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[194]「想定できませんでした」は「私はバカです」を意味していた時代

最近、もう20年も以上も前、新卒だった私がヘマをやらかして吊るし上げられたときの台詞を思い出す。それは「そんなデータが来るとは思いもしませんでした(想定できませんでした)」。文字ベースの入出力が中心だったコンピュータが、マウスを使ったデータ入力へと変化している時代。マウスの位置とコマンドとを組み合わせて、適切な命令を作り上げる部分をプログラムする場面だったと思う。杓子定規に計算値をそのまま使ってエラーが生じた。

基本的に、どんなアプリケーションも、入力された情報に対して、正しい(エラーですという素っ気ない返事も含めて)応答を返すのは義務。いきなりクラッシュしたりするのは、そこまで入力した人間の努力を一瞬で無駄にするが故に、あってはならない。それを起こした。その後、先輩方からどんな言葉が返って来たのか正確には覚えていないけれど、要約すれば「馬鹿野郎!、しっかり考えろ」。あの時の自分のふがいなさと、先輩の怖さ、決して繰り返すまいとの思いは決して忘れられない原点になっている。

「考えるんだ、…考えることで私は生きて来たんだ…」
ルサルカは還らない/御厨さと美

そんな新卒時代を経て何年かしてから、上記の台詞に出会う。ドラマは、米国大統領を操り人形にしようとする陰謀のさなか、ある長官がその絶対的逆境のなかで自分を鼓舞する言葉。私にとっては、「そうだ、ちゃんと(漏れなきよう)に考えよう、それが私の仕事じゃないか」、混乱したプロジェクトに遭遇する度に幾度となく自分に言い聞かせた言葉だ。

「ルサルカは還らない」は、御厨さと美の「イカロスの娘」以来数年ぶりの渾身の漫画家復帰作で、そのストーリテーリング技術は私にとっては今だに圧巻。現時点ですらハリウッドで映画化とか「24」的なTVドラマにすれば良いのにと夢想して、時折読み返す。

この作品が世に出て、更に十数年が経つ。そして、巷では「想定外でした」が胸を張って、しかもお偉いさんが言う台詞に豹変した。頂点は、「あのような地震や津波は想定できるものではなく、我々には責任がありません」か。私の翻訳機では「あれは私どもが考えられる域を越えていました、えへへ」と解釈され、どのツラさげてそんな台詞が口からだせるのだ?、が率直な印象だ。

「どのツラ…」とは2つの意味での呆れるという意味だ。一つ目は、考え方。もう一つは、そんな発言をしても良いのかとい点。勿論、考え方にも、話す内容にも自由度はある。ある意味、どのように考えても、どういった発言をしても構わない。でも、そのように考えたらオシマイだとか、そんな風に言ったら自分(の組織)の存在意義が危うくなるので言いたいけれど言えない、といった境界線は存在する。考え方にも話し方にも、モノゴトへの取組む姿勢が現れる。

人が作るものである、完璧なものであるはずはない。大自然の方が圧倒的な力もあるだろう。でも、だからこそ、「想定できるものではなく、我々には責任がありません」とは言ってはいけない。何でも制御できるんですという過信はもっと手に負えないオバカだが、ここまでしか出来ませんから責めないでw、はありえない。呑み屋で打ちひしがれる泣き言なら許す、でも公式会見では、歯を食いしばってでも飲み込むべき言葉だろう。

そんな中途半端な境界線を引くのであれば、そんな開発などしなければ良い。どんな圧倒的な力が襲って来ても、責任もとるし、折れずに、より完璧なものに一歩でも近づくんだという熱血がないなら、立ち入ってはならぬ領域が存在する。それがエネルギーの領域であり、まさに原子力の領域だ。熱意だけでなんとかなる青春領域ではないが、熱意もトコトンやる感もないのであれば、成立する気も、信頼する気も生まれない。

ついで、責任の取り方を考えながら、もう一度怒られた場面を思い出す。非は私にあるので、グウの音もでないのは自明だが、激しく責めた先輩は後日自分もああして責められたよ、と話してくれた。みんな叱られて大きくなった。そして、叱る側に回った時、叱る言葉に恥じないようにと肝に銘じている。

プログラムのバグの多くは、想定できない自分の非力が原因だ。どう使われるのかが全方位で想定できたなら、後は時間の問題でしかない。処理できる範囲を越えたスケジュールを立てられたなら、そもそもバグを埋込むための自爆道でしかないが、そうでないならバグ脱却法は、注意深くあれしかない。結果として、再現方法が分かれば修正/対処することがほぼ出来るので、よほど根幹的な制約に引っかからない限り、やはり注意力や想定力が根幹だ。

それはどのように育つのか、やはり経験しかないと思う。更に単なる経験ではなく、背水の陣に近い経験しかないのだと思う。常に二度目はないという姿勢で、これ以上ないというギリギリのところで踏ん張って、先輩に叱咤され、後輩を叱咤し、偉そうにする限りは、汚点も残さず、言い訳もしないで進む。そんな人材が増えれば、組織として非常に好循環な環境になる。

私は、このような本当に恵まれた環境で育てられた。ここでは何度か触れたが、最初のOJTでの指導教官(先輩)は、数個先のプロジェクトでは私の部下となってくれた。それは私が優秀だったからではない。そういうカリキュラムなのだ、私がコーディングで学ぶべきことを終えたなら、次はプロジェクトリーダーとして学ぶべきことに専念できるように、開発の主力を先輩が担ってくれた。

リーダーの仕事は、開発程ロジカルではない、人や組織の調整事があり、機能を理解してもらうドキュメントワークがある。スケジューリングもあるし、開発とはかなり異なる脳の部位を使う。だから、順々に教える(教わらなければ身につかない)。だから先輩がチーム構成上は下にもなる。まさに下から支えられた。

その先輩は、今でも私にとって神に近い技術者で、ミスをしたのを見たことがない。でももしミスをしたなら、潔く責任を取ったのだと思う。それはその地位を去るということだ。そうしないと、自分の誇りに抵触するだろうし、組織の循環を妨げるから。それ位の覚悟で仕事しろよ、と背中がいつも囁いていた。

優秀な人材がミスが故にその席を追われる。多分それはとんでもない損失なのだと思う。定着している諸々のバランスも崩れるだろう。でも、長い目で組織の成長を見たならば、それは良い効果を残すのだと思う。その優秀さが本物ならば、別の場所でも花を咲かせるだろうし、責任をとって去るという新陳代謝は、よりよい緊張感をもたらす。そして新たなより良いバランスが生まれる…はず。

最近日本は、闘うと負けるから闘わないという姿勢がはびこっている。闘うよりも、もっともらしい闘わない言い訳を考えつくことに知力を使っている。本来守るべき大義よりも、今生き残る戦略/戦術を採ることが賢いとされているように見える。生き残ること自体は大切だけれど、その結果、何かが歪んできてはいないだろうか。そもそも、「こんなんで行けんじゃね?」的にコソコソ作られた後付け言い訳に大義が寄り添う訳がない。ミンナはもっと賢い。

国民や地域に過酷なまでの被害を与えつつ、誰も責任を取る必要がない状況。そんなものがあり得るのだろうか。その被害に想いを馳せる想像力や想定力がないのであれば、その人たちはそんな仕事に就いてはいけなかったのだ。

思い返すに、「想定できませんでした」は「私はバカです」を意味していた時代は、素直な時代だった。そして、どうすればバカから脱却できるかを真剣に考えていた時代なのかもしれない。

▼参考:

以上。/mitsui