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[180] 忠告、そして自戒

親切心から声がかかる。迷ったときに、困ったときに。でも困ってない時にも声がかかる。それが精神を揺らす。助けられるときもあるけれど、メンドーな沼地に誘われる臭いがするときもある。

手軽なことだ。災難を身に受けない者が、
ひどい目にあっている者らにあれこれと忠告するのは
アイスキュロス「縛られたプロメーテウス」
岩波文庫 http://goo.gl/CTQj7

子供によく話していた物語がある。イソップだったと思うが、オジイさんと孫とロバの話。遠くに出かける用事があって、ロバに孫を乗せていく。周りから「なんてひどい子供だ、老人を歩かせて」と声がする。オジイさんがロバに乗ると「なんて非道い奴だ、あんな小さなロバに乗っかるなんて」となじられる。しかたがないので、ロバの足を棒に縛り、オジイさんと孫が担いで進む話。

子供たちが、やたらアドバイスや周囲の目を気にしていると思ったとき、この話をした。何度も繰り返しているので、話し出した途端に子供達は「分かった、分かった、自分で考える」といって逃げ出すようになった。無責任なアドバイスに耳を傾ける必要はない。先ず自分で納得するまで考えることが大切だ。

それにしても、私がそのオジイさんなら、素直にロバを担ぐ前に、怒っていたと思う。無責任な攻撃よりも腹立たしい接し方はない。自らは傷を負う事も、汗を流す事もなく、高見に座って、俺の指示に従っていれば楽になれるんだと物知り顔で指を指す。そんな声が悪魔の囁きであり、結局残念な結果につながり易いことは、経験値は教えてくれている。

かけられる声が、真の救いの声か、勘違いお馬鹿さんの声かを判断するのは、その姿勢や眼差しなのだろう。状況をどこまで見つめるのか、何を悲惨な状況として避けようとしているのか。その時の犠牲をどの程度と見込んでいるのか。人の接し方は様々な情報を与えてくれる。

きっとオジイさんと孫に後ろ指をさした人々は、手を口の前に当て、自分の素顔を隠すように、半分聞こえるようにヒソヒソと非難したのだろう。ロバを担ぐ重さを考えもしないし、経験したこともない上で。残念ながら、そんな人が増えて来た。

手軽にアドバイスする風潮は強くなっている気がする。前線から安全なだけ離れ、現場の状況をよく聞きもせず、最新技術をよく知りもせずにこっちが行くべき道だと指し示す。いかにも親切で、困っている人のことだけを考えているように見えるが、何か違う。寄り添う気持ちがない。正論を言っている自分を愛おしんでいるだけの香りがする。

震災以降、この辺りの境界線を強く感じるようになってきた。語る人がどちら側にいるのか、自分事として考えているのか、それとも他人事なのか、ただ言いたいだけなのか。そんな立ち位置で判断され、語るだけならもう結構ですという所に落ち着いてき始めているように感じる、様々な場面で。

何が正しく、何が間違っているのかを、絶対的な尺度で判断し実行できることはない。でも、何もしないよりは何かした方が良い。静観という選択肢は受け入れがたい雰囲気がある。間違っているかもしれないけれど、間違った時には私も一緒に対応するから、という姿勢にこそ人は惹かれる。その傾向が強まった。

特に技術の話であり、ネットの話である。今現時点で、将来に関わる事を瞬時に俯瞰し、判断し即決できるのは、神かそれとも勘違いおバカの二極だろう。現時点でのアドバイスというかディレクション支援は、ノウハウ的知識ではなく、「責任」という局面を持つものだけにシフトしているように思えている。

口を出すなら、責任を少しでも負え。そんな雰囲気で現場が進む事が、多少ギスギスしてでも良いのではないかとさえ思えている。責任を負う回数を重ねれば、そのうちに奇麗に負える様にもなるだろうから。

そう考えたら、身近なところではチームや会議のメンバも絞れる。的確なアドバイスだけくれる絶妙な人もいなくはない。しかし、例外的存在だろう。ただ会議に参加して仕事をしているアリバイ作りに精を出す人は基本的には排除しよう。勝手に仕事をした気になる人は不要だ。共に仕事をなす人だけをメンバと呼ぶ。動く人間だけが集まったチームは多分強い。それは最小限の人数だからだと思う。

「80対20の法則」や「パレートの法則」と呼ばれるものがある。組織人材論的にかなり乱暴にまとめると、どんな組織でも働く2割とさぼる8割とに分かれるという話で、そもそも人材やスキルに依らないと言われている。4番打者ばかり集めても、打つ人と打てない人に分かれる、と言えば、体感的にも正しいように感じる。

▼80対20の法則 - @IT情報マネジメント用語事典
http://goo.gl/T6MJ
▼パレートの法則 - Wikipedia
http://goo.gl/5TAn

少人数チームというのは、この比率で計算すると主要機能担当者がゼロになりかねない状況なのだろう。つまり、企画し情報整理する人、プログラムを書く人、デザインを作り出す人、この3人ならば、さぼる8割は生まれないのである。数では多く見える「80」は、実は「20」の前に勝てないからだ。20が先に生まれる、といっても良い。つまりは、自分事として全力を尽くす方が優性遺伝子なのだ。だからこそ20が全体を引っ張っていける。

こうやって文字にすると危険な香りもしないではない。独裁的な匂いもする。でも閉塞感がものごとも縛りつけるような時代には求められる要素なのだろう。大災害を前に、最前線にやっても来ないで訳知り顔で分析だけしている御仁に人望は集まらない。そして、コトは大災害だけではない。技術革新の現場だって、通常のことだって、山場はある。優しい道などないと思った方が正しい。

そうやって少数精鋭で研ぎ澄まされた体制と経験こそが、実は「空洞化」を防ぐ手段なのだ。責任を負いつつ、退路を断ってこそ工夫が生まれる。その工夫の蓄積こそが宝であり、ポテンシャルであり、活力だ。上からの指導で成り立つ場ではない、現場が必死になって試行錯誤をする体制。指導する立場に価値があるとしたら、その神聖な聖域である「現場」の自由度を守ることであり、縛ることではない。だから高みからの無責任発言は、現場を冒涜し、無力化させる忌み嫌うべき存在なのだ。偉そうな戯言を吐く前に、現場に足を運び、共に汗を流した方が良い。

そして日本では他国のようにいきなりデモが起こったりする否定行動は起こらないのだろうとも思わされる。静かに無視するのが流儀だ。戯言を言う上司が無視されるように、お高い位置にいた方々が続々と無視されている。天下りの御仁たちが一部の間で「クダラー」と呼ばれるのも時代の動きを感じる。今、心が折れていない現場は実は活性化している。

翻って、私はいかがが。相談事に対して、プロジェクトに対して、プロジェクトのメンバに対して、組織に対して、家庭に対して、地域に対して、震災に対して、国に対して。考えるほどに頭を上げられない。でも無責任な世迷い事を言わぬ姿勢は貫ける。できることから、責任ある行動に移っていこう。

以上。/mitsu

・期せずして、編集っぽいこととイラストを担当して、更に名前まで出して頂けた本(単なるミスのような気がしている)。旧約聖書のダビデの話:

▼Amazon.co.jp: ソーン・バード: 平野 耕一, 三井 英樹: 本
http://goo.gl/mF2TF