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[102] 翼あるもの

聖書に、ベデスダという池のそばでの話がある。その池は、時折天の使いが舞 い降り水面が揺れる。その時、最初に水に入った人の願いが叶うという。だか ら、病を持つものが大勢集まっている。そこに38年間、その瞬間を待ち続ける、 病気の男がいる(注1)。

イエスがそこを通りかかり、男に聞く。「よくなりたいか」。男は、直接答え をせずに、誰も水に入れてくれないんだ、他の人が先に入ってしまうんだと、 訴える。

水面が揺れた瞬間に、水に入れたなら、確かに癒されるのかもしれない。でも、 水に入ることが目的ではない。癒されるのが目的なのだ。水に入ることは、手 段に過ぎない。

このトンチンカンな会話を時々思い出す。物事の本筋ではなく、何か別のもの に目が囚われそうになっている時に。

例えば、Webサイト開発。「このサイトを良くしたいのか」と問われているの に、あの担当者の頭が固いんです、あの同僚の開発スピードが遅いんです、そ もそも予算が低いんです、様々な関連する「要因」を並べ挙げてしまう。

どれも恐らくは間違ってはいない。しかし本質ではない。それだけが原因で、 サイトが「良く」ならない訳ではない。ひとつがクリアされれば、サイトが大 改善される訳でもない。良くするために向ける努力を、別のやり方や手続きを 守ろうとすることに向けている。

そうしたことの未達成さを言い訳にしている自分がいる。そんな「手段」を神 格化している自分に気付いたとき、自分が滑稽だと思えて、肩の力が抜ける。 笑いがこみ上げる。怒りやイライラが収まる。どこ見てたんだ、とつぶやける。

例えば、部署間調整。この問題は部署間で「区画(縄張り)」を決めているん です、だからウチだけでは決められないんです。こうしたら、もっと良くなる とは分かっていても、それは調整できないですね。これを通すにはナントカ会 議を数回クリアしなければ無理ですね。そこにはカントカ部長が出てくるんで すよ。彼を説得しなきゃあ。問題が、徐々にずれて行く。

問題を解決するための会議や、問題をスムーズに分業消化するための「部署」 が足かせになる。特定個人の「オトし方」も重要になる。瑣末な事柄の重要度 がますます膨れ上がり、本質を隠していく。質問は一つだけ。「よくなりたい か」だけなのに。

だから、最近は思わずフキダしながら尋ねてしまう。「それで良いんですか」。 そんなことに気を遣って、本来の目的から遠ざかって良いんですか、と。相手 の困った顔が面白い。でも、そこで火がつかなきゃ本当には「良く」したいと は思っていないのだと思う。

例えば、セキュリティ。何のために、どんな情報を守るのかという議論を忘れ て、守るべきルールの死守だけが命じられる時がある。議論の余地がない場合 を除いて、殆ど私は闘うことにしている。

命じる側は、余り考えていない場合が多いからだ。ルールを守ることが第一で、 セキュリティを守ることが第二になっている。あるいは、誰かが決めたルール を守れば、必ずセキュリティが守れると信じて疑っていない。

決められた手順を踏んで、決められた申請をする。或いは自動的に、権限ある ソフトが自動監視をして、どこまで何をやっているかのリストを出す。命令者 は、その並べられたリストが、「○」で埋まることを目的にしている。

本質的な事柄の達成ではなく、その中間生成物であるチェックシートが「正し く」満たされることで満足してしまう。それこそが本質的なセキュリティホー ルなのではないだろうか。

きちんと守られているはずだ、上手く行っているはずだ。様々な「はずだ」が 重なって、いざという時の判断力が低下する。実は、「はずだ」が「はずでは なかったとしたら」と考えられることが、品質や信頼性につながるのに。

盲目的な既存ルール至上主義は、盲目的宗教的暴走に似ている。ルール自体を 疑い、様々な議論にも耐えられるように多角的に検証し、鍛え続けられたルー ルだけが、生き残るべきものなのだと思う。信じるに足るものかどうか、それ は常に誰もが問うべき問題だ。それが健全さを生む。大切なのはルールじゃな い、守るべきものが守られているか。

このイエスの話には続きがある。この会話の後、イエスはその男を癒す。そし て、その日が安息日(一切の業務・労働を停止し、休息をとる日)だったとい うことから、ルールを破った(癒す=労働なので)として、既存勢力から怒り を買う。そして怒りは憎しみに膨れ上がり、最終的にはイエスを十字架刑にま で追い込んで行く。

既存ルールを守ろうとする勢力の大きさも知らされる。神であるイエスでさえ 抗し難い流れ。が、同時に二千年経っても、どちらが正しかったのかが明確な のも知る。癒したイエスか、安息日というルールを守ろうとした勢力か。誰が その病の男のことを本当に考えていたのか。子供にも分かる話だ。

先日、ユーザインターフェース(UI)について、あるセッションを持った。そ れぞれ異なる領域の専門家と意見をぶつける。スタンスは違う。手法も違う。 でも、見ている先は同じだった。そう、「ユーザ」。

ユーザにとっての最良解。それを模索しているという共通認識を感じる。本当 に大切な問いを忘れかけることがある。けれど、同じ方向を見ている人たちと の会話が、ことの本質に立ち返らせてくれる。そして本質を言い当てる勇気を 思い出させてくれる。

セッションのテーマは、「三年後」。三年後にも第一線でいられるためには、 今なすことはなんだろうか。仮想解は「UI」。そして、その本質は「ユーザ」。 ユーザを無視したWebに明日はない。ここがブレていない限り、多分この世界 に留まっていられる。

よくなりたいか(よくしたいか)、ユーザに満足してもらいたいか、喜んでも らいたいか。そう、本質的な問いは、いつだってシンプルだ。それを忘れなけ れば、翼あるものを待たずとも、飛び立てるかもしれない。

注1)水面の揺れが天使によるという箇所は、「本節欠如」としている聖書も ある。ヨハネによる福音書5章。

以上。/mitsui

ps.「PAGE2006:UIの復権」にご参加くださった方、ありがとうございました。

・2/25(土)F-siteセミナーに参加します