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[153] 石橋を渡る、叩き壊してでも渡る

2010/05/27 14:00  

絶望的と揶揄される昨今、試練は幾つも転がっている。何かをしようとした途端に様々な壁に出くわす。対岸の見えない河に出会うこともある。そこで諦めるか、立ち上がるか。そこは、何かしらの価値が試される舞台であり、何かが終わり何かが始まる季節なのだろう。

壁を前にして、大河を前にして、様々な人がいる。目測もせずに飛び越そうと走り始める人、石橋を叩いて渡る人、丸太橋を叩かずに渡る人、石橋を叩いて壊して後続を阻止する人、丸太橋を架けて渡る人、石橋をいきなり創っちゃう人、文句ばかり言いつつ渡る人、文句ばかり言いつつ渡らない人、渡る人を遠目に批判ばかりする人、渡る勇気を誉める人。渡ることを無駄に論理立てて説明したがる人、渡らないリスクを語る人、それが如何に正しいかを力説する人。

最後通告的な壁の前では、個性とか癖とかいう前に、壁を越えて行くには必要な資質がある。先ず、壁を越えることが最優先としているかどうか、越えなければ何も始まらない、あるいは全てが終わってしまうというメンタリティが、その資質を強くする。

資質には、大きくはアクセル系とブレーキ系の二つがあるのだと思っている。物事に対峙したときに、どちらの視点で物事を見るか。アフリカの靴のセールスマンの話が分かりやすいかもしれない。裸足で走り回るアフリカの奥地を見て、ある靴のセールスマンは駄目だと諦め、別のセールスマンはチャンスと挑む。壁に当たったときに、尚アクセルを踏むか、ブレーキを踏むか。

常にアクセルな人といることが幸せではない、でも常にブレーキな人といるのもかなり苦痛だ。壁の見極めと共に、適切な資質の人を支えたい。時代は大きな壁に向かっている。そんな時代だからこそ、チャレンジに賭けたい。いつまでも縮こまっていても、嵐は去らない。立ち向かう人を応援し、共に歩み出す選択肢を採りたい。

大好きな映画に、ルパンの「カリオストロの城」がある。何度かこのコラムでは取り上げているけれど、再度書こう。一秒たりとて無駄にされていない演出の中でも、私の一番好きなシーンは、クラリスが閉じ込められた部屋の中で交わされた、ルパンとの会話。「信じてくれるなら、泥棒は空を飛ぶ事だって、湖の水を飲み干す事だってできる」。

▼mitmix@Amazon - カリオストロの城
http://astore.amazon.co.jp/milkage-22?_encoding=UTF8&node=46

信頼が増幅する力の連鎖を考えさせられる。誰と組むのか、そのコラボがどこまで大きくなるのか。小さなつぶやきが大きなうねりに広がることにもどこか似てる。アクセルを見たときに、ブレーキに気付いたときに、すぐさま反応できるように、アンテナも行動力も備える必要がありそうだ。

壁を越えていくのに、その先の道が示され、納得できないと進めないと思う層がいる。ゲーム世代なのだろうと言われている。ゲーム開発者の手のひらの上に乗っている安心感が良いのだろうか。旧世代の私には、さっぱり理解できない考え方。先が分からないから「壁」と思う。その崩し方、攻略法が分かっているなら、示せるなら「壁」とは呼ばない。

Jobsも言っている、進みながら道が分かる訳はない、道だと分かるのは振り返ったときだ、と。Stay Hungry. Stay Foolishy。

▼[iTunes] Steve Jobs' 2005 Commencement Address
http://bit.ly/96U0GD
▼Steve Jobs Stanford Commencement Speech with Subtitle
http://doubleko.blog18.fc2.com/blog-entry-3417.html

降りかかる何かに対して、何かしらの対応を続け、それが実となり、糧となり、自分を支えるものの一部となる。だから壁が一種の教育プロセスのようにも語られる。壁があるから成長する、壁を越えてきた経験こそが、未知の壁に遭遇したときにどうすべきかを教えてくれる教科書なのだろう。

ネット黎明期よりも大きなうねりが来ようとしている。クラウドという言葉と合わせて、パッケージからサービス化への波と呼んでもいいだろう。ユーザ志向が、「所有」から「利用」へと変わってきたことも一因だ。ますます企業戦略としてWebの使われ方が変わっていく。

あと10年もしたら、今のネットの使い方自体を思い出せないくらい進んでいるかもしれない。自動ドアは、当時は珍しかったろうが、今や当たり前になっている。逆に黒電話のように、それがなくなることなど想像すらできなかったものがあっという間に見なくなったものもある。

今やっていることの如何ほどが生き残るのだろう。今チャレンジしていることの如何ほどが当たり前になっていくのだろう。ブレーキとアクセル、どちらをどこで踏むのか、時代や壁の読み方次第だ。

以上。/mitsui

【日刊デジタルクリエイターズ】 [まぐまぐ!]

[152] 衝撃波(Shockwave)

2010/05/20 14:00  

星野之宣の作品に「超新星メギド」というのがある。超新星の爆発を発見した博士と地球との半生記だ。超新星の爆発は、光の第一波、X線などの目に見えぬ第二波、そして爆発の衝撃波とも言うべき第三波が地球を襲う。人類は、ただ座して死を待つのではなく、備え抗う道を選ぶ。そこに悲劇があり、友情があり、過酷な現実があり、未来がある。

▼星野之宣SF作品集成III STAR FIELD / 星野之宣:光文社コミック叢書 http://astore.amazon.co.jp/milkage-22/detail/4334901530 ▼大いなる回帰 / 星野 之宣:MF文庫 http://astore.amazon.co.jp/milkage-22/detail/4840112495

大きい画面で見たくて全体構成も大事という方は前者、とりあえず安くという方は後者、かな(あぁ早くデジタルで流通して欲しい...)。

最近はWebを想いつつ、この波状攻撃を思い出している。まばゆい光を感じた黎明期、今は余り語られなくなったけれどネット依存症などの暗部を多く語られた2000年前後、そして今。光も影もかすんでいない、厳然とここにある。そして、更なる波が見えている。

その波を衝撃波に関連つけるのは、「今」が決して平穏無事な状態じゃないからだ。光よりも闇よりも大きな衝撃がやって来ようとしているように感じている。ネットが当たり前になり、情報が流れて当たり前になりつつある今、何かが壊され、何かが再構築され始めている気がしてならない。

巨大なIT企業の社長が一般人とおしゃべりをして、その場で経営の方向性を決める。勿論常に諸々考えているからこそのアクションなのだろうけれど、数日後には進捗報告がなされ、新しい決まりや戦術が施行される。しかも、それが衆目の中で平然と行われる。躊躇することは悪なのだと言わんばかりだ。想っていることを全てさらけ出さなければ、このステージでは生き残れないのかと思わされる。アイデアと意見の通りのよさとともに、何か違和感を感じる。それは時代に乗り切れない者のヒガミなのかもしれないし、何かの警告かもしれない。いづれにしても今までとは全く違う道ができつつある。

そして、何より驚かされるのは、その息を呑むスピード。年単位の開発が、数ヶ月に縮まったのは序章にしかすぎなかったのか。Twitterでやりますと社長が言って1週間で新サイトが立ち上がり、巨大電光掲示板上で新しいコミュニケーションがスタートする。社内外の壁はない。やろうと思い立ったときに、傍にいたものがそれを建て上げる。綿密なIA(情報設計)と無縁とは言わないが、緻密さよりも優先される何かがある。スピード、ライブ感、そんな言葉が浮かんでくる。あるいは、何かを建て上げる意思や覚悟があると言った方が適切かもしれない。リクルート社が賃貸系のサイトをcgiも含めて数日で創り上げた逸話を越えるうねりを感じる。

意思決定者が猛進する以上、追従する者達も同じようなスピード感で進む。進まざるを得ない。その渦に巻き込まれるように、周囲の者達も同じ速度で回る。回らざるを得ない。パートナーとして選ばれた者たちには過酷な道が待っていることになる。でも、今までとは少し毛色の異なるデスマーチ。その進軍の後には、何かしらの歴史が残りそうな予感がある。

Webが「Webサイト」を意味するようになって久しい。でも、それが単なる部分しか示していないのは、学術的な部分でもよく言われていた。様々な技術が構成要素として存在し、「net」の厚みを織り成している。

でも、そんな次元でなく、Webは違う意味合いを強めている。今までとは全く異なるエンジンに変わろうとしているかのように見える。情報流通エンジンから、ビジネスエンジンへ。勿論、そんな傾向は前からあった。誰も慈善事業をしていた訳ではない。儲けがない畑に種を蒔く会社はない。でも発注する部署からして異なリ始めている。広報部でも情報システム部でもなくなっている。

ドラッカーは言っている、「イノベーションとは技術よりも経済に関わることである」。そう、技術的な革新に見えたものは、始まりにしか過ぎなかったのだろう。舞台は経済的効果の方向に変わりつつある。単サイトでの収益にこだわらず全体の効果を考えたり、通年での動向で判断がなされたり。短期決戦ではない「経営」という息遣いが、ネットに流れ込んできている。

既存メディアの衰退は明白だ。当事者達がどう強がっても、今のままでは、絶滅はないだろうが、衰退しかない。ROIの下がりようはここが一番なのだから。企業はメディア再興のために手を貸しはしない。利用と活用のみだ。自力再建しかない。そしてだからこそ、企業はWebに生き残りをかけた主戦場を求めざるを得ないのだ。既に実験は終わり、志ある企業は収穫の季節を迎えている。

さて、作り手にとって、この波はどうなのか。多分サイトを作ることがメインだった部分は、もっと部品的に考えられるんだろう。もっと大きな流れの中の一部。ネジ一本なのかもしれない。しかも、正しく作れてあたり前。正確に作れることに付加価値はない。間違ったらどやされるだけ。スピードも更なる改善が求められる。「無理ですよ」などという甘えは許されない。

見方によっては、ようやくプロフェッショナルという領域ができたとも言える。もはや誰も優しくしてはくれない。そして隙を見せたら、ここぞと根こそぎ奪われそうな戦場での日々に突入して行っている。

今が苦しいのは、リーマンショックが理由ではない。その辺りを境に、Webそのものの変化があらわになり、クライアント企業の姿勢が変わり始めたのだ。だから嵐が収まるまで身を隠していれば安全という訳ではない。心して豹変していかなければ、生き残れるはずがない場所で生きていかなければならなくなったのだ。

Web業界も土俵際に追い込まれている。これからも生き残れるのか、発言力を持って生き残れるのか、座して衰退を享受するのか、関わる全員が決断を迫られている。今までやってきたことを全て疑う時期とも言える。何を守って、何を捨てるのか、そういったレベルで生き残りを賭けるステージに突入した。

印刷業界に対して視点を変えればもっとやりようがあるよねと笑ってられたのはもう過去の話だ。いまや電子書籍を抱えた出版業界がWebに対して、もっと視点を変えれば良いのにねと囁いているようにも思う。

Web屋は、html生産工場ではない。コミュニケーションの道を整備してきた者だ。如何に企業とユーザを結びつけるか、それを如何なる技術で達成するか、未だ見ぬ次世代の交流の原型や種を生み出す仕事をしてきたつもりだ。そして勝機もここにある、今までになかったことに十数年前に誰よりも早く自発的に取り組んでここまで来たのが我々だ。もう一回やればいいのだ、同じことを。

黎明期がビッグバンに例えられたが、今度の波はあれよりでかい。遥かにでかい。なぜなら、影響を受ける層が厚いからだ。技術革新の波ではない、企業やビジネスを軸とした文化革新の波だからだ。

意味深にも、衝撃波を英語では「Shock wave」と書く。若い人にはピンとこないだろうけれど、FlashもかつてはShockwave(macromediaからadobeに引き継がれた技術の総称)の一部として語られた時代がある。そして今、そのFlashを巡って争いが起きている。長年の同胞だった、AppleとAdobeの亀裂。ユーザを置き去りにした不毛な痴話喧嘩にも見えるこの戦いも、ある意味、崩れ始めたものの一部なのだろう。

何かが壊れ始めている。その動きは、最初の光の波よりも、見えない闇の波よりも、深く広く何かを変えようとしている。衝撃波が通り過ぎた後には何が残るのだろう。お楽しみはこれから、だ。心して、生き残ろう。

以上。/mitsui

ps. 何の話か分からない方へ:SoftBank孫社長の話です。

【日刊デジタルクリエイターズ】 [まぐまぐ!]

[151] 電子書籍 第二幕

2010/05/13 14:00  

綺麗な足を組んだ女性が向かいの座席にいる。熱心に活字を追っている。こちらに向けた表紙から、それが「悩む力」だと分かる。真剣に読む眼差しが鋭い。本人には申し訳ないが、その多少の悩ましい姿とそのタイトルが笑いを誘う。

電車の中ではマンガも相変わらず多い。しかも、中高年が増えた気がする。大事にブックカバーをして大切に読んでいそうな方にもよく会う。先日は横山三国志と蒼天航路を読んでいる人に出会い、一人で感動していた。流行マンガだけではない、古典的なものも読まれている。小さな本の中に広がる世界に笑いながらウルウルしながら没頭している姿は、平和でいい。

最近電車の中で本を読んでいる人が心なし増えた気がする。出版業界の縮小が叫ばれる中、妙な気分だ。でも、BOOKOFF(ブックオフ)の混雑振りやレンタルコミックの拡大を考えると、出版業界は縮小しているようでも、活字(含マンガ)の流通量は実は増えているのではないかと思えてくる。しかも、真剣な眼差しは、さして昔と変わりなく。

逆に新聞を広げている人を見る機会が減った。更に5年前だと新聞を綺麗に折りたたんで邪魔にならないように読める人が多かったのに、それが激減した。無駄に広げて邪魔な御仁は、明らかに新聞で育っていない事を態度で語っている。生粋の新聞人はあんな読み方はしない。新聞を正しく読めることは、大人であることも意味し、邪魔な読み方は恥ずかしい行為と思われたはずだから。

自分の生活の中でも、新聞の位置付けは変わった。40年来慣れ親しんだA紙を捨てたのは、ほぼ1年前だ。ただ、理由は不要だからではなかった。くだらないコラムに対する編集方針に呆れ、抗議を形で表した。大人気ないことなのかも知れないが、明らかに間違ったものを売られることに、NOと言う事こそ必要だと思った。数週間は、新聞を広げている時間が恋しかった。実のところ、情報収集で困ったという感覚はほぼない。欲しい情報は、新聞に当てていた時間分で、ネットから充分過ぎるほど得られた。恋しかったのは、ファンの音も全くしない世界で、ただ大きな紙をめくる音とそれがすれる音のみという空間だった気がする。

この本と新聞の様子だけで未来を考えるのは余りに乱暴だけれど、情報の形や大きさが意味する事柄の大きさを感じている。新聞は、あの大きさ故に、今までは読み易かった。でも今は、読みにくい。ノスタルジーは感じるけれど、決して最適な姿勢で読める訳ではない。逆に本、特に文庫本やコミックサイズは、何とか持ち歩けるそこそこ適切なサイズなのだろう。だから捨てられない。勿論情報の種類も体裁も何かも違う。でも新聞がもし文庫本サイズで、俯瞰性を維持できたとしたら、今捨てる気にはなっていない気がする。コンテンツ自体に魅力がなくなった訳ではないのは、ケータイでニュースを読み漁るのがやめられないことからも分かる。

文字は本や紙面という「束縛」を離れたがっているように見える。文字にとって、紙面という物理制約は邪魔になりつつある。新聞が邪魔なように。ケータイの大きさもやや小さすぎる。ニュース提供者側が変に情報を間引くので充分な情報量に届かないケースも多い。それでも電車内読書家を見ても、文字情報へのニーズは決して小さくない。そして、その動きの裏には、文字情報(マンガでも良いのだが)が誘う世界の意味も関係しているように思っている。

文学少年とは程遠い少年期を過ごした私だが、本の世界に入り込める時間は大切な宝物だったのだと思う。日頃活字に飢えることはなかったけれど、たまにのめり込める作品に出会ったとき、まさに日が暮れるまで、部屋が暗くなるのを忘れて読み耽った。脳内に広がる霧のような情景、日頃はマンガばかり読んでいたので、その明確な視覚情報と対極にある微妙に儚い世界。でも、そのどちらもが記憶に刻み込まれ、そして非日常への入り口であり舞台だった。勉強が好きでもなかった私にとって、本の世界は唯一集中することができる場とも言える存在だったのかもしれない。

Webというかコンピュータの世界を仕事として失ったものは、こうした時間や空間だったのではないかと最近思い始めている。便利さを追い求めることを第一としてしまったが故に、何でもこのモニター越しに解決したくなる自分がいる。アプリケーションをいれ、プラグインを加え、様々な設定とショートカットを用いて、少ないクリックで様々な情報に辿り着ける状態。

おかげで、常に仕事に情報に追われる状態が出来上がる。ボーっとすることが罪でもあるかのようにその時間を排除して、「ボクに気付いて」と仕事自身に叫ばせて、処理していく。システマティックに組み上げた仕掛けに深夜も終電もなく、エンドレスな日常が展開される。

更に、そんな自分の環境を悪いと思えない自分がいる。情報を処理していくこと、適切に処理できること、見栄え良く処理していくこと、それ自体が目標でもあり、努力してそこを目指している。

でも、年齢のせいか最近は時々油切れになる自分に気付く。でも、仕事の達成感が自分への給油所でもある。Steve Jobsが言うように、生まれてからこのかた、人生の大部分を占めているは仕事であり、そこでの成功が一番の幸福感の素である。私はそうした生き方をしてきたし、多分これからもそうする。別に威張ることではなく、仕事と趣味とが不可分なだけである。趣味もネットに依存している部分が多いし、そこから仕事に展開できるアイデアももらう。それはきっとこの業界にいる多くの人たちとの共通点だとも思っている。だからネットジャンキーと自嘲気味に自己紹介するときも、どこか誇らしく思っているし、周りが同業者なら君もそうだよねと同調を求めている。

それでも実は油は切れる。息も切れる。どこかで何かを補充しなければ進めないことを自覚する瞬間がある。「補充」と位置づけてはいるけれど、ネットを漁って得られる情報量でまかなえるものではない。むしろ逆の何か。情報流入がない状態が欲しい。だから意図的にネットを遮断したりする。敢えてパソコンを開けない。ケータイでネットに近づかない。それが、あの頃の読書の時間だった気がしている。ネットから離れて、Twitterからの誘いを断って、何者からも邪魔されない、干渉されない世界で、何かに没頭できる時間を作る。何か1つのことに数時間集中できた満足感は、便利さに囲まれて様々な事柄を処理できる喜びとは別の次元で嬉しい。

今、iPadのおかげで、電子書籍の第二幕が開こうとしている。第三と呼ぶべきかもしれない。何度ものチャレンジがあり、死屍累々たる様々なデバイスの山が残っている。でも今度は本当の幕が上がるのかもしれないと期待している。

幾つかの電子書籍端末を眺めながら、どう使うかを考える。何でもできる状態を目指そうと、やはり脳内で誰かが囁く。でも同時に、いやいや単機能に絞ろうよと声がする。PCモニターはずっと仕事の友だった。そこでくつろげる様には、私はできてはいない。そして今私に足りないのは、ネット作業から離れて、何かに集中できる環境なのではないだろうか。ブラウザでの読書は、やはり何か違うのだ。

単純にPDFやtext形式の「書籍」が読めることに期待したい。そこそこのレスポンスでページがめくれ、何十冊もの本棚を500g程度(可能なら300台)に凝縮できて、目が疲れなくて、PCの横に置けて。ネットは巨大本棚への道としては活用する。仕事の切れ目にさっと持ち上げ、本の世界に没入できる環境。逃げ込む先として、物語や魅力的な理論の世界はうってつけだ。

デジタルという、様々な形式に変換でき、再利用が可能で、重さという束縛からの解放をもたらし、そこそこの満員電車の中でも読めて、ページの折り曲がり曲線に合わせて、顔を左右運動させなくてもよい状況。そう、デジタルとは、対アナログという意味から、状況や環境を意味し始めている気さえする。

「書を捨て野にいでよ」から「PCを置き書に浸れ」というべきか。書に記された価値への再帰を最新技術が誘っている。だからこそ敢えて単機能という方向性もありなのだろう。ネットは書籍を図書館から開放した、電子書籍デバイスは、活字を書籍から開放する。デジタルの意味が「流通」から、「再現」を超えて更に別物になってきた気がする。今度の幕は楽しみだ。

参考:mitmix: [備忘録] 電子書籍系
当然、Android系に大期待です、当面白黒で充分だし。

以上。/mitsui

[備忘録] 電子書籍系

2010/05/05 19:17  
ちょとメモ(これ、随時書き足し/修正します)。
  • kindle DX
  • 価格:$489→$379(2010/7/7)
  • 画面:9.7 in Eink(1200x824:16階調)
  • ストレージ:4GB
  • 重さ:540g、厚さ:9.7mm、電池:1週間
  • OS:-
  • 特記:text読上機能
  • iPad
  • 価格:$499~629
  • 画面:9.7 in LCD(1024x768)
  • ストレージ:16GB
  • 重さ:680~730g、厚さ:13.4mm、電池:10時間
  • OS:iPhoneOS
  • 特記:諸々
  • alex ereader
  • 価格:$399
  • 画面:6"Eink(800x600)+3.5"LCD(320x480)
  • ストレージ:4GB
  • 重さ:310g、サイズ:8.9"x4.7"x0.4"、電池:7500pages/6h online
  • OS:Android
  • 特記:
kobo eReader
  • インターパーク(+LG電子) BISCUIT(ビスケット)
  • 価格:39万8千ウォン(4万円弱)
  • 画面:6"Eink(800x600)
  • ストレージ:4GB
  • 重さ:300g、厚さ:10mm、電池:7000p
  • OS:○○
  • 特記:3Gネットワーク
  • NextPapyrus PAGEone
  • 価格:20万ウォン(2万円弱)
  • 画面:6"Eink(800x600)
  • ストレージ:2GB+SD
  • 重さ:200g、大きさ:125×157×84mm、電池:○○ p
  • OS:○○
  • 特記:無線がない!
▼参考: