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呼吸停止

「それ」は、翌22日00:15PMにやって来た。午前中、少し元気がないか なと思いつつも、私は子供の異常に気付かなかった。昼食が私達の部屋に 運ばれ、交代で食べようと言う事になった。単に一緒に居たかっただけで ある。先ず、妻が食べ、私が息子を見守る。そろそろ、胎内に居た頃の血 液が壊され、外界用の血液に変わるので、黄疸が出るかもしれないことを 注意されていた。その事が頭にあったせいか、眠る我が子を、心無しか色 が違うなと気付いた。しかし、黄色と言うには青黒く感じる。一瞬、陰に いるのかなとも思った。自分の手を当てて色を確認する。尋常には思えな かった。すぐに妻を呼び、助産婦を呼んだ。手を長めの服から取り出して 背筋がゾッとなった。青黒い色から殆ど紫に近い。助産婦は、呼吸が止ま っているという。しかし、揺すると呼吸を弱々しくも始める。心拍数, 熱..と助産婦はてきぱきとデータを集めている。私達は、擦って呼吸が止 まらないようにするので精一杯だ。その内、2人とも我が子に話しかけて いた、呼吸を止めないように励ましていたのだと思う。何を口にしたかは 覚えていない。私は5年前の母の臨終を頭に浮かべ、妻は看護婦として立 ち会った妊婦の死を思い出していた。未だこの世に出て一言も喋りもせず に、去っていこうとする事への怒りも浮かんだ。30分後、再び無呼吸に 陥る。しかし、擦る事で再び息を吹き返す。助産婦は酸素ボンベを運び込 み、湯タンポで体を暖め、幾つかの病院に電話[2]をした。3つの病院に かけ、3回ずつはタライ回しにされているのが壁越しに聞こえてくる。同 じ症状の説明を何度もさせられて助産婦も苛立っているのが判る。救急病 院と謳っていながら、適切な救急看護体制を取れぬ病院への怒りが込み上 げてくる。3つ目の病院で、ようやく許可が出た。急いで車を用意して乗 り込んだ。酸素マスクを軽く当て、湯タンポで暖められながら、息子は気 持ち良さそうに眠っている。胸の辺りが微かに上下するのが救いであっ た。外は台風の影響を少し残しつつ活気に満ちていた。すれちがう人達の 健康ささえ恨めしく思えた。

[1]通常は、緊急用に特定の病院が確保されている。 この日はたまたまそこが休診日であり、
息子は出産時に問題がなかったので、緊急用の手配をしていなかった。

渋滞もあって30分後に、県立厚木病院に到着した。生後2日の赤ん坊の カルテを作るために2枚の書類に名前と住所などを書かされた。もう1枚 書かされていたなら、受付の爺さんに怒鳴り付けていたかもしれない。電 話での許可とは裏腹に連絡ミスがあったらしい。看護婦は私達に平謝り で、焦る医者との間に挾まれて可哀想であった。冷静に見れたのは、息子 の呼吸が安定している様に見えたからだ。レントゲンやら幾つかの検査を 経て、異常は見つからないが、念のため新生児用のICU(集中治療室)に 入院する事になった。何度か幾人からの説明を受ける間に、2人きりにな る時間があった。張り詰めて、てきぱきと症状を説明してきた妻の緊張が 切れた。脆く触れれば崩れ落ちそうな妻が泣いていた。

現状で心配な点は出ていない事、24時間体制で呼吸と心拍をチェックす る事、万が一呼吸が停止しても機械で酸素を送り込み続ける事を聞き、私 達は助産院に戻った。許可を取り、もう一晩妻と共にいる事にした。助産 院を選んだ結果がこれかどうかは判らない。大きな病院で新生児室に並べ られていたなら、気付かずに死んでしまっていたかもしれない。とにか く、異常に気付かせてくれた事と適切な処置が取れた事に心から感謝し た。

その晩は、よく泣いた。昨夜居た小さな者が居なくなって、こんなにも淋 しいものかと思った。人間のできる限りの治療は施せる場所に置けた。あ とは委ねるしか無い。2人とも頭では理解していた。しかし、哀しみは止 められない。この引き離されたことで、妻は一気に「母親」になった。も はや、女房の顔をしてくれない。

万一のために連絡しておいた親や友人からの心配する電話が入り、妻の実 家から両親が駆け付けてくれた。また、早急に名前を決める必要がでてき て、その後の妻の退院までは慌ただしく過ぎてしまった。泣き過ぎてお岩 さんの様に目を腫らした妻も元気になってきた。幾人かからは、初めから 大病院で産めば良かったのだと怒られもした。しかし、その時2人にでき たのは待つ事と健康に育つ事を祈るしかなかった。どの選択が良かったの かは、誰にも判らない。怒っている者も、それは重々知っているのだろ う、怒るほどに心配してくれている事に感謝したい。