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[146] これからのWeb、これからのWeb屋

2010/01/27 14:00  

これから自分が何をして食べていくのか、Web屋として。そんな問いは数ヶ月ごとに脳裏に浮かんでは消える。別に答えが見えたから消える訳ではない。不安と展望とが入り混じった状態が浮かぶときで、展望が勝ると考えている時間が惜しくなって沈んでいくというのが近いだろうか。そんな今までの経験と、他のITメディア系の興亡からの推測を重ねている。

いい年にもなっているし、Webの発展は、一応黎明期から体験していると言ってもいいだろう。気に入ったサイトに出会うたびにソースコードを覗き、マネをする毎日。あ~そう書くのか、おーこう書くのか。新しい表現に出会うたびに、その骨格を眺めては感心していた。

たいした技術はなくても良かったのかもしれない。#ffffffが白を指定するものだと知っているだけで、「外側」の人たちには驚かれた。個人の技が世界を変えると言いきってしまうほど、SOHOやら個人クリエイターたちが注目を集めた。各自の技を惜しみなく開示し、時代のアクセルを踏んでくれた恩人たちともその頃に出会っている。

そして時代は、個人からツールにシフトして行く。個人のスキルを、ツールが代行できるかのような流れ。オペレーションを重要視し、それを使いこなせることがスキルと呼ばれた。定型的なサイトが増え、巨大サイトが誕生したのも、その頃だ。ツールを使った大量生産を、少数チームでも可能となった。

ツール至上主義は、省みられることなく未だに一部の人たちの中で信奉されている。ツールがヴァージョンアップするたびに、競って買う層。最新オペレーションを教えることこそが大切だと言わんばかりの学校群。けれど、真のクリエイティブがオペレーションの中から生まれるとは思えない。ツールが提供する、ある意味汎用化された利便性は、結局均質化したものを生むことが多く、更にそれらは劣化コピーであることが多かった。

そうして漸く、ツールは持っているだけでは駄目だし、オペレーションが長けていても、感動作が作り込める訳ではないことが、潜在的に広がっていく。同時に、ツールは作り手を楽にさせるという意識から、より高い完成度を目指す際に助けてくれるものという意識も生まれていく。これは後にコンテンツ・マネージメント・システム(CMS)という領域でも同じ歴史を繰り返す。導入すれば楽になるという幻想は広まってはいるけれど、実際に楽になったという話は余り聞かない。けれど、担当者が様々な工夫をして、質の高いサービス提供ができるようになったとは聞く。

その辺りはパソコンとも似ている。持っていさえすれば、凄く賢くなった気になるけれど、持っているだけで何が変化する訳ではない。ちょっと使うためには、設定とか諸々正直言って手間がかかる。けれど、キチンと作れば、明らかに一段上の品質のものを作成することができる。夜明けまで格闘するようになったのは、パソコンと格闘すると高品質になると自覚してからだと思える。楽にはしてくれない、でも、満足させてくれる。それがIT系ツールの特性なのだと思う。

そんな高品質をアウトプットにする人達は、徐々に大きな舞台を求めるようになっていく。いや、実際は大きな舞台が彼らを求めたのかもしれない。大企業が、ただ大量なものではなく、高品質な情報提供をするための仕掛け、Webサイトを必要とするようになる。高品質な、という枕詞が付く以上、品質に対する評価指標が存在する。指標はほぼ会社ごとにあり、その品質は実はピンからキリまで存在した。

指標があるところには、評価が伴う。様々なWebスキルが、Web以外の評価軸で断裁されていく。それは今でも続いている。Photoshopの使い手が、Java開発者の評価軸で見られる。鶴と亀とを同じ天秤で測ろうとしているようにも見える。かくして生産性や効率性や費用対効果(ROI)の話が至るところでなされる。生産性の高低は議論されるけれど、その評価軸が正当かどうかの議論に、評価される側が呼ばれるはずは無い。評価しなければならない状況が正論であることは認めつつ、生産性の良さを考慮して娘や息子と話をするのかという思いも頭をよぎる。効率を求めて伝えて、本当に効率よく進むのか。北風と太陽の話も思い出す。吹き飛ばせば効率良いように思えても、結局旅人がコートを脱いだのは暖かさの故の自発的行動だった。

一つ上の段階に進むたびに、何かしら新しい評価軸の壁に突き当たる。それがWebの進展や進度や深度を測るバロメータなのだろう。そうした測る側の構造も変わりつつ、測られる我々自身も変わっていく。創意工夫のテーブルレイアウトの時代から、情報構造的なCSSレイアウトの時代。セキュリティに対する対策。HTMLという言語における、コードの品質。Webという枯れた技術に見えながら、実は日々深く深く根を伸ばし続けているこの業界。決して歩みが止まっている瞬間すらない。そして下水道管を内包している普通の道路や、年中工事を繰り返している主要鉄道駅と、実はよく似ているのかもしれない。

普通になったからこそ、深化しているもの。一般的になったからこそ、高度なものが求められる世界。ここまで来て、時代は巡っていると意識する。Webサイトって何?、という時代に、他社に抜きん出るために我れ先にWebサイトが構築された。それが、いまやサイトを持たない企業は無い状態になった。

「ない」状態から「あって当たり前」状態に。ここでこの種の競争の一巡目が終わったのだろう。「ない」状態での競争から、「あって当たり前」状態での競争へ。次元が一つ増える感覚だろうか。「ない」時代に、一足早くWebの可能性を見出し、投資を始めた担当者の苦労を考える。何度「それは役に立つのか」という問いに答えたのだろう。今、先進的な担当者は、「あって当たり前」という前提で「今あるんだからもういいじゃないか」との問いと格闘しているのだろう。

Web屋も同じ問いと戦っている。HTMLだけなら誰でもかける時代になった。そのスキルだけを見ると価格競争に入らざるを得ない。「ほとんど書ける人がいない」時代の戦い方と、「誰もが書ける」時代の戦い方は、自ずと変わる。

どこかにヒントはあるはずだ。例えば、花王社長は次のように語る、「商品は機能だけでは売れない。情緒性が必要」。洗剤やシャンプーなどの日用品は、ある意味、どれでも同じでどこででも入手可能だ。その中で、わざわざこれだと思わせ選ばせ買わせる秘訣を、「情緒性」という言葉で示しているのだろう。

▼花王の尾崎社長が語る「消費者心理」成熟市場では“共感と情緒”がカギ
http://diamond.jp/series/psychology_dw/10002/

情緒に訴える、感性に訴える。それはより深いコミュニケーションを目指してると言えるだろう。文字情報、イメージ情報を提供するだけでなく、もう一歩先に踏み込んだ交流。形式は同じであろうと、従来よりもレベルの高い方法での交流。一方通行ではなく、相互の交流を意味する場合も多いかもしれない。

ここまで書いて、思わされる。なんだ、それってWebじゃないか。原点回帰である。伝えたいことをより深く伝える。Web屋なら当たり前に考えるべきことを、キチンとやる先に未来が待っている。それをクライアントも求めている。悲観することは何も無い。だって、それこそが他社に抜きん出る根幹施策なのだから。

Webサイトを作りながら、コード生産やグラフィック生産が根幹課題ではないことを、各プロジェクトで思い知ることは多い。一番クライアントからも細かな指摘を受ける部分でもあるが、それが問題なのではない。対象となるユーザに、適切なメッセージが、適切に届くのかどうか。「ない」時代のそれらから、「あって当たり前」時代のそれらへの変革。

その変革努力に価値を見出せない人は、「ない」時代にWebに目を向けなかった人達と同種なのかもしれない。ならばその人たちとは共に未来へ歩んで行けはしない。第一段階ですら、実は登れた人と、登れなかった人たちがいる。既得権にこだわり、従来手法に頼りきった結果は、余り明るいものへとはつながっていないと言えるだろう。第二段階に差し掛かった今、同時にそうした生き残りフィルターが降りかかっている。いや常に降りかかっているのだろう。

無限ループのように、問いを繰り返し、答えを模索する。でも、原点をぶらさない範囲で、自分にも説得力のある答えの尻尾が見えた気になる。そのアンテナが朽ちていないかを気にしながら、一歩踏み出す。踏み出し続ける以外に道は無い。

以上。/mitsui

  • iPadでましたね。欲しいです。制作ツールであるMacが、日常ツールに変わって行ってます。Photoshopマシンという名残すら希薄。事実若い人には、そういった意識すらないんだろうなぁ。隔世の感有り。
  • 最終回ではないです、もう少し書かせてください(笑)。

[145] 支えてくれるもの

2010/01/21 14:00  

心が折れそうになる時がある。どんなに虚勢を張っても、体が動かない時がある。語っていて、言葉に力がないと自分で感じてしまう時がある。睡眠時間とか純粋な肉体的な問題は、年齢とともに下降していくのはいたしかたないにしても、精神的な部分でそれを認めたくない自分がいる。

自分が何によって支えられているのかを自覚するのは大切なことだろう。思い出、実績、音楽、喜怒哀楽、言葉、ヒーロー。心の中を覗くと、幾つもの太い支柱が見えてくる。それが脳裏をよぎると、活力が出る。負けてられないと思う。頑張ろうと思う。どこかでカチッというスイッチが入る音がする。

▼思い出/実績/成功体験
今足元をすくおうとしているネガティブな条件と類似でかつそれを克服した経験。あの時はなんとかなったじゃないか。そんな声とも言える。そんなパターンマッチングを脳内で行うのだが、そんな検索がヒットし易くなるためには、検索対象の数が多くあった方が良いに決まっている。無茶を色々と重ねるとそんな経験が増える。おとなしく無難な経験の積み重ねは、支えにするには平穏すぎるのかもしれない。苦労は買ってでもしろという言葉も浮かぶ。
▼音楽
テレビや映画のシーンを、音楽つきで記憶していることもある。ロッキーやスターウォーズなどが好例かもしれない。ダースベーダーがマントを揺らして、あの呼吸音を響かせながら歩いているシーンを見ると、どうしても脳内であの音楽が鳴り始める。逆に、音楽を聴くと、そのシーンも浮かぶ。ならば大逆転劇をするシーンを連想させる音楽が染み付いていたら、励みになる。
吉田拓郎、中島みゆき、甲斐バンド。私の中では再起を連想させる曲が彼らに集中している。彼らの曲に心酔し、無茶や様々な克服をしてきた自分に対しても、恥ずかしいことはできないなと思うと心が震える。頑張ろうと思える。
そして特別な意味合いを持った曲もいくつかある。歌詞やメロディとは関係のないシーンが曲とともに刷り込まれている。もはや、どういう経緯でそう記憶しているかさえ定かでない。そしてそれはどうでもいい。その曲が脳内で鳴り出すと、負けられない病のスイッチが入って立ち上がる。
▼喜怒哀楽
ポジティブなことよりもネガティブなものが大きな支えになっているかもしれない。くやしい。負けてたまるか。そんな三歳児でも思い浮かぶ感情が心を折れさせない。
でも、ようやく最近になって、やはりネガティブなものはネガティブなものを残すのかもしれないと思うようになってきた。ナウシカの映画で、「火は一瞬で全てを焼き尽くす。水と風がはぐくむ。わしらは水と風がええ」という台詞があった。年齢とともに火のような喜怒哀楽ではなく、水や風のような喜怒哀楽が支えになっていって欲しいと思うようになっている。そしてそれが、未だ未だタマにだけれどできるときもある。すがすがしく心を折らずに進んでいくこと。そんな風に進みたい。
▼言葉
沢山の言葉に支えられている、昔も今も。未来は益々そうなるだろうと予測している。例えば、「それがどうした」。矢吹ジョーが最後のリングを前に白石嬢から自分の病状を告げられたときに返した言葉。何かを言い訳に諦めようとしている自分に何度もつぶやいた。それがどうした、関係ないんじゃないのか。自問する中で心に灯が灯る。
年齢とともに涙もろくなっていっているのだが、本当にどんぴしゃな表現や的確な描写に出会ったときに、涙腺が緩む。素直に感動している。それは、映像や音楽もあるけれど、やはり言葉が多い。検索エンジンのおかげでその比率がもっと高まったとも言える。曖昧な記憶からでも探し当てることが可能になっている。支えてくれるものがすぐに集められる、集まってくる。凄い時代だ。
▼ヒーロー
モロボシ・ダンの頃から様々な英雄達が脳内に住みこんでいる。そうした英雄達の中に、見た目は普通のおじサンやおばサンがたくさん混じっている。私がお世話になった方々だ。先生や先輩や上司。文字通り近所の方々やクライアント、協力会社の方々。普通の方々、普通に生活しながら通常以上の困難を越えてきている。それが普通じゃなくて凄い。それが回りまわって支えになっている。自分も頑張らねばとつながって行く。

それでも、同時に諦める勇気も持つようになっている。どうやっても無理なときは、退散する。そこに無理して踏ん張ってもいいことがないと悟れるようになってくる。総合点で優勢であればよいという計算もする。ここで失点しても、次で倍だけ獲得すれば合計では勝ちだと割り切れる。

でも。基本は「諦めない」。諦めるのを基本とはしない。だから、必要なときに、カンフル剤を用いる。自分にあったカンフル剤。年齢とともに、そういった術をいくつか溜め込んで、使いこなせるようになってきているのかもしれない。

そんなこんなで壁を越えるたびに、何か足跡が残る。自分だけが誇りに思う足跡。そしてそれが、あの時できていたことに近づこうとしている自分にとっての支えになる。あの時できていたんだから、今できない訳がない。同じ視線は他者へも注がれる。尊敬しているとかライバル視しているとか関係なく、あの人ができたんだから、あの人がしているんだから、私にもできない筈がない、と言ってみる。そこに疑いを持たない。ポジティブな可能性しか敢えて見ない。ネガティブな想いを封印する。それは信仰に近い。

「神は越えられない試練は与えない」、時々耳にする言葉だ。聖書の原文は下記だと思う。こう思えると楽になる。最後には越えられると分かっていれば、案ずることはない、悩むことはない。さっさと越えてしまえばいいのだ。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
新約聖書(新改訳):コリント人への手紙 第一 10章13節

実は、下記のニュースを読みながら、浮川氏の笑顔を見ながら、これを記そうと思い立つ。ジャストをお辞めになった詳細は知りませんが、この笑顔で充分です。日本語入力をする限り、氏への感謝の念は変わりません。彼も会ったことはないけれどマイヒーローの一人。越えられぬ困難はない。頑張ってください、頑張りますから。

▼ASCII.jp:MetaMoJiは“テクノロジーホールディングス”―浮川夫妻が語る
http://ascii.jp/elem/000/000/490/490033/

以上。/mitsui

  • この原稿を書いていて、朝5:00前にテキストエディタがクラッシュ。さすがに心が折れそうになりました。

[144] 近づきつつある未来、より先にある未来

2010/01/14 14:00  

Kindleの広告を見ていて、大学の下宿生活を思い出しつつ、諸々夢想する。

Amazon.com: Kindle DX Wireless Reading Device : Kindle Store
http://www.amazon.com/dp/B0015TG12Q

押入れと玄関兼キッチンを加えて六畳一間。生活空間はつまり四畳半。真ん中に座れば全方位どこにでも手が届く自分の空間。大学時代は、ついにそこから離れなかった。窓から大家さんの庭が見える二階の一番奥の部屋。たまにぽつんと空く休日に、広くはないけれど、季節の移ろいをゆったりと現すその庭を、ぼんやりと見つめていた。閑静な住宅街のほんの少しだけ奥まったところ。春にはホーホケキョと声がし、冬の帰宅時には下宿につながる最後の路地の真上に、オリオン座が輝いていた。

家を出たいという想いは昔から強くあった。家は離れていく起点としてしか考えていなかった。未だに還っていく場所という意識もない。中学のときも、高校のときも、家を出ることを夢見ていた。勇気がなくて大学までずれ込んでしまったけれど、初めて得た自由という意識があり、そこにいるだけで幸せを感じた。合法的な家出。母もそういって後押ししてくれた。だからパラサイト系若者の気持ちがさっぱり分からない。

そんな我が城の最大の問題は、本棚だった。決して読書家ではなかったけれど、大学生ともなれば、日毎に何か書籍が増える傾向が強まった。貧乏学生だったので、購入には自然と歯止めがかかるけれど、情報への飢え渇きは金がないことでは埋められない。安価に本を入手する方法はそれなりにあった。更に元来の漫画好きである。かさばる書籍が溜まっていく。メモリが小さい分、脳内蓄積は諦めていたので、定期的に整理するなり色々と工夫しながら生き延びた。

それで、Kindleである。あの板一枚を持ち歩けば、自分の蔵書を持ち歩けるというのだ。それも全て。凄い時代になったものだ。紙というまさに手に馴染んだ質感からサヨナラするのは悲しいけれど、それを相殺して余りある利便性を得られる。

Kindleのようなデバイスが普通になった世を想像してみる。四畳半の下宿には本棚がないかもしれない(そもそも四畳半の下宿がないのかもしれないが)。寝具とパソコンとネットと自炊セットと衣類にKindleがあればよい。Kindle片手にコインランドリーに向かい、小説も学校の宿題も漫画も読める。情報を入力する、情報を作り出す、編集するというモードを捨て、自分の脳内に注入することだけに集中するモードを切り分けて作り出せそうな気もする。そして、それはそれでハッピーな予感がする。書きたくなれば、パソコンを開けばよい。

紙の俯瞰性(一覧性)は現段階では未だ越せそうにないけれど、それでも想定内のハードルだろう。エンジニアとデザイナの狭間に育った人材が、軽々とその壁も越えていくのを期待したい。大きな画面や折りたたみ式の画面が出てくるかもしれない。本に相対する姿勢が各人で異なるように、様々な個性に合わせたデバイスが出てくる日も遠くはないだろう。これまでのWebで培ってきたアクセシビリティの知識も総動員して、遠視対応も期待したいところだ。

会議や授業の場でも色々と活躍しそうだ。毎回印刷物を用意する必要がなくなる。参加者全員がKindleのようなデバイスを持ち、情報を検証し、決断を下す。現時点では、会議の場ですら、情報に接する状況は余り良いものではない。紙で配られた資料は、語り手がどこを説明しているのかすぐに迷子になるし、自分のメモを他人と共有するのも一手間かかる。それらが解決できるかもしれない。デバイス間で通信ができ、ネットにアクセスできる。つまらないプレゼン自体を補完することはできないが、会議のスタイル自体をヴァージョンアップする気もする。少なくとも、束になった書類を持ち歩くことなく、同じ情報を参照しつつ、議論が進められるのは気持ち良さそうだ。

コンテンツというか情報に対する感覚も変わっていくのだろう。ビデオ、レーザディスク、DVD、Blu-ray。画質は異なるにせよ、同じコンテンツに何度も投資してきた人は多いはずだ。しかも、デバイスの維持が困難で、今ではせっかく購入したのに見れないソフトも少なくないはずだ。我家にも観るすべのないレーザディスクやベータが、数本捨てられずに残っている。復元技術の発達のおかげで、デジタルリマスター、リストレーションなどデータフォーマットの違いもある。今度こそ生涯持ちえるフォーマットを、画質の差が根本的な差になる映像は未だ先になるとしても、先ずは書籍という分野で確立させて欲しい。

コンテンツに対する意識変革は、既に本をPDF化してiPhoneなどで読む流れとしては起こっている。断裁してスキャンして持ち運ぶ。「本」という形態に対するリスペクトは気持ちよいくらい微塵もない。Amazonでスキャナを探すと裁断機が「この商品を買った人はこんな商品も買っています」の欄に並ぶ。実は司書の子供でもある私には何とも言えない気分になる。

橋本商会 scansnapと裁断機を買って本を電子化しまくる
http://shokai.org/blog/archives/4999

出来上がったPDFがどのような生涯を終えるのかも興味深い。流通経路に乗せてしまえるところに、危うさを感じる。必要があるからこそ、人は工夫する。工夫するほどの熱意のあるところには市場が横たわっている。コンテンツのデジタル化は待ったなしのところに来ている。

毎日消費する紙情報にも目を向けたい。新聞という分野での情報の共有の仕方は、文化というレベルで浸透していると思う。電車の中での新聞の開き方(たたみ方というべきか)を見れば、その人が社会人何年生かが分かるのは今でも通用するようにも思う。実年数ではないかもしれないが、配慮のレベルは一目瞭然だ。

大きな紙面だからこそ、工夫する必要があり、工夫したが故に定着した文化。そうした読み手が重ねてきた努力の上に、アグラをかいてしまった新聞というメディア。それをデバイス化するプロセス。一種の標準化のプロセスと捉えて良いのだろうと最近は思う。標準化されたところでコンテンツ自体の競争を経て、シェイプアップとレベルアップをする時期に来ているように思う。

実は我家は2009年でA新聞の購読を止めた。約40年間慣れ親しんだ文化を捨てたという意識を持って止めた。引き金は、ふざけたコラムひとつだ。詳細は書かないけれど、あれほどの非難の中でも反省のはの字も見えない編集方針に嫌気がさした。執筆者の交代を経ても、本質的な違和感が変わらないところで絶望した。無駄だと分かっていながら、購入勧誘のにぃちゃんにクレームを上まで上げろと来るたびに品質劣化を訴えた。そして購読料の一部でも、そうした人たちに流れるのを阻止すべきだと結論に達した。おかげで朝のトイレが手持ち無沙汰でかなわない。

そして意外なほどに困っていない。淋しいだけで困っていない。そして、淋しがっているほど暇ではないので、事実上の障害はトイレの中だけとも言える。そして、その代替を果たしているのは、ケータイ系である。情報の窓口は、確実に紙から液晶に移り始めている。Kindle系への期待は高まるばかりだ。

Webサイトは、特殊な技術の特化した技術戦というレベルから、総合的な戦いに戦場を移していると認識している。スペシャルコンテンツという場はありつつも、会社の表看板に成長しつつある窓口である。様々な角度から見た完成度を競うようになるのは、規定路線とも想定内とも言えるものだろう。良いものをより良く、悪いものを限りなく排除していく姿勢は、普通の成長プロセスだ。

完成度の高そうなKindle(の広告)を見ていて、こうしたデバイスの前にWebがあってよかったと思う。不毛なブラウザ戦争や、アクセシビリティ論争や、その他諸々のWeb業界の葛藤が、少なくとも間接的には織り込まれているような匂いがする。Kindleの開発には全く関与していないが、あの苦労が無駄ではなかったと思えてくる。

Webはこんな感じで、まだまだ様々なチャレンジの露払い的な立ち位置を求められるのだろうなぁと思っている。それだからこそ面白い。

露払い Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%89%95%E3%81%84

すべての企業がWebサイトを持っていないところから、全企業Web化の時代を経て、そして全企業Webサイト有りの状態から、そこからの突出を狙うWebサイトの時代へ。Webサイトへの取組みは、とどまってはいない。むしろ、セキュリティやライブラリの共有化など、より見えないところでの切磋琢磨が高レベル化している。そして、バネが弾力(?)を蓄積し切ったところではじけるように、また一段上のステージに昇って行くのだろう。その現場にいられることは光栄だ。

  • あぁ書いてて益々欲しくなった来た
  • それにしても、日本語が最初のバナーだけというのは余りに不親切ですよ、Amazonさん
  • 下宿時代に買った小さな本棚は、20数年を経て未だに我家にあり、息子の部屋で彼の玩具を飾っている。貧乏性が故に捨てられずに、引越しのたびに迷うけれど、手放さないでここまで来た。ともに過ごした時間を刻んだモノは他にもある。それに比べてWebサイトは儚い。あっという間に消えていく。どこまで遡れるか。Webが定着化するほどに重くのしかかる課題だ。

以上。/mitsui

[UI]AmazonグルグルUI

2010/01/02 9:53  

  • キャッチーではある
  • 全ページフッタに載せていたが、重いので個別ページに降格

[UI/news] RIA関連ニュース

2010/01/01 10:01  
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  • GoogleのニュースAPIを使ったもの
  • RIAがロシア系ニュース、Flexがエンターテインメント系ニュースを拾う傾向がある。文字列検索なので対処法無し。SymantecWebが望まれる例として(笑)
  • 全ページフッタに置いていたが、余りに重いので個別ページに移動。