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[140]あるユーザ会

2009/11/26 14:00  

あるユーザ会に行ってきた。今回もいつものものではない。いつもとはグレード(会場、食事、...)が2~3レベルも上、当然雰囲気も違う。対象の製品の値段も、個人活用ツールではなく、集まる人たちも単なるエンジニアでもない。もう少し上の決裁権を持っている。

そういった事前情報を知っていたので、さぞオシトヤカで、御用組合のようなものを勝手に想像していた。いつものように少し遅れて会場入りしたのだが、どことなく雰囲気が想像と異なる。アグレッシブというか、攻撃的というか。もちろん矛先はベンダーである。

パネルディスカッションを司会しているのは、この業界では超有名なユーザの一人。役職も超上位にいながら、凄く中の方まで知っている。「JavaScriptでどこをどうしたら、ここにも注意が要るよね」、「それってヴァージョン幾つの時?、Ver.○の時はそれ駄目だったんだよね」。長年現場にいたことが滲み出る。何ができて、何に苦労するのか、知っているからこそ様々な決断ができる。言葉の裏側にそうした自信が漂っている。

聴衆に質問を求め、自分の答えを語り、ベンダーの回答を引き出し、会場にいる全ての人を議論に巻き込んでいく。旧知の仲の方々は、いつ指名されるか分からないので、緊張さえしてる。話題が変わる度に、PCで何かを用意したり、隣と何か確認している人もいる。そして、時間通りに議事を消化して終了。失礼ラインと自由討論のギリギリを狙う絶妙な(議事)進行。どう考えてもベンダーにはできない姿だ。

語られた言葉の中に幾つか気になることがあった。「マニュアルにはそう書いてあるけれど、実際に成功したと聞いたことがない」、「こんなに高いんだものね」。余り、公然とは聞けない話だ。私は一番後ろで聞いていたけれど、ベンダーの技術者が少し蒼ざめて見えた。

某A社系F系のイベントでは良くあることだ。なので雰囲気は知っている。でも、A社系の場合、そこではなぜだか知らないけれど、慣れっこになっているのか、緊張感がどこか緩い。バグ報告があっても「すいませんねぇ、へへ」という感じ。担当者が、本国に対して頑張ってくれているのを知ってはいるが、言う側にも「何度も言わせないで、さっさと直してよ」という疲弊感は否定できない。

バグがいつまでたっても修正されないという状況は、このユーザ会のツールでも同じらしい。国産でないのも同じで、本国から見て日本のユーザの声が届きにくいのも同じ。でも、ちょっと互いの立場が違う。明らかに、ユーザの方が、「俺達が使ってやっているんだから、多少のことには目をつむるが、大事なことはキチンと直して成長しろよ」という姿勢が見える。

そう簡単には見捨てない、でも甘えるな。そんな指針は、懇親会の乾杯挨拶にも現れていた。ユーザ会の会長は、「高いんだから使い倒しましょう」、そして、「そのためには活用事例や方法を共有しましょう」との趣旨の言葉を口にした。ベンダーのやるべきこと、ユーザのやるべきことがはっきりと分かっているのだろう。「高い」という言葉を使って、ベンダーをいじめているだけではない。使うという選択をした責任を自らに課している。高度な決裁権を持っているからこその感覚なのかもしれない。

そうした正直で嫌味にも聞こえる言葉の連呼にベンダーはどう思っているのか。興味津々で直接聞いてみた。「これバグじゃねーの」的な話題のときに、いやいやちゃんとできますよと声を上げた技術系の方がそばにいた。針のムシロですね、と声をかけたら、「はい、でも正直な方がいいんです」と即答。

できないものはできない。できることはそのノウハウを共有する。そのお手伝いをすることで、お客様のビジネスが成功することが、我々の成功ですから。変にできないこともできると言って期待させて、ビジネスを失敗させてしまっては、元も子もありません。

模範解答ともいえる返答の中に、お互いが寄り添い合って成長している姿が垣間見える。高額商品にはありがちなことだが、基本的に日本という市場の中では、このツールは、買うことのできる層には行き届いた状態だ。毎年何%もの市場拡大は望めない。ならば、今のお客さんの満足度を高めて、離脱率を抑える方策の比率が高まるのは自明の理だ。

使いこないせない機能を、素人に売りつけて市場を伸ばす戦略は、このベンダーにはない。売ったからには使い切って頂くしかないという覚悟が感じ取れた。とは言っても、膨大な機能を有するが故に高額でもあるので、そう簡単にはいかない。そんな時にユーザ会が機能する。胸のネームプレートは、競合企業が混じっていることも示しているが、そのツールのユーザという立場では、同胞だ。そこを束ねる機能を充分に果たしている。

この文書を書きながら、当然ながら、A社やM社の製品と対応とを思い浮かべる。幕張で派手に大イベントをやっていた時代から、徐々にプライベートセミナーに軸足が移り、今はコミュニティに焦点が移っているように見える。不特定多数のユーザの満足度を上げるには、ベンダー単体では弱すぎるのだ。

サポートしてくれる人を育てる。ここ数年の流れの一つの成功例を今回のユーザ会は示している。一朝一夕には成立しない。するはずもない。ベンダーとユーザの長年の接点の連続こそが、その製品やベンダーの「歴史」と呼ぶものなのだろう。

製品のVer.1から知っていることも、各種ユーザ会との接点も、全て「Webの今」に関わりあっている大切な事件なのだろう。事件はリアルタイムで進んでいる、どこかのコピーが浮かんでくる。積極的に関わった者にこそ収穫が与えられるはずだ。いい歴史を刻んで行きたい。あとで振り返ったときにもそう思えるように。

以上。/mitsui

[139]ワクワクとギラギラ

2009/11/19 14:00  

いつもと趣向の異なるイベントに誘われた。いつもは少しはデザインの香りがするものなのだが、ほとんどエンジニアリングだけの香り。実は出自がそこなので、少し懐かしくも感じる。「デザイン」という言葉は出てこない、代わりに「ユーザビリティ」や「リッチ化」という言葉がかすかに聞こえてくる。

今の私の活動との接点は「RIA」。そしてその先にクラウドがありそうだと思わせる予感。でもその話が出たのは全体の数分の一。ほとんどは純粋なエンジニア、というかデベロッパのお話。一瞬睡魔が襲ってきたが、語られる未来路線は興味深いし、なにより無視できない市場が存在し、期待を持っていない訳でもない。

基本スーツ姿の方々に混じって聞き入り、懇親会でもその中に溶け込もうとする。でも何かしら違和感がある。何か本質的な部分で、いつもの場所と違う。「ワクワク」と「ギラギラ」。突然、そんな言葉が浮かんだ。

「ワクワク」は、技術をどう使おうか、どう使ったら楽しいかを考える層。手短に言えば、クリエイタか。「ギラギラ」は、この技術でどう儲けようかと考えている層。でもSEとかエンジニアとは少し違う。少し前までの、ただ儲けんかなとしている、技術への信仰もなく興味もない層とも異なる。今回のギラギラ紳士達には違うオーラが感じられる。

技術の長所も短所も飲み込んだ上で、その先に行こうとする意思。バグがあろうが、それに対処さえすればよくて、ベンダーの遅さなんか折込済みさ、という達観したようにも見える視線。そして、その上で一段登った方が勝ちなんでしょ、という意気込み。

開発者というよりも、粋な商売人に見える。そのシタタカサが心地よい。永遠のベータという言葉を、青春的に捉えていない。肯定的に次のステップにつなぐ何かに見立てている意識と意思を感じる。なにより浮ついた感がない。集められた方々は、主催者のよると各社1名。つまり皆がそれぞれほぼ競合と思ってよい。だからこその緊張感もあったのかもしれない。

以前、みんな一緒に儲けましょうよという基調講演がなされたイベントでは気持ち悪さを感じたが、今回はそれがない。クリエイティブとか美とか、その価値だけで勝負できるんだから、さぁこのツールを買って世界に羽ばたきましょう、みたいなメッセージはただただ嘘くさくて、食い物にしよう感が表に出すぎだった。ツール買って富が築けるなら苦労はない。いや騙すにしても、もう少し気持ちよく騙してくれんかね、と思ったものだ。でも今回は何かを買えば夢が手に入るとは語られない。聞く我々も儲けるためには、汗まみれのヒトヒネリが必要なのだと多くの場面で学んできた。キャッチーな煽り言葉で高揚させようなどという単純なシナリオは、この会場には皆無だった。

ワクワクだけでは生きて行けないフェーズに突入しているのだろう。黎明期の高揚の季節から、腰を下ろしての選択と選別の季節へと移っているのをひしひしと感じる。ギラギラした目線が頼もしい。浮ついた気持ちのビジネスではない、何もかもを飲み込んだ上での更なる飛翔を目指した歩み。こけおどしや薄っぺらな技術コンサルでもない。技術に関しては、並みの腕ではないのだろう。そこへの自信が、コセコセ(セコセコ?)した雰囲気を排除している。その分野は任せろと胸を張れる領域の存在を感じる。

淋しさを感じるのは、単なる回顧趣味なのかもしれない。担い手の特質が変わろうとしているのを直感的に感じている。何かが終わろうとしていて、何かが変わろうとして、今まさに動き出そうとしている。そうした脈動を感じるのは久々だ、懐かしくも新しい鼓動だと感じる。夢だけを語る正義の味方が、徐々に小難しい理屈を並べる、どこか似て非なるものに変わって行く様のような感覚もある。やっていることは似ているのに、何か違う何か。

「Webって楽しい」、そんな段階から、「Webは便利だ」、そして、「Webは使えるぜ」。あこぎなビジネスではなく、少し前のビジネスマンからは地に足をつけたとは言い難い、それでも何かに根を張り巡らせた感の漂うビジネスマン達とその領域。手触りで判断できる領域から、目に見えないデータの塊の領域へ。「所有してなんぼ」から「活用してなんぼ」の世界へ。

頼もしさと同時に、フワフワしたネットという世界が、どこか硬質化していく予感を感じる。その硬さは、堅苦しい雰囲気へのベクトルではなく、積み上げていくことのできるスキルや信用やナレッジの醸し出す堅固さや堅牢さへのベクトル。そうした未来も良いなとも想う。永遠のベータやコロコロ仕様が勝手に変わるマッシュアップの調整への疲れが、その志向性に拍車をかける。

すべてはWebから始まった。そんな声がする。内なる声なのだろう。モノの価値は昔からあった、でもWebがそれに気付かせてくれた。自分の成長期にネットの黎明期が重なってくれた幸運に感謝している。いまだにWebから離れるな、Webはますます面白くなるぞと声がする。今つまらなく感じることこそが幻想なんだと誰かが囁いている。その証に、ほらこんなに面白い人材がまたここにもこんなにいるぜ。そんな声も響いてくる。

ツールベンダーが本来のコアユーザを忘れて迷走し始めている中、コアユーザはどんどんと貪欲に強かに変貌を遂げている。ベンダーもメディアも実は後手にまわっている。ユーザ本人ですら気がつかない間に全然別物にバージョンアップしているのかもしれない。1年前にそんな風に考えただろうか、と感じる人もいるのではないか。

時代が求めている全ての荒波を増幅させるかのように、Webがそうした機構として働いている。その仕組みそのものが、巻き込まれた人を変えていく力を持っているかのようだ。情報に育てられ、サービスに育てられ、クライアントに育てられ、経済状況に育てられ、ベンダーに育てられ。ネットという場に居を構える人たちが変わっていく。

ワクワクで進んでいける人たちに、ギラギラした想いで進んでいける人たちが混じり込み、時代やネットは更に混沌と面白く味わい深くなっていく。デザイナでもエンジニアでもない世代が育て来た先に、ビジネスマンという属性を持った世代が育ちつつある。ネットの主要構成要素が技術ではなく、人だと見たならば、これで面白くならない訳がない。そしてその内に、それほど遠くない未来には、もっと別の属性を持ったキャラが活躍していくのだろう。道は続く。明るい方向に。きっと。

以上。/mitsui

[138] 作り手の存在を忘れた議論の行方

2009/11/12 14:00  

HTML5の姿が見えてきたせいか、Silverlightの凄さが分かってきたせいか、最近Flashの価値論を目にする機会が増えた気がする。もはや、Flashを特別扱いする必要はないと言わんばかりの論調が多い。

確かに、Flashを特別視する必要は、もはやなくなりつつあるのかもしれない。事実右クリックをするまで、Ajaxだと気がつかない動きも多い。見抜けない自分を可笑しく思いながら、何で作られたかが問題ではなくなってきている流れも感じる。

昔、Flashでなければできなかったことが多かった。もたついたサイトの中で、たくさんの感動をもらえたのは幸運だったし、幸福だった。99%が有害であるというクジ運の悪さもなかった。自己満足だけのスキップしたくなるオープニングムービーには今でも沢山出会っているけれど、得られた感動の方が大きいせいか、腹立たしさはそれ程残っていない。

▼Alertbox: Flash: 99%有害(2000年10月29日)
http://www.usability.gr.jp/alertbox/20001029.html

もしかしたら、当時ですら山ほどの技術を盛り込み、ブラウザを限定すれば同じような体験は可能だったのかもと思ったりする。特に最近のRIA技術の水準の平均化を見ていると、そう思ってしまう。機能別○×表を作成したら、殆ど優劣はつかなくなってきている気さえする。

でも、Flashは特別なんです。心の奥でそう叫び声がする。それは自分の故郷を想う気持ちなのかもしれないし、自分の恩師への感謝の念なのかもしれない。自分の中の何とも呼べないスイッチを入れてくれたもの。そして、それを拡張して行ってくれた先人達。そう、Flashは技術だけではなく、それを支える人たちも含めてFlashなのだ。少なくとも私にとって。

だから、最近のFlash不要論や技術なんでもOK論を聞きながら、つぶやいてしまう。「いやいや、誰が作るのか分かっているのかね、ワトソン君」。機能が同じなら、誰が作っても同じだと言わんばかりの主張には、もはや溜息しか出ない。なら、あんたが作ったら?、と悪態が口をつく。

メディアは、未だにFlashをコアにしているサイトに問題があると、Flashのせいにする論調を捨てていない。先の大学での問題もCMSの問題も。でも、特に大学サイトの場合、メディアの見出し上はFlashが悪者だったけれど、すぐさま原因究明+改善策を暗示していたコメントの多くは設計の甘さを指摘するものだった。Flashが悪いのではない、Flashを使う者が心してかかるべきなのだ。結論は既に出ている。全ては人にかかっているのだよ、ワトソン君。

にもかかわらず、未だに技術だけを論点にする風潮が消えない。システムインテグレータ(SIer)にいた頃、社内にActionScript(AS)を理解する人たちを育てようとしたこともあった。誰かが作ったものをメンテする要員はかろうじて育った。けれど、「最初」を作れる人には遂に出会えなかった。どんなにロジックが書けても、データのやり取りができても、ぎこちない動きに不自然さを感じないセンスの上には、何も積みあがらないのを肌で感じた。技術をスケープゴートにするのは、ズルすぎだ。ASのスパゲッティの塊がFlashと思われては困る。綺麗なFlashだけがFlashとして評価されるべきで、その辺りの勘違いこそが99%有害だと言わしめた根源なのだろう。

言語を憶えても、立派なプログラマにはなれない。SQLがどんなに理解できても、素敵なDBアプリケーションは作れない。立派なプログラマが言語を熟知していることは多いけれど、逆は真ならざり、だ。国語辞典編集者だからといって感動的な小説を常に書けるとは限らないのと同じ道理であり、それは優れたエンジニアの中では常識だ。言語や文法には収まり切れない何か。センスとしか言いようのない何か。それがない限り、その道のプロとは言い難い何か。皆、それを得ようと精進している。

そしてそれこそが、Flashを支える人達の魅力だった。オタッキーで、コダワリが強く、意地っ張りで、疲れを見せない。呑んで騒ぐわ、語りだすわ。いつ寝ているかも不明で、どのサイトの話をしても乗り遅れない。それでいて、子煩悩だったり、別の趣味を持っていたり。それもどれが本業か分からないほどの深さの知識。更に言えば、それがお金になる可能性の余りの低さ。知っていることが何の得になるのかと問われれば、「好きだから」とだけ言い切れる潔さ。多彩な関心アンテナこそが、人の気持ちに触れる動きを作れる原動力だと言わんばかりのバイタリティ。

インタラクションという言葉を使ってしまうと、単なる技術のように感じてしまうが、実はもっともっと生活の身近にある生活臭に近い「気付き」を大切にする感覚も強い。コップを動かしたときに揺れる水面を見て、この揺れをモニターで使えないか凝視する。北風で落ち葉が舞う情景を、作品集や人の検索に使えないか震えながらたたずんでいる。生活しながら、何か楽しいことを常に探していて、その動きを展開しようとする。自分の得た印象を応用しようとする。そうしたチャレンジに感動したのかもしれない。

ネットが黎明期を過ぎ、普及率も一定線を越えた。ネットがない状況を想像できない世代も出ている。明らかに以前とは異なる状況になってきた。その中で、Flashはどう必要なのだろう。

答えのひとつは、US MAX 2009で語られた、Flash Playerの広がりだろう。メモリとCPUの使用量を抑え、どこでも液晶時代のデファクト・メディアプレイヤーを目指す姿だ。描いていいキャンバスの広がり。PCモニターという制限を嫌う者を誘っている。ケータイだけではない、モニターと名のつくところ全てがキャンバスになる。そこにワクワクする人は少なくはないだろう。

▼Adobe - Adobe MAX 2009 イベントレポート
http://www.adobe.com/jp/joc/events/max2009/video/day1/
(ちょっと長いけれどFlashの未来を考える上では今こそ見ごろ)

でも、それだけでは足りない。キャンバスが広くても、先へ先へと進むには、一人ぼっちでは淋しすぎる。だから、もうひとつの答えは、やはり人、あるいはコミュニティなのだと思う。何ができるかではなく、誰が作るのか。その誰かを更に誰が支援しているのか。今後のRIA技術というか、新しいWeb技術は、そうしたコミュニティの成長にかかってくる。Flashを超えるものは、Flashコミュニティを超えるコミュニティを有する何かだろうと強く想う。

どんなベンダーもW3Cも、技術という小石をデベロッパーという市場に、投げ込めばそれが広がるとは考えてはいまい。技術的にできることが多いとか、価格が安いとか、それがキーにはならなくなってきている。いや、今に始まったことではなく、面白いか面白くないかが一番の壁なのだと思う。面白いと思ってしまう人をどれだけ束ねられるかだと言い換えても良いかもしれない。

面白いことが好きな人の周りには、引力ができる。様々なスキルを持った凄い人間を惹きつける力。Webはそうして深化している。何もW3Cやブラウザベンダーやツールベンダーのおかげで強くなったのではない。面白くする力のある人が寄ってたかって全力を注いで、今がある。

「RIA」や「おもてなし」や「エモーショナル」や「体験」が平然と言葉として表される時代。ベンダーは、より心した対応を迫られている。クリエイティブな人たちを大切にしているのか、機会を与えているのか、チャレンジを与えているのか、厳しい評価基準を与えているのか、鍛えているのか。同様に、作り出す側はもっとシビアな道を歩んでいくことになるのだろう。誰だってツールを使えばそこそこできるように水準が上がっているのだから。

Flashが不要になるのは、実はこうしたコミュニティが崩壊したときなんだろう。技術的に追い抜かれた時ではないのだろう。その意味で、ベンダーも岐路に立たされている。どう支援していくつもりなのか。どう買っていただくのか。ツールベンダーとクリエイターとの新しい関係模索は未だ未だ黎明期なのかもしれない。

以上。/mitsui

[137] 0から1、1から2、1から10

2009/11/05 14:00  

0から1を生み出す人がいる。1を2に、あるいは10にする人がいる。生産性とか効率性とかのキーワードのもとでは、これらは同じスキルのように扱われているように思う。

何かを生み出すという点では同じで、生み出された量とそれに費やした時間との関係性を論じる人たちには同じものとして扱わないと面倒なのだろう。けれど、かなり違う。いや全然違うと言ってもいいかもしれない。アイデアを練る時と、アイデアを展開や拡張している時は、自分でも脳の違う部分を使っている気がする。

根拠は間食。私は食欲でストレスに対処するタイプで、ボリボリとお菓子をむさぼっているときは、何かしらのストレス下にある証。そして嫌々ネガティブストレスも、創造性を求められるポジティブストレスも、同じ対処法。とにかく食べて凌ぐ。短期決戦系ではチョコが必須。でも、アイデアがあった上での展開系作業のときは余り食欲に刺激が行かないようだ。淡々と作業を進めればいい場合は、食べてる時間さえ惜しいとも感じる。自分を観察する限り、必要とするものが異なるのだから、明確に別物なのだと思う。

自分の中に、「0から1」と「1から2」を生み出す別人格(大袈裟)があるように、組織の中でもそういう別働隊が必要だ。そして別働隊が存在し続けるためには、それぞれに適した評価軸が必要になる。「0から1」も「1から2」も、差分(増加分)は同じ1だが、それを生み出すコストは異なる。前者では、私が行うと少なくともチョコの分だけ割増し料金がかかる。

そして重要なのが、「0から1」を生み出す人がいなくなったら、その組織では創造的生産が止まってしまうという事実である。組織とは、自分でも、企業内チームでもいい。もちろんどこでも何でもネット社会になりつつあるので、最初の0が自組織内にある必要はない。起点はどこにあってもいいものかもしれない。でも自分発といえないのは、ちょっと淋しい。そう感じるのが、プロだと思うし、その意地にも似た感覚が最終的に踏ん張れる土台だと思う。

そして、1を0.5にするのが得意な人たちがいる。いわゆる劣化コピー。猿まね、なんちゃって○○ともいう。Webの世界にも横行している。どこをどう真似たらそうなるのか分からないけれど、でも目指したかった行き先か憧れ的ににじみ出るもの。でも、残念な形に落ち着いている。もう少し頑張ればいいのに。レベルも、「惜しい」から「意味不明」まで千差万別。

スキルの問題もあるけれど、無意識的な自己認識の勘違いも大きいように思う。0を1にする能力が、1を2にする能力と別なように、何かを知っているという状況と、それを使い切れるという状態とは別物だ。無意識劣化コピーの主犯は、憧れの対象を見つけて、それを自分でも作れると思い込んでしまった人たちなのではないだろうか。

筋肉などの構造を研究した人が、自分自身でその筋肉を余すことなく使いきり世界最速で走れると勘違いするのに似ているのかもしれない。知っているのと、実行できるのとの間には明らかな壁がある。アスリートの世界なら常識的なことも、IT世界ではちょっと違う。何でもできることが優れていることで、そもそも分業を潔しとしない文化がある。できもしないことを、しようともしないで、偉そうに他人にさせることに陶酔する文化も根強い。で、丸投げを繰り返して劣化コピーを量産していく。責任感が減衰しているのだから良いものができるはずがない。

でも、生産量を考えた場合、どちらも同じ「1」を生産しているように見えてしまう。そう、たとえ品質が半分でも。これらは、ネットの品質を測ることをサボってきたからなのだと思う。300円GIF画像でも、ウン万円画像でも、品質が同じであろうはずがない。でもそれを証明する手段はあまりない。その辺りの標準化にチャレンジしなかったことが、Webが犯した決定的なミスである。使い易さについての評価軸を置いてきぼりにしたことが今になって様々な弊害を生んでいる。ただ、そこを置き去りにしたからこそ、この速度で発達できたのかもしれないが。

そしてもう1軸存在する。生み出されたものの価値の種類の差。品質だったりアイデアだったりという価値と、お金という経済的な価値。これらの関係が比例関係になっていないところに、苦労がある。品質がいかに良くても、アイデアがいかに良くても、経済的に豊かになれるとは限らない。むしろ、劣化コピーの方が出回っているように見えることを考えると、そっちの方が儲かっているのかもしれない。

オリジナルを生み出す方が、少なくとも調査や試行錯誤の時間(=コスト)がかかる。なのに報われないことが、しばしば起こる。アンフェアな世界だと思う。それでも、創造的活動は止まない。ネットの世界を見ていると、よくぞ出るなぁと強く思う。儲からずに苦労している実例の方が多いだろうに、それを検索/検出できないはずもなかろうに、とめどもなく湧きあがって来るようだ。

「0から1」も「1から2」も、それらがアイデアだけでなく経済的なものも全部含んだピースが揃った時に、イノベーションのスイッチが入るのかもしれない。愚痴ったり、ねたんだりする時点でそのレースから脱落しているのだろう。

だとしたら、やはり地道に進むのが王道であり、成功への主導線なのだろう。地道に0を1にし、1を2にし、2を10にする。それを繰り返す。その先には、ビジネス的な成功だけでなく、もっと人を幸せにするものが待っているはずだ。今生き残っていけそうなものは、技術的に優れているかというよりは、いかに便利か、いかに使えるか、が焦点になってきているように見えるから。情報が蔓延して、ようやくそこに至った感もある。先は長そうだ。精進精進。

以上。/mitsui