AD | all

[012] 会議

はるか昔、神からの使命を受けて、誰とも相談せずに世界最大のプロジェクトに挑んだ男がいた。巨大な箱舟を丘に建造し、世界中の動物達を載せ、豪雨を乗り越えた。「ノアの箱舟」のノア。

そのノアについて、クリスチャン雑誌「clay(クレイ)」にこんな文書が載っていた、「ノアが箱舟建設委員会を設けていたら、きっと箱舟は完成しなかったろう」。

Web開発関係者で、これを読んでふき出す人は多いと思う。現場に近いほど共感できる感覚かもしれない。サイト開発には多くの、とても多くの会議が必要とされる。そして、その議場で、時間が非常に有意義に進むと感じる現場担当者は少ないと思うのは、私の思い込みだろうか。議論をすればするだけ選択肢は生まれる。どれにするかが問題ではなく、どれかに決めること自体が問題とされる場であることも多い。しかし、民主的にとかコンセンサス等の言葉によって、決断がズルズルと延ばされる。

御厨さと美氏の作品の中でこんな台詞がある、「君が合議的な場を作って物事を進めたがる理由を言ってやろうか? 実戦経験の無さから自分の指揮能力に自信を欠いているからだ(ルサルカは還らない/Vol.2)」。即断できない同僚(形式上は上司)に対する台詞だったが、無意味な会議にイライラしていた私には、「そういうことだったのか」と眼から鱗のショックだった。それ以来、やたらと会議の場を作りたがる者に、怒りではなく、可哀想にと思うようになれた。

いつまでも交差点に立ち止まり迷っている訳にはいかない。どこかで決断が必要だ。そしてそうした決断は、経験が必要だ。Webはそうした練習にもってこいだと思える。そもそもWebは作って「お終い」ということはまずあり得ない。常に作り続けなければならないモノだろう。だから一度や二度の失敗は合って良いのだと思う。サイト管理者自身も育たなくてはいけないのだから。

自分の目で確かめた訳ではないが、amazon.com はある時期ユーザによって見える(見せる)サイトを変えていたそうだ。どういったデザインが良いのかを実地検証していた。最終的には(エンド)ユーザに聞けという鉄則を実際に行った訳だ。会社規模と知名度を考えると、そのフットワークの軽さに拍手を送りたくなる。先日の9.11に喪に服した yahoo.com サイト等にもサイト運営者自身の意思と開発とが直結しているのが見えて、感動的だった。こんなことができるのは、セミナー等机上の知識からではない。自ら決断して、自ら確認する、そういった指揮能力の向上と共に培われた感覚なのだと思う。

別に海外だけが優れていたわけではない。例えば、リクルート。3日間徹夜で3~4人で作られたサイトの話。しかも静的サイトではない住宅情報の検索サイト(1997年頃)。アイデアを出してその場で試作、その場で試して試行錯誤して、完成させる。デザイン感覚からスクリプト、動作保証検証のセンスまで一流の者が集まる必要があるが、それが実現されていた。そのスキルにも驚くが、そうした権限を与えてしまう組織にも息を呑む。「任せた」の一言なのか。これで燃えなきゃ嘘だろう。セミナーで講演したその開発者の眼は、当時誰よりも輝いているように見えた。羨ましかった。

誰にでも実現できるものとそうでないものがある。上述のような環境は与えられ様がなかった。だから自分達だけでできることを探した。会議はできるだけ短くする。ガンクビ揃えて決めるべき事項か考えて各人が動く。疑問が湧けば、その時に責任者を掴まえて解決する。基本的に「却下」と「了解」の即断即決で対応する。そして、昨日の結論と矛盾しても謝れる間柄も作る。信頼する。信頼される。不必要なドキュメントは作らせない。必要かどうかは、まず処理できるかで判断する。一週間後の会議までにその担当者が読んで処理することが現実的なのかどうか。積読されて、会議の場で数秒で斜め読みされるのが分かっていたら省く。熱意で説得可能だと思えたら先行して作って、自分達の意志高揚も図る。

もちろん会議自体が敵なのではない。そこに潜む何かが敵なのだと思う。それは、時に責任回避を目的とし、時に何人を率いているかという自己満足を目的にしたりする。サイト開発のリーダは、その進捗を妨げるモノを可能な限り排除すべきだ。リーダになる人は、そういった仕組みを見つめ直し、自分も含めて開発活性化を阻むモノが何かを見極めねばならない。

世界を救う使命がノアだけに降ったように、担当するサイトを「救う」使命は大きな人数には示されないように思う。聖書はあっさりと書いてあるが、苦しいこともあった筈だ。だが、少数精鋭で短期間。ノアは大洪水の後に「約束の虹」を見る。Webサイト開発のヒントがここにもある気がする。

以上。/mitsui

ref: