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聖書に、ベデスダという池のそばでの話がある。その池は、時折天の使いが舞 い降り水面が揺れる。その時、最初に水に入った人の願いが叶うという。だか ら、病を持つものが大勢集まっている。そこに38年間、その瞬間を待ち続ける、 病気の男がいる(注1)。
イエスがそこを通りかかり、男に聞く。「よくなりたいか」。男は、直接答え をせずに、誰も水に入れてくれないんだ、他の人が先に入ってしまうんだと、 訴える。
水面が揺れた瞬間に、水に入れたなら、確かに癒されるのかもしれない。でも、 水に入ることが目的ではない。癒されるのが目的なのだ。水に入ることは、手 段に過ぎない。
このトンチンカンな会話を時々思い出す。物事の本筋ではなく、何か別のもの に目が囚われそうになっている時に。
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例えば、Webサイト開発。「このサイトを良くしたいのか」と問われているの に、あの担当者の頭が固いんです、あの同僚の開発スピードが遅いんです、そ もそも予算が低いんです、様々な関連する「要因」を並べ挙げてしまう。
どれも恐らくは間違ってはいない。しかし本質ではない。それだけが原因で、 サイトが「良く」ならない訳ではない。ひとつがクリアされれば、サイトが大 改善される訳でもない。良くするために向ける努力を、別のやり方や手続きを 守ろうとすることに向けている。
そうしたことの未達成さを言い訳にしている自分がいる。そんな「手段」を神 格化している自分に気付いたとき、自分が滑稽だと思えて、肩の力が抜ける。 笑いがこみ上げる。怒りやイライラが収まる。どこ見てたんだ、とつぶやける。
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例えば、部署間調整。この問題は部署間で「区画(縄張り)」を決めているん です、だからウチだけでは決められないんです。こうしたら、もっと良くなる とは分かっていても、それは調整できないですね。これを通すにはナントカ会 議を数回クリアしなければ無理ですね。そこにはカントカ部長が出てくるんで すよ。彼を説得しなきゃあ。問題が、徐々にずれて行く。
問題を解決するための会議や、問題をスムーズに分業消化するための「部署」 が足かせになる。特定個人の「オトし方」も重要になる。瑣末な事柄の重要度 がますます膨れ上がり、本質を隠していく。質問は一つだけ。「よくなりたい か」だけなのに。
だから、最近は思わずフキダしながら尋ねてしまう。「それで良いんですか」。 そんなことに気を遣って、本来の目的から遠ざかって良いんですか、と。相手 の困った顔が面白い。でも、そこで火がつかなきゃ本当には「良く」したいと は思っていないのだと思う。
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例えば、セキュリティ。何のために、どんな情報を守るのかという議論を忘れ て、守るべきルールの死守だけが命じられる時がある。議論の余地がない場合 を除いて、殆ど私は闘うことにしている。
命じる側は、余り考えていない場合が多いからだ。ルールを守ることが第一で、 セキュリティを守ることが第二になっている。あるいは、誰かが決めたルール を守れば、必ずセキュリティが守れると信じて疑っていない。
決められた手順を踏んで、決められた申請をする。或いは自動的に、権限ある ソフトが自動監視をして、どこまで何をやっているかのリストを出す。命令者 は、その並べられたリストが、「○」で埋まることを目的にしている。
本質的な事柄の達成ではなく、その中間生成物であるチェックシートが「正し く」満たされることで満足してしまう。それこそが本質的なセキュリティホー ルなのではないだろうか。
きちんと守られているはずだ、上手く行っているはずだ。様々な「はずだ」が 重なって、いざという時の判断力が低下する。実は、「はずだ」が「はずでは なかったとしたら」と考えられることが、品質や信頼性につながるのに。
盲目的な既存ルール至上主義は、盲目的宗教的暴走に似ている。ルール自体を 疑い、様々な議論にも耐えられるように多角的に検証し、鍛え続けられたルー ルだけが、生き残るべきものなのだと思う。信じるに足るものかどうか、それ は常に誰もが問うべき問題だ。それが健全さを生む。大切なのはルールじゃな い、守るべきものが守られているか。
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このイエスの話には続きがある。この会話の後、イエスはその男を癒す。そし て、その日が安息日(一切の業務・労働を停止し、休息をとる日)だったとい うことから、ルールを破った(癒す=労働なので)として、既存勢力から怒り を買う。そして怒りは憎しみに膨れ上がり、最終的にはイエスを十字架刑にま で追い込んで行く。
既存ルールを守ろうとする勢力の大きさも知らされる。神であるイエスでさえ 抗し難い流れ。が、同時に二千年経っても、どちらが正しかったのかが明確な のも知る。癒したイエスか、安息日というルールを守ろうとした勢力か。誰が その病の男のことを本当に考えていたのか。子供にも分かる話だ。
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先日、ユーザインターフェース(UI)について、あるセッションを持った。そ れぞれ異なる領域の専門家と意見をぶつける。スタンスは違う。手法も違う。 でも、見ている先は同じだった。そう、「ユーザ」。
ユーザにとっての最良解。それを模索しているという共通認識を感じる。本当 に大切な問いを忘れかけることがある。けれど、同じ方向を見ている人たちと の会話が、ことの本質に立ち返らせてくれる。そして本質を言い当てる勇気を 思い出させてくれる。
セッションのテーマは、「三年後」。三年後にも第一線でいられるためには、 今なすことはなんだろうか。仮想解は「UI」。そして、その本質は「ユーザ」。 ユーザを無視したWebに明日はない。ここがブレていない限り、多分この世界 に留まっていられる。
よくなりたいか(よくしたいか)、ユーザに満足してもらいたいか、喜んでも らいたいか。そう、本質的な問いは、いつだってシンプルだ。それを忘れなけ れば、翼あるものを待たずとも、飛び立てるかもしれない。
注1)水面の揺れが天使によるという箇所は、「本節欠如」としている聖書も ある。ヨハネによる福音書5章。
以上。/mitsui
ps.「PAGE2006:UIの復権」にご参加くださった方、ありがとうございました。
・2/25(土)F-siteセミナーに参加します