Kindleの広告を見ていて、大学の下宿生活を思い出しつつ、諸々夢想する。
Amazon.com: Kindle DX Wireless Reading Device : Kindle Store
http://www.amazon.com/dp/B0015TG12Q
押入れと玄関兼キッチンを加えて六畳一間。生活空間はつまり四畳半。真ん中に座れば全方位どこにでも手が届く自分の空間。大学時代は、ついにそこから離れなかった。窓から大家さんの庭が見える二階の一番奥の部屋。たまにぽつんと空く休日に、広くはないけれど、季節の移ろいをゆったりと現すその庭を、ぼんやりと見つめていた。閑静な住宅街のほんの少しだけ奥まったところ。春にはホーホケキョと声がし、冬の帰宅時には下宿につながる最後の路地の真上に、オリオン座が輝いていた。
家を出たいという想いは昔から強くあった。家は離れていく起点としてしか考えていなかった。未だに還っていく場所という意識もない。中学のときも、高校のときも、家を出ることを夢見ていた。勇気がなくて大学までずれ込んでしまったけれど、初めて得た自由という意識があり、そこにいるだけで幸せを感じた。合法的な家出。母もそういって後押ししてくれた。だからパラサイト系若者の気持ちがさっぱり分からない。
そんな我が城の最大の問題は、本棚だった。決して読書家ではなかったけれど、大学生ともなれば、日毎に何か書籍が増える傾向が強まった。貧乏学生だったので、購入には自然と歯止めがかかるけれど、情報への飢え渇きは金がないことでは埋められない。安価に本を入手する方法はそれなりにあった。更に元来の漫画好きである。かさばる書籍が溜まっていく。メモリが小さい分、脳内蓄積は諦めていたので、定期的に整理するなり色々と工夫しながら生き延びた。
それで、Kindleである。あの板一枚を持ち歩けば、自分の蔵書を持ち歩けるというのだ。それも全て。凄い時代になったものだ。紙というまさに手に馴染んだ質感からサヨナラするのは悲しいけれど、それを相殺して余りある利便性を得られる。
Kindleのようなデバイスが普通になった世を想像してみる。四畳半の下宿には本棚がないかもしれない(そもそも四畳半の下宿がないのかもしれないが)。寝具とパソコンとネットと自炊セットと衣類にKindleがあればよい。Kindle片手にコインランドリーに向かい、小説も学校の宿題も漫画も読める。情報を入力する、情報を作り出す、編集するというモードを捨て、自分の脳内に注入することだけに集中するモードを切り分けて作り出せそうな気もする。そして、それはそれでハッピーな予感がする。書きたくなれば、パソコンを開けばよい。
紙の俯瞰性(一覧性)は現段階では未だ越せそうにないけれど、それでも想定内のハードルだろう。エンジニアとデザイナの狭間に育った人材が、軽々とその壁も越えていくのを期待したい。大きな画面や折りたたみ式の画面が出てくるかもしれない。本に相対する姿勢が各人で異なるように、様々な個性に合わせたデバイスが出てくる日も遠くはないだろう。これまでのWebで培ってきたアクセシビリティの知識も総動員して、遠視対応も期待したいところだ。
会議や授業の場でも色々と活躍しそうだ。毎回印刷物を用意する必要がなくなる。参加者全員がKindleのようなデバイスを持ち、情報を検証し、決断を下す。現時点では、会議の場ですら、情報に接する状況は余り良いものではない。紙で配られた資料は、語り手がどこを説明しているのかすぐに迷子になるし、自分のメモを他人と共有するのも一手間かかる。それらが解決できるかもしれない。デバイス間で通信ができ、ネットにアクセスできる。つまらないプレゼン自体を補完することはできないが、会議のスタイル自体をヴァージョンアップする気もする。少なくとも、束になった書類を持ち歩くことなく、同じ情報を参照しつつ、議論が進められるのは気持ち良さそうだ。
コンテンツというか情報に対する感覚も変わっていくのだろう。ビデオ、レーザディスク、DVD、Blu-ray。画質は異なるにせよ、同じコンテンツに何度も投資してきた人は多いはずだ。しかも、デバイスの維持が困難で、今ではせっかく購入したのに見れないソフトも少なくないはずだ。我家にも観るすべのないレーザディスクやベータが、数本捨てられずに残っている。復元技術の発達のおかげで、デジタルリマスター、リストレーションなどデータフォーマットの違いもある。今度こそ生涯持ちえるフォーマットを、画質の差が根本的な差になる映像は未だ先になるとしても、先ずは書籍という分野で確立させて欲しい。
コンテンツに対する意識変革は、既に本をPDF化してiPhoneなどで読む流れとしては起こっている。断裁してスキャンして持ち運ぶ。「本」という形態に対するリスペクトは気持ちよいくらい微塵もない。Amazonでスキャナを探すと裁断機が「この商品を買った人はこんな商品も買っています」の欄に並ぶ。実は司書の子供でもある私には何とも言えない気分になる。
橋本商会 scansnapと裁断機を買って本を電子化しまくる
http://shokai.org/blog/archives/4999
出来上がったPDFがどのような生涯を終えるのかも興味深い。流通経路に乗せてしまえるところに、危うさを感じる。必要があるからこそ、人は工夫する。工夫するほどの熱意のあるところには市場が横たわっている。コンテンツのデジタル化は待ったなしのところに来ている。
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毎日消費する紙情報にも目を向けたい。新聞という分野での情報の共有の仕方は、文化というレベルで浸透していると思う。電車の中での新聞の開き方(たたみ方というべきか)を見れば、その人が社会人何年生かが分かるのは今でも通用するようにも思う。実年数ではないかもしれないが、配慮のレベルは一目瞭然だ。
大きな紙面だからこそ、工夫する必要があり、工夫したが故に定着した文化。そうした読み手が重ねてきた努力の上に、アグラをかいてしまった新聞というメディア。それをデバイス化するプロセス。一種の標準化のプロセスと捉えて良いのだろうと最近は思う。標準化されたところでコンテンツ自体の競争を経て、シェイプアップとレベルアップをする時期に来ているように思う。
実は我家は2009年でA新聞の購読を止めた。約40年間慣れ親しんだ文化を捨てたという意識を持って止めた。引き金は、ふざけたコラムひとつだ。詳細は書かないけれど、あれほどの非難の中でも反省のはの字も見えない編集方針に嫌気がさした。執筆者の交代を経ても、本質的な違和感が変わらないところで絶望した。無駄だと分かっていながら、購入勧誘のにぃちゃんにクレームを上まで上げろと来るたびに品質劣化を訴えた。そして購読料の一部でも、そうした人たちに流れるのを阻止すべきだと結論に達した。おかげで朝のトイレが手持ち無沙汰でかなわない。
そして意外なほどに困っていない。淋しいだけで困っていない。そして、淋しがっているほど暇ではないので、事実上の障害はトイレの中だけとも言える。そして、その代替を果たしているのは、ケータイ系である。情報の窓口は、確実に紙から液晶に移り始めている。Kindle系への期待は高まるばかりだ。
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Webサイトは、特殊な技術の特化した技術戦というレベルから、総合的な戦いに戦場を移していると認識している。スペシャルコンテンツという場はありつつも、会社の表看板に成長しつつある窓口である。様々な角度から見た完成度を競うようになるのは、規定路線とも想定内とも言えるものだろう。良いものをより良く、悪いものを限りなく排除していく姿勢は、普通の成長プロセスだ。
完成度の高そうなKindle(の広告)を見ていて、こうしたデバイスの前にWebがあってよかったと思う。不毛なブラウザ戦争や、アクセシビリティ論争や、その他諸々のWeb業界の葛藤が、少なくとも間接的には織り込まれているような匂いがする。Kindleの開発には全く関与していないが、あの苦労が無駄ではなかったと思えてくる。
Webはこんな感じで、まだまだ様々なチャレンジの露払い的な立ち位置を求められるのだろうなぁと思っている。それだからこそ面白い。
露払い Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%89%95%E3%81%84
すべての企業がWebサイトを持っていないところから、全企業Web化の時代を経て、そして全企業Webサイト有りの状態から、そこからの突出を狙うWebサイトの時代へ。Webサイトへの取組みは、とどまってはいない。むしろ、セキュリティやライブラリの共有化など、より見えないところでの切磋琢磨が高レベル化している。そして、バネが弾力(?)を蓄積し切ったところではじけるように、また一段上のステージに昇って行くのだろう。その現場にいられることは光栄だ。
- あぁ書いてて益々欲しくなった来た
- それにしても、日本語が最初のバナーだけというのは余りに不親切ですよ、Amazonさん
- 下宿時代に買った小さな本棚は、20数年を経て未だに我家にあり、息子の部屋で彼の玩具を飾っている。貧乏性が故に捨てられずに、引越しのたびに迷うけれど、手放さないでここまで来た。ともに過ごした時間を刻んだモノは他にもある。それに比べてWebサイトは儚い。あっという間に消えていく。どこまで遡れるか。Webが定着化するほどに重くのしかかる課題だ。
以上。/mitsui