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[128] 贈る心、来訪者への想い

大学を出て最初に入った会社が外資系だったことを理由に、お中元もお歳暮も実感なく生きてきた。一年の特定の時期に、それなりの量の何かを送るという経験から逃げてきた。それでも、誰かに何かを贈るということから完全に離れて生きていける訳ではない。

お世話になったとき、心配だったとき、何かを一緒に祝福したいとき、様々な場面で、いそいそとデパ地下に向かう。慣れていない分だけ、場違いな雰囲気を漂わせているのを自分で感じ取る。そんな多少の冷たい視線の雑踏の中、想いを届けたい人が一番喜んでもらえるようにと、探し回る(ECサイトを使うのは、贈るものが分かっている時や、ワインなど種類が多い中から安く選びたい時)。

和菓子がいいか、洋菓子がいいか、それとも花か。定番がいいか、少し奇をてらったものがいいか。宅急便を受け取ったときから、包装紙を解き、箱を開けるまで。過剰包装を嫌がるかどうかも考える。ニヤッとして欲しいのか、微笑んで欲しいのか、おどろいて欲しいのか。様々な妄想を抱えたまま探し続ける。

同じ妄想を膨らまして、Webサイトを考える。クライアントの考える「ユーザ像」をベースに、その人達がどう感じるのかを考える。喜んで欲しいのか、納得して欲しいのか、驚いて欲しいのか、安心して欲しいのか。一人で見るのか、家族で見るのか、子供と見るのか、恋人と見るのか。検索から辿り着くのか、クチコミから辿り着くのか、広告から辿り着くのか。

クライアントから与えられたユーザ象を疑うことも多い。いや、こういう傾向の人たちの方に、刺さるのではないか、響くのではないか。自分たちの肌感を論理武装するために、調査結果を探すことも多くなった。そういったデータをクライアントに求めることも強まった。相手を知ることが、最適な贈り物をする最短距離だから。

相手の姿を定めたなら、最適な表現を探る。「残念な感じ」「意味が分からん」「まだ遠いなぁ」「お、だいぶ近づいてきた」「これなら刺さりそうだ」「これは響く」。伝わるかどうかを、そんな言葉を使いながら、確認するかのように研ぎ澄ましていく。

伝えたいことを、伝わる形にする。適切な構成と的確な表現とが融け合わさったとき、鳥肌が立つような「デザイン」が目の前に広がる。世界で、未だクライアントも見ていないものを、Web屋のチームだけが独り占めする瞬間。一つのコミュニケーションを形にする作業の重さと面白さを実感する場面。醍醐味といっても良い。ただし、毎回とは言えないところが辛いところだ。それは何かが欠けている時なのだろう。

上質なコミュニケーションを探る作業を重ねる毎日の傍らに、最近異物が混入してきている。リアル生活での、普段の接客のレベルでの品質劣化を感じることだ。外食のシーンが多い。定食モノを頼んだら、まるで散らかしたようにご飯がよそわれて出される。ご飯を盛って、最後にペタペタと形を整えるのは小学校のときに学んだことだった。それがない。久々に立ち食い蕎麦屋で鰻丼を頼んだときは、たった一切れの鰻がひっくり返って出されてきて、唖然とした。

出せばいいでしょう、食えればいいじゃん、と言わんばかりのサービス。サーブ(仕える)とはお世辞にもいえない対応。気持ちよく食べてもらう、そんな当たり前の気持ちが伴なっていない。客の気持ちをつかむことなく、料金だけを奪おうとしている。それでいながら、諸々の競争に勝とうとしている。「ナメラレテイル」、そんな言葉が浮かんでくる。商売自体をナメていると言った方が良いのかもしれない。

そんな対応に出くわす頻度が増えていく中、自分たちの足場を思い起こす。今や、Webサイトは誰にでも作れるものになってしまった。HTMLは当初の簡便さだけが学ばれて、いまだにIEでないと見れないサイトが根絶しない。Blogなどのテンプレート型のページが増えたので、酷いのに出会う頻度は減ったけれど、それでも眉をしかめるサイトは未だある。コンテンツではなく、人に見てもらうという体裁として眉をひそめる。問題は小規模サイトだけではない、大企業でも酷いものは少なくはない。これ、お客様に見て頂こうとしているんだよね、と画面に思わず問いかける。

加えて、素人が数ヶ月でプロのWebデザイナになれると豪語するマルチメディアスクールもまだある。そんな訳がある筈がない。Webはそんな表層技術だけでできている時代をとうに過ぎている。数ヶ月間で、ユーザビリティに加えセキュリティから更新運用体制までもを考慮して、クライアントとユーザの双方にサーブする能力を身に着けることは事実上不可能だろう。特定のブラウザだけで見える技術を磨き、ちょっとしたグラフィックデザインで工夫する、これだけで情報提供側としての責任を果たしていると思うことは、徐々に許されない領域へと入っている。それは、鰻をひっくり返して客に出すサービスに似ている。ただ皿を出せばいいだけ、ただ情報を並べればいいだけ。

それでも、ネットの中の鉄則は崩れない。目立たないものは消え去り忘れ去られる。ユーザはあくまで浮気っぽく、愛着を勝ち得るのは至難の業だ。今日のマイユーザは、明日のライバル支持者、支援者だ。でも、「目立つ」意味は微妙に変化している。数年間メジャーリニューアルをしていないにもかかわらず、古さを感じさせないサイトがある。醸し出す雰囲気がその企業のブランドと見事に融合している場合に多い。派手に着飾れば良い訳ではない、お金をかければ良い訳ではない。会社や製品をお客様に伝える「本気さ」が問われているのだと思う。本気さは「味わい」に変わり、来訪者の記憶に染み込んでいる。遠目に建物を見て社名が浮かぶかのように、Webサイトを見て社名が浮かぶ企業が増えている。ゆっくりかもしれないが、確実に。

限られた予算の中で、ありもので済ますモノ、作りこんで丁寧に包装して贈るモノ、その采配自体が企業戦略の現われだ。そのブランドのファンになってしまえば、力のかけどころを見るのも面白くなる。今度はそっちに力点を置くのかと、マニアックな応援もする。そんなコミュニケーションというか、関係性もWebを土台にしたものなのだと思う。

逆に言うと、そうした関係性が構築できないWebサイトは、本来の機能を充分には果たしていないとも言えるのだろう。リアルな掲示板(立て看板)と変わらない。看板に愛着を持ってくれる人は稀だろう。しかも、Webは無形のデジタル情報の塊だ。さわれない分、更に愛着が持ちにくい。でも、日々多くの、非常に多くの人の目に留まる。いわば、一等地に置かれている。

Webが機能を提供していることを考えると、立て看板というよりも自動販売機に近いかもしれない。視覚的に情報提供しているだけでなく、何かしらの商品提供もしている自動販売機。当たり前のように、街のいたるところに鎮座して、全く同じサービスを繰り返している。単体としての個性はなく、効率だけを重んじる。けれど、同じだからこその安心感を提供している。そして、最低限のマナーは守っている。失礼な商品の渡し方だと感じることは余りない。期待していないだけかもしれないけれど、操作方法に戸惑うことはままあっても、さして腹は立たない。

そう考えると、Webサイトの敵は自動販売機なのだ。精神的な意味での敵。自動販売機でできることしか実現できていないとしたら、そのサイトのサービスはかなり低い。技術的にもWeb屋の登場場面は少なく、CMS系パーッケージでことが済む。ユーザビリティ向上に精を出している自動販売機設計者には申し訳ないが、Webサイトがそれに負けてはいけない。断じて。そうやって競うところに、誇りが生まれる。

喜んで食事をしてもらおうという気持ちを忘れた飲食店の店員は、もはや敵ではない。「おもてなし」を論じるレベルでさえない。自動販売機に負けている店員さんはもう目じゃない。Webサイトはユーザのもっと遥か近くに行ける。自動販売機に負けてはいけない。作りこんでいるこの情報を贈られる人の気持ちを考え続けたなら先に進める。精進あるのみ。

以上。/mitsui