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[123] mixi:繋げるモノ、繋がるモノ

偶然出会った方からのお誘いで始めたmixiに、どっぷりつかっている。約2年弱。毎日ではないけれど、気軽に自分のスクラップブック兼日記帳になっている。ここを通して新たに出会った人、リアルで知り合ってmixiで交流した人、久々に再会した人。そして、新たに出会った考え方、生き方、コミュニティ。

誰かに物申す、という肩肘張った「言葉」じゃない。話し言葉で書いている分、「じゃない」とか使われると、否定か同意を求めているのかも、読みきれない。肩の力を抜いて、グラス片手に書く、いや独り言に近い感じかもしれない。

そんなどこか気だるい言葉たちの合間に、怒りや涙や悔しさや、本音が垣間見える。業界内では有名な方の愚痴も喜びも、多分ネットでなければ、そんな想いを抱えているなんて知りようもなかった方々の溜息も笑いも頑張りも、ある。

夜中に辛くなりながら、世界中で苦労しているのは自分だけじゃないかと思ったとき、もっと辛そうな人が頑張るぞと声を上げてくれる。耐え切れず「王様の耳はロバの耳」と「洞窟」に叫んだら、どこかで別の声で同じ台詞が返って来る。会うこともなく、多分すぐに忘れてしまうような接点。でもその時、確実に誰よりも支えてくれてる。

少し前に「インターネットはからっぽの洞窟(1997)」という本があったけれど、バブリーな部分が掘り尽くされたように見えても尚、小さくも大きなモノが詰まっている。mixiだけに感じていることではないけれど、ビジネスの前に、「人」がいる。そんなことを痛感する。

●デジタル交流の付き合い方はむずかしい?

mixiには飽きました、そんな声も聞くようになってきた。しかも、マスコミから。「一時は、昼休みは全パソコンがオレンジ色でした」状態からの失速。流行の話題を追い求めるところではなく、デジタルが日常に染み込んできた証のように聞こえた。

日常を支える、他愛ない会話をマスコミは取上げない。井戸端会議を延々と取材する訳にもいかない。普通になってしまったら、別のところに移り住むしかない職業に見える。トレンドウォッチャーには「下降線」に見える中、mixi人口は500万を超える。浮気っぽい宿命のマスコミに、私達は根を下ろすからね、と別れを告げる気分。
< http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2006/07/26/12798.html >

その一方で、mixiに疲れました、との声もある。マイミク(友達)付き合いに疲れて、退場する人達。アシアトのお返しや、日記への返信。密な交流になればなるほど、「やらなきゃいけない」と思うことが増大する、らしい。
< http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/21/news061.html >

付き合いがノルマ化されれば、重く感じるのは実社会でも同じこと。実社会での呑み会の断り方は、姿が見える分、定型化しやすいのかもしれない(あいつはそーいうやつだから)。デジタル交流の付き合い方がまだまだ難しいということなのだろう。

あるいは、人との付き合い方を専門家に指南されなきゃいけないほど、人は脆くなって来ているのかもしれない。mailの書き方から、言葉の選び方。誰かに採点されるようなことなのかすら疑問に感じる。昔、手書きの手紙を出していたとき、採点されて返されたことは、まずない。誠心誠意。それが備わっていれば、迷うことはないはずなのに。

一度に複数の人との交流が可能になったことで、筆圧を感じないで想いを綴れるようになったことで、様々な意識的な変化が必要になってきたんだろう。言葉が言葉以上の意味を持つときもあり、言葉が言葉以下の存在になることも。

●お手軽になったのは伝達経路だけだった?

言葉が独り歩きをし始める。まだ幼いとき、いい言葉を伝えてくれた人は、決まっていた。数少ない尊敬できる先生と母と手塚治虫。その人達を通してでないと、震えるような言葉に出会えなかった。それが知り合いが増え、本に出会い、映画にめぐり会う。でも感化される機会は、それほど増えた訳じゃない。

それが、最近励まされる機会が増えた。ネットにそんな言葉が溢れているから。誰かが感動したと書き込みをする。誰かがそれを拾って、別の場所に書き込む。それが回りまわって、私の目に留まる。「あれ、いい話だったよね」と親しい人達とだけ語った雰囲気が、私とパソコンの間に流れる。見知らぬ人の言葉を介して。画面に並ぶ文字を前に、笑い、吹き出し、涙し、唇を噛む。

意図して探した訳じゃないのに辿り着く。落ち込んでいる時には励ます言葉に、奢っているときには戒める言葉に、悩んでいる時には新しい言葉に。言葉が、想いを伝える以上の存在に変わってくる。励まされるとか、励ますとか。言葉は残せないけれど、アシアトは残すとか。人間に生まれて良かった。

でも逆もある。ネットに残る言葉を監視用に使ったり、何かの文句を言うための証拠に使ったり、中傷に使ったり。虚像を大きく見せかけたり。ネットを人とつながるために使わずに、人を縛るために使ってる。見ていて何だか哀れ。相手をしていて疲れる。独りが怖くてネットにしがみ付いているんだろうに。

そんな事を考えている時、mixiにまたも教えられる。mixiでは「マイミクシ管理」することができる。「友人」を管理する訳じゃない、「マイミク」を管理する。概念を一枚被せることで、事務的に、抵抗感を排除できる。

レベルは二段階。「マイミクシィから外す」と「『マイミクシィ最新日記』に表示させない」。静かな絶縁状。情報を伝え合うことで、「つながり」が成立しているなら、その伝達経路を絶てばリセットに近づく。更に拒否するなら、IDを指定してブロック(拒否)することも可能だ。マイミクにしつつブロックも可能。矛盾しているけど、あり得る関係、現実社会でも。

「ユビキタス」の旗の下、コミュニケーションが気軽に簡単になったと錯覚するけれど、お手軽になったのは伝達経路だけだったのかもしれない。そこに通い合うモノは、昔も今もさして変わらない。小さく見えて、大きなモノ。そして、その路に相応しくないものも、さして変わらない。小さく見えても侮れない悪意とか。

コミュニケーションの本質が、シャッフルされて、もう一度本来の立ち位置を探っている時期なのかもしれない。ツールに惑わされず、マスコミに振り回されず、自分らしいコミュニケーションを、自分の社会人的コミュニケーションを、自分の家庭人らしいコミュニケーションを。ネットに学ぶものは未だ多い。

以上。/mitsui

「スーパーマン リターンズ」を観た。全編に、クリストファー・リーブへの敬愛が感じられます。最初に「クラーク」と呼ばれた時、「クリストファー」と聞こえてしまいました。その晩TVで「スーパーマン」を観て、約25年間の特撮の進歩を再確認。でも、C.リーブの表情だけで名作だと思う。「彼が飛んだことで、全てが始まった」みたいな事を、Alex Ross氏が言っていた。同感。「スーパーマン I & II」の続編に当たります。3、4は抹殺or忘却(笑)。賛成。
< http://wwws.warnerbros.co.jp/supermanreturns/ >
< http://www.alexrossart.com/ >

Superman: Peace on Earth
スーパーマン/ピース・オン・アース
画像ないんですが、いい本です。
この本の和訳版です:
Superman: Peace on Earth (Superman (DC Comics))