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[127]寛容は敵か

スーパーに入ろうとする。目の前にティッシュを持った男女が取り囲むように近づいていてくる。表情はにこやかなのに、受け取らねば通さないぞ、という意気込みを感じる。一歩引いてティッシュは受け取るけれど、その裏の宣伝には目もやらない。ただ、ポケットにティッシュをねじ込んで、可能な限り早く、その不愉快な体験を忘れるための脳内スイッチを入れる。

脳内記憶を消去しながら、スポンサーは何にお金を払っているのだろうと考える。行く道を邪魔されるような体験をさせられたり、路上でケータイでおしゃべりしながらついでの様にティッシュを渡されたり(これは減っててゃいるが絶滅はしていない)。そうした行為の後に、その会社の名が知らされる。全く逆の効果のためにお金を払っているのではあるまいか。

同じことが、Webでも展開されている。ニュースサイトに、ニュースを見に行く。ふざけたバナーが、数秒後に拡大し、ノートPC画面の1/3を埋める。読んでいる記事を見えなくしておいて、企業名がデカデカと視界に広がる。犯人は俺だと叫んでいるように映る。遠視気味な目をこするようにして、「close(閉じる)」ボタンを探す。読み始めた記事への好奇心が薄れていくのが分かる。「閉じる」ボタンをクリックした頃には、当初の好奇心より怒りの方が勝っている。

この体験を通じて私が得たことは、「ここ数年の間、この企業の製品を購入選択肢に入れることは絶対にない」という決断だけだ。別にこうした「邪魔バナー」はこれに限ったものではない。ふざけたキャラクターが画面中を闊歩するものにも最近よく会う。どうしてこんな安易で嫌われるモノがはびこるのか。

殆ど強制終了させられた好奇心を返せ、という怒りとともに、どういう会議を経たら、こうしたものが正式採用されるのかに悩む。いや、それ以前に、こうした反社会的アイデアを、提案する人の脳構造を疑う。何を「効果」として考えているのだろうか。窮すれば濫す、そもそもアイデアが枯渇した上での発想なのか。「迷惑」に関するセンサーが欠如しているのか。

画面をジャックするという類のものは、確かに1度流行っている。どのサイトに行っても、最初に数秒間忌まわしき「オープニングムービー」が始まった時代。ポータル系だけでなく、企業サイトはその少し前から流行っていた。自己満足子育てビデオ並みの品質で、自社自慢を延々と垂れ流す。そうした逆効果イを、作り手(クライアント+Web屋)自身が諸々手痛いものも含めて体験した上で、「そーいうのは駄目だよね」という暗黙知が広がった。と、思っていた。

裏には、Flashへの攻撃口実の問題もあったようにも思う。いまだに、サイト構築プロセスを理解していないメディア記者は、トップページにFlashを配置したサイトが重すぎると、さもありなんとFlashをその理由に挙げる。EC系も、情報ポータル系も、レスポンスの悪さの問題があれば、あたかもFlashを選んだからだと言わんばかりの見出しが付く。でもね、それが間違いであることは開発者なら誰でも知っているんだよ。Flash(技術)が悪いんじゃない、使い方、その決めた人や決め方が悪いんです、圧倒的に。単純に設計がオバカだから、オバカな重さになるんです。

オープニングムービーが流行った頃、ユーザビリティの大家の放った一言「Flashは99%有害だ」、それがどれだけ技術と開発者の修練の場を奪って行ったか。冷静に考えて、世界中のデザイナがFlashに熱狂しているさなか、1:99の割合で有害なサイトしか見ていなかったとしたら、それはサンプリングの問題だ。しかし逆風に負けずに挑んだ心ある開発者は、つけ入る隙のないモノを構築していった。「エモーショナル」という言葉が、定着して行ったのもその頃だった。未だ、アプリケーションにエモーショナルさ(エモさ)なんて不要だと大見得切って叫ばれた時代だった。

参考)Alertbox: Flash: 99%有害(2000年10月29日)
http://www.usability.gr.jp/alertbox/20001029.html

いまや、均一化されたアプリケーションをどう差別化するかを教えてくれとシステム屋がデザイン屋の戸を叩いている。解を求める視線の先に、華美な厚化粧デザインはない。もっと本質的なモノを探っている。だとしたら、利用者の心の何かに「刺さる」、あるいは「響く」何かに焦点が向かうのは自然だろう。それらは、「エモさ」や「おもてなし」と表現される領域だと、私は信じている。

流行廃(はやりすた)れの激流の中、技術をどの様に使うべきかという「常識」が徐々に培われていったように見えた。JIS X 8341-3(WebコンテンツJIS)も、大きな足枷に見えつつ、遵守しているサイトは、していないサイトに比べて明確に使いやすい。障害者向けと言う色彩は抜け切れていないけれど、アクセスしやすく作る方法は、広まっていったかのように見えた。そう数年前までは。

参考)情報アクセシビリティ ウェブコンテンツ 公開レビュー
http://www.jsa.or.jp/stdz/instac/commitee-acc/WG2/review2009/ITBF_Web_review.html
注)2009年に改訂される予定です。

規律があっても罰則のない世界は長続きしない。JISで定められた最低限のルールですら、価格競争の中で意識もされないように徐々に先祖返りが始まっている。アンケート中のラジオボタンやチェックボックスが先ずは目に付くようになってくる。文言部分をクリックしても反応することを「是」とされているのだが、反応しないものがここ2年でめっきり増えた。アンケートに答えながらムッとする回数が増えている。

コンペ(入札)で低価格落札する人たちは、そういう部分を切り捨てているのだろう。そして、クライアントもその切り落としの意味を分かっていないし、もしかしたら、そうしたUI機能が削除されたことすら気付いていないのかもしれない。3Kとも7Kとも言われるWeb業界の中で、生き残っていくためには、大切なものでさえ削ぎ落として行くしかないのかと哀しくなる。Web屋としての根幹部分が、切り捨てられているように見える。

そして画面ジャックである。今まで培ってきたものを全て崩してしまうほどの大事件だと思う。Webは情報に辿り着きやすいがために、ここまで短期間で成長してきたモノである。その生命線に対するテロ行為だと思う。

しかも、Flashを使ったから使い辛いサイトが出来上がったとののしるニュースサイトが、そんなものを採用している。恥も外聞もない。身も蓋もない(表現が露骨過ぎて、情緒も含蓄もない)。広告枠が売れさえすれば良いのか。本当にそれで良いのか。1/3を埋める情けないビジュアルに問いかける、「お前は、こんなのに使われて嬉しいの?」。

こうした退化現象に対して、何ができるのだろう。こうしたものでさえ寛容に見てみぬふりをすべきなのだろうか。もちろん不買運動をするのは行き過ぎに感じる。Webらしいストッパーが欲しい。

と、ある賞を思い出す。「ゴールデン・ラズベリー賞:The Golden Raspberry (RAZZIE) Award」。アカデミー賞の反対バージョンの不名誉賞。授賞式に、受賞者が行かないことでも有名である。そんなのを「ほぼ公的」に作ればいいのかもしれない。「2009年度のユーザの情報取得を最も邪魔したのは、○○株式会社提供、△△会社制作のこのバナーです。そして、これらを掲載したメディアは□□です」。何だか色々な意味で響きそうだ。

名づけて「Web邪魔バナー・ラズベリー賞」。もちろん、そこに選ばれた企業のWeb担当者は、授与式には参加しないでしょうね。こうした「べからず」集を記録に残し報道することが、ユーザビリティを高める最短距離なのかもしれない。少し情けない気もするけれど。

広告全部を否定している訳ではない。むしろ良いCMは探してでも見たい。ユーザがどんな文脈(コンテキスト)で情報を見ていて、その傍らにある広告の姿。主客転倒の起こらない関係性。もっともっと、さりげなく、寄り添うような「形」があるのだと信じたい。

以上。/mitsui

この広告を、今幾つか探してみたら、ものの見事になくなっている。さすがにヒンシュクだったのだろう。念のために書いておくと、かの大家の言っていること全てに反対している訳ではありません。実は某紙で彼の翻訳もやったことがあります。極めて正論が多いですし、多くのことを学ばせて頂いてます。