Webデザインの打合せをする。一通りの話を済ませた後、それぞれがしばし考え込んだ。依頼したデザイナは、視線を資料からそらすことなく、胸元を探り煙草を出す。そのまま火をつけ、煙の流れる方向も考えずに吐き出した。今ままで飲んでいた缶コーヒーをそのまま灰皿にして。
その時、私は三つのことを考え始める。1)このデザイナにどうしても頼みたい理由は何だっけ。2)他の候補者の当てはあるか。3)今からデザイナを変更することは現実的に可能だろうか。
私が目の前で煙草を吸われるのを嫌う理由は幾つかある。A)私は気管支が弱い。B)間接喫煙が他者の健康を害することは今や殆ど常識である。C)煙草は個人の嗜好という問題ではなく中毒症として捉えるべきである。D)配慮しないデザイナとは組みたくない。AからCはとりあえず置いておいて、Dだけ書こう。
Webデザイナ(含ディレクター、プロデューサ)の技量を考えてみて、何が根源的条件だろうか。グラフィック、即ち絵描きの能力か。HTMLコーディングの能力か。Webシステムに対する知識か。つきつめて考えて行くと、それらはWebデザイナ固有の技能ではない。絵描きの能力はアーティストにより多く要求されるかもしれない。HTMLはコーダーの領域だ。システム知識はエンジニアか。それぞれ本職とする者たちがいる。どの技能もWebデザイナに必要だが、何か1つと言われたなら?
「ネット上の未だ見ぬ者へ配慮する能力」、それが一番必要だと私は思っている。それが根っ子にあって、エンドユーザを迷わせないサイトがデザイン(設計)できると信じている。未だ見ぬ者を迷わせたくないから、迷わないサイトを作るよう努力できるのだ。「迷わせたくない」、それは「配慮」からにじみ出るものだと思う。迷っている者を見ると手を貸さずにはおられない。迷い易いサイトを見ると気持ち悪くてムズムズする。頼まれもしないのに、場が与えられれば、あれこれと手を尽くす。能力や技量というより性質(たち)と呼んだ方が良いかもしれない。
サイト訪問者を特定することはシステム的に準備していないとできないことだ。だからログという記憶を辿るとき、その訪問者の姿は想像するしかない。何を良しとし、何を嫌うか。その人物像とサイトの戦略的方向性を考えて、次に打つ手を考える。相手を想像する、それは大きな力だ。最近はサイト設計の初期に、訪問者の代表的プロフィールを詳細に決めろという指針もある。年齢、性別、職業、趣味、家庭環境、...。その自分で作り上げた架空の人物がそのサイトを訪れたとき何を感じるのかを、また想像する。そしてそれがマッチしているかを検証するのだ。
未だ見ぬ者への配慮と、目の前にいる者への配慮とは、全く異次元のモノかもしれない。が、2つは何かしら関係があり、互いに他方を予測する情報にはなり得ると思っている。この仮説を強引に広げれば、目の前の人間の健康に配慮しない者が、未だ見ぬ者へ気を配ることは稀だと言える。
配慮する心がない者と組む仕事は辛い。サイト開発は、どんな理論的な言葉を並べても開発者のパッションのようなものに引っ張られているのが現実だと思う。そのサイトを想う気持ち。それが根底だ。しかし、その方向性は各人で微妙に異なる。でもそのサイトを良くしたいと言う部分は共通だ。そこに配慮の力が必要になる。妥協でもおもねるのでもない。互いに配慮するのだ。
たとえば、ショッキングピンクをトップページの背景に持ってこれるのは、極めて特殊な場合だけだろう。業態か戦略か、よほどの事がない限り、銀行系等の硬い業種に提案はしない。それは、ショッキングピンクに対する一般的な反応を知っているから、提案候補から外れるのだ。嫌われるなら提案しない。無難な路線を狙うのではない、わざわざ非本質的な部分で衝突をすることはない。常識的配慮である。
喫煙者は、その煙に対する評判を知っているはずである。知っていなかったら、余程の不勉強だ。なのに吸う。人前で吸う。相手がどう思っているかを確認もしないで吸う。それができるということは、こちらが難色を示した案も強引に押してくる危険性があると判断する。性急な判断かもしれない。でも配慮に関しては、気がつく人はとことん気がつくが、無頓着な人は全く無頓着になりがちだ。で、チーム内に無頓着が居ては困る。ただでもリスキーな開発に更に身内に爆弾を抱えて突進していく気にはならない。
「どこでも喫煙者」を嫌う理由はもう一つ。基本的に喫煙は制限される方向にある。吸う人の自由ではなく、間接喫煙をさせられる人の自由を尊重する方向に世界中が動いている。吸って良い場所は減る方向にしかない。しかし、吸うのである。最近はさすがに減ったが、海外出張へ行くと、禁煙マークの真下でタムロシて煙を量産している日本人が多々見られた。それは、ルールを無視しても良いという素地を持っているという現われだ。英語が分からないとか言い訳を重ねてその場を逃れられるという目算が見える。そして「俺だから許してよ」みたいな甘えも感じる。一緒に修羅場をくぐっている最中にそんな甘えは聞きたくない。皆でサイトを作っているときに、本番用画像はここに置くと決めたとき、俺だけは面倒だから許してよと言われては困る。
そして、そのルール破りの姿の与える影響である。私は日本の若者の精神的混迷を生んでいるのは鉄道会社が一因だと思っている。毎朝若者は本来禁煙であるはずのホームで、ルールを守らない者と、本気でそれを禁じようとしない建前活動を目にする。世の中にはそうやって本音と建前で生きいて行けるんだと、子供たちは直感的に納得している。守るべきを守らないのは「恥」であるという日本精神論は毎朝崩されている、ボロボロに。その象徴が「どこでも喫煙者」だ。
今朝もオフィスまでの公園を歩き煙草の御仁が多々居た。CMは見ているのか、携帯灰皿はお持ちのようだ。しかし、幼稚園児が遊ぶ公園を煙を吐き出しながら突き進んで行ける。不思議だ。
吐き出す煙に咳き込みながら、作り手の理屈だけで作られたサイトを想う。最低限のユーザビリティとかのガイドラインには沿っているようだ。ほら携帯灰皿は持っているよ、といった言葉が聞こえる。作った側から見れば情報は見やすく並んでいるようだ。しかし、訪問者にとっては、情報検索の思考を妨げるように余計なページが事あるごとに現れる。後ろで咳き込んでいる原因が自分にあることを疑いもしない「どこでも喫煙者」のように、何故ここから情報を取れないんだと胸を張っている。
Ridual のサイトを立ち上げて、こんな偉そうなことは本当なら書けない。ログを見る限り多くの方が迷っている。分かり難いサイトなんだろう。昔は気がつくことを負荷(損)に思ってきたが、最近は気がつけることを喜んでいる。気がつかないで傍若無人でいるよりは、気がついて苦労してでも修正したい。これでも日々対応策を考えています。言うは易し、行なうは難し。
以上。/mitsui
ps.Ridualチームに喫煙者は居ます、彼は吸いたくなると細心の配慮を尽くします。その配慮に感謝も尊敬も。