなぁ」と実感した。

「色んな人が居て良い」という立場から、様々な特徴ある人々のドラマが編み出されていくという印象を受ける。同時に、「人が好き」という立場から、凄く詳細な観察を日々行っていることも感じる。高感度センサー。「人」に魅せられないと、成立しない職業なのだろう。

でも、一つだけ引っかかった台詞を聴く。「所帯じみた『男』に魅力って感じますか」。小さく収まっていく男性への発奮剤的な意味も含んでいたんだろうけれど、昔の映画に出てくる家庭を顧みない男臭い「男」への郷愁も感じた。

社会に出る辺りから、大なり小なり、家庭臭さはみっともないという感覚を教え込まれてきた記憶がある。会社でこなす仕事がメインで、その他はパーソナルなことでもあり、余り人に話さずに「処理」することがスマートな大人だと。

そうした背景が潜在的にあったからこそ、刑事コロンボで「うちのカミさんがね」という台詞が、妙に多くの人の心を捉えたのではなかと思っている。職場で、自分の家庭の話をするのは、野暮極まりない。でも、それを敢えて行うところに、犯人との駆け引きがある。犯人推理のスマートさと、その野暮さ。このアンバランスさが、親しみ易さになり、魅力となっていた。

それまでの、刑事モノが、完璧な警察官とか変に野獣的なデカとかが、主流だったと記憶している。この人はトイレに行ったりするのだろうか疑うほど、基本的な生活臭さがしない主人公が多かった。

パーソナルな情報は、人と人との距離を縮める。家庭や趣味の話で、共通点が見つかると、会話が加速する。もっと知りたくなる。その人への興味が高まって、ないがしろにできなくなっていく。

10年以上前、私が自分の育児について本を出せた後で、前職の仲間とのバーベキュー大会に行ったことがある。確か二歳だった息子も連れて行った。会社の後輩が、息子のそばに寄ってきて話しかけた。

「君はおじさんのこと知らないだろうけど、おじさんは君の事よく知っているんだよ」。本は配っていたので読んでいてくれたようだ。「おじさん」と呼ぶにはまだ早い、その後輩が優しい目で、言葉も分からない息子に言葉をかけてくれる。

キョトンとした顔で、息子は頭を撫でられていた。各人にそれぞれ家族があり、生活がある。それを当たり前のものとして受け入れて成立しているコミュニティ。言い知れぬ安心感がある。

まだ「ストーカー」とか「見知らぬ大人には気をつけろ」とか、公然と言われる前の時代だ。そして、結婚すべきかとか、子供が居るべきとかの古典的ルールも無い。ソフトウェアエンジニア集団らしい、多少引きこもりがちではあっても、プライバシーを尊重して、多種多様な生活様式が共存できた。お互いのことを少し知ってるということが、「のりしろ」になっていたのかもしれない。

最近、所帯じみた世界の奥深さを感じている。買い物ひとつにしても、何曜日はどこが安く、どこの品質が良いのか。複数あるお店をどのように回れば効率が良いか。献立に応じて購入計画を立てる必要がある。それを、しかめっ面をせずに、さっとやる。妻に負けじと月に一度くらいは担当する。

店の中でも、どこに何が置いてあるのかを記憶し、どれくらいが相場かも察知しなければならない。カゴの中にどう積んで行くかも考えるし、オンデマンドで目に入ったものを手に取る臨機応変さも求められる。メモを片手に、奥さんの指示通りの買い物をしている男性陣を見ては、少し優越感に浸る。

レジでも、綺麗なお姉さんに目が行っても、いかにもオバさんの方が往々にして処理が早くて丁寧。混雑するレジ前でどの列に並べば一番早く外に出れるかを見抜くには習熟が要る。隣に二馬身(?)リードでレジを抜けると結構嬉しい。

まだまだ未熟だが、結構主夫になったと思ったりもする。でもこれが、Webのショッピングサイトを考えるときには役に立つ。ちょっとした自由度の無さにイライラし、検索エンジン付けました、だけでは全然満足できない。

商品比較も、値段や品質など多角的にチェックしたい。安ければ良いという単純なものではない。だから、色々なことができるように考える。自分が納得できるデザインを積み上げる時点で、多少オタッキーかもしれないが、教科書的な提案ではなくなる。自分ならどうするかの引き出しが実生活をベースに存在する強みだ。「買い物」が「のりしろ」になって大切な何かと結びついている。

たとえそれが週末だけにせよ、家族の一員として生きる部分が、自分の骨格を形作っていてくれる。子供とのイザコザも、妻との喧嘩も、全部が一緒くたになって、今の自分がある。そして、そんな生活を守ることが一番優先度が高いタスクなのだ。そして、それを優先するから良い仕事もできる。

先週末、娘の通う小学校で運動会があった。何組かのグラウンドで談笑する親子が輝いて見える。家族として一つに見えることは、当たり前のことだけど、難しくなってきている。笑い合えない親子は多い。

一番身近な人達よりも、仕事や会社やルールや組織や上司を優先した生き方に、不健全な歪みがあることは事実だろう。でも今、Webに携わる人達の生活が、そちらに傾きつつあるように感じる。もちろん、好んでそっちに転がっている訳ではない。でも歯止めが効かなくなっていないだろうか。

生活の匂いのするWeb屋さん。こういったところにも、現状の打開策が潜んでいるようにも思ってきている。クライアントや、上司も、家族のことまで知り合う仲だとしたら、何か常識を外した進捗管理が減る気がしてならない。

所帯じみた男に魅力がない時代もあったろう。でも、仕事の帰りにスーパーに寄って、大根を値踏みしている父親って、凄くカッコいいんじゃないかと思える時がある。壮大な敵と戦う男も良いけど、日々の生活を守り抜く男も過酷な時代になっている。

この十年傾倒しているマンガ「蒼天航路」にこんな台詞がある。包囲された劉備の子供が、父の足手まといになることを恐れて死を選ぼうとする。包囲した曹操が、睨み付けて言う、「過酷に生きることは、過酷に死ぬより、何倍も力が要るぞ」。

Webというコミュニケーションの場を育てるには、もう少し長期戦で参戦すべきかと思ってきた。仕事で倒れそうな事態を誇っている場合ではない。

以上。/mitsui