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24時間Illustrator「愛(Ai)はクリエイティブを救う」

[011] デザイナとエンジニア

2001年8月、シアトルで行われた「Web Design World 2001」に、幸運にも参加できた。デザイン系のセッションの中に、余りにも異質なセッションが混じっていた。「XML's Successes and Failures(XMLの成功と失敗)」、講演者はXMLの生みの親の一人、Tim Bray氏。

エンジニアのカンファレンスで、色彩等のデザインの根本のセッションを持ったり、情報デザインに関するそれなりの識者を呼んで学ぼうとするものを、私は今まで知らない(私が知らないだけという可能性は高いが)。しかしデザイナの貪欲な知識欲はこんなセッションを実現させた。ここで話されたのはXMLの基礎ではない、XMLを産み育てた人間が、何を成功と思い、何を失敗と思っているかという個人的な想いが話されたのだ。XMLについては書籍が既に多く出版されていた。それを皆で学ぶのでは足りない。最高峰を呼んで、その触覚に触れようとする狡猾さが感じられた。学ぶという意思も。

考えると、マルチメディアスクールなるモノが世に出た当時から、デザイナの貪欲さはそうだった。1996年辺りで既に、PhotoshopやMacintoshを学ぶというレベルですら、その先に目指していたものはシリコングラフィックス社(現SGI)のワークステーションだったりした。Macintoshの操作法を覚えながら、UNIXも学ぶ。無謀とも思えることを、多くの者が当り前のように挑んで行った。

その多くの無謀なる開拓者から、Javaスクリプト描き(書き?)やCGIエンジニアも生まれてきた。Flash等の分野では、もはやエンジニアとデザイナの区別は無いのかもしれない。そんな呼称に拘っているのは、今のポジションから追い落とされそうな旧世代だけなのかもしれないとすら思ってしまう。

エンジニアも勿論負けてはいない。様々なプログラミング言語や開発環境や概念が生まれ発展している。けれど、と思ってしまう。COBOLエンジニアがJavaエンジニアになるのは確かに非常な努力が必要だ。しかし、Photoshop使いがCGIエンジニアになるのと比べたらどうだろう。絵を主にしてきた者が、コードや文字主体の世界に移っていく力は如何ほどだろう。

このカンファレンスにエンジニアの立場から参加した友人がいた。幾つかの比較的エンジニア寄りのセッションに参加した彼は言った、「デザイナって、当り前のことを、当り前にやるってのを学びに来るんだ」。情報デザインから各論まで、順序だてて進めていくことの重要性とともにワークフローにも焦点が向けられたカンファレンスだったので、余計にそう思えたのであろう。しかし、聞いた途端にふきだしてしまった。エンジニアが「当り前のことを当り前にできない」という点をどれほど問題にしてきて、どれだけの労力をその是正に向けて進んでいるのか、知らない訳ではあるまい。彼のデザイナを見下した言い方にカチンと来たのも事実だが、「エンジニアもじゃないか」と即座に答えてしまった。

世に書籍は多々あれど、デザイナ向けの情報整理学の本と、エンジニア向けの情報整理学の本とどれ位の比率で存在するのだろうか。絵筆の持ち方は、プログラムコードの書法にあたるかもしれない。イメージの全体像から仔細に向かう捉え方は、プログラムのモジュール分け概念にあたるかもしれない。そんなモノまで含めたらどうなるのだろう。エンジニアは、綺麗なコードで正しく動くという、「当り前のこと」を達成するために、間違いなく膨大な知識とエネルギーを費やしている。

私は、最初の職種がエンジニアなので、デザイナがエンジニアを卑下してもムッと来てしまうのだが、正直言ってそういう場面は少ない。デザイナからは、エンジニアが分からず屋であることへの不満であることの方が多い。でもそれはデザイナ間でも起こる事だ。エンジニアがデザイナを悪く言うとき、どこか、見下すようなニュアンスを含む。「おまえ達には分からない深遠な事柄があるのだよ、黙って絵を仕上げなさい」。

エンジニアは機能を動かすことに熱中している。インターフェースは単なるその機能への入り口と考えている。エンジニアは基本的には複数人で動くのでスケジュールの共有感覚が強い。先を見越して動かなければならない。稼働日まで、或いはその後のメンテナンスについての思慮が頭の中に溢れている。では、デザイナどうか。デザイナは稼働日以降のことを見つめているのだ。その機能がどう使われるのか。

エンジニアとデザイナの話をする時に、私は1つのボタンの絵を使う。ボタンは、押されてから起動する「動き」がある。しかし、その「動き」は、押されなければ動けない。エンジニアはその動きを設計し、デザイナは押される行為を設計する。二人が補完し合って、そこにそのボタンがあることの存在意義が生まれる。そうした両面が必要とされる業務は多いだろうが、特にWebはこれらを短期間に仕上げる必要がある。だからこそ強力な補完関係が必要な分野なのだ。

羨ましいような関係を築いている組織がある。職種はもはや単なる初対面の人の先入観を利用するためだけにある。デザイナと思って話してくれた方が分かりやすいか、エンジニアと思ってくれた方が楽か。やることに差は無い。動けばいい、美しければ良いなんて思っている人は、そこには誰もいない。機能は使われてこそ。使われるようにデザインすべきもの。皆がそんな風に考えながら進む。そこで働く人達だけでなく、そこの「作品」のエンドユーザの幸せをも羨ましく思う。

そんな風に考えたら、コトは職種の問題ではなく、未熟か成熟かの問題なのかもしれない。自分達の仕事の範囲を、時間的に、業務的にどこまで見越して考えているのか。そうした考慮の上でどこまで人材を有効活用しているのか。

優れたエンジニアは、自分が考え得るモノよりも「もっと良い方法」がある可能性を信じている。だから聞く。どんな意見だって聞く、ただし短時間で。その上で吟味する。優れたデザイナはあらゆる可能性を想定する。その選択肢を拡大方向に維持するために、常にアンテナを可能な限り広げる。恐らく、超一流のところでは、デザイナもエンジニアも変わりがないのだろう。

時々、サイト開発はバレエのようなモノかと思うことがある。イメージしているのは、映画「愛と哀しみのボレロ」のラストシーンのようなバレエ。超一流の踊り手が自分の最高のパフォーマンスを演じつつ、全体としての調和がある。観客席の正面から見ても横から見ても共通の流れが見える。しかし、個性が埋没しているわけでもなく、個々のダンサーの表情も光ってる。隣の人間の動きに注文をつける余力など誰にも無い。ただただ全力を尽くすだけ。

エンジニアとデザイナが、こんなコラボレーションが出来たなら。互いをリスペクトできる様に全力を出せたなら。必要以上の壁を作らずに競え合えたなら。

既に、双方から混血もニュータイプ(新世代)も生まれている。異質なものの集合体の方が、純血の集合体よりも強いことは様々に証明されている。開発者にとっては、Webはそんな実験場なのかもしれない。

以上。/mitsui

ref)
・Web Design World :
ThunderLizardが主催するカンファレンス。2002/11/18-21にBostonでも。
http://www.webdesignworld.com/