InfoGraphics | comics | 電網悠語(DENMO-YUGO) | Webデザイン エンジニアリング(WDE) | ミルクエイジ | Faith | RIA関連ニュース | 電子書籍系備忘録

index of this page

[131] 変化に対応する、変化を防ぐ、変化を作るサービス

2009/09/24 14:00  

Webサイト構築プロジェクトは、良い悪いの判断を別にして、当初からから揺れるものである。行き先が変わったり、同乗者が変わったり、車掌が変わったりする場合もある。行き先を失うことすら稀ではない。生まれて10年強のメディアである。しかも、日夜それを支える技術が進んでいく。担当者も担当部署も、ある程度の試行錯誤は致し方ない。

それらに応じて、車を変え、人を変え、様々な臨機応変体制は、多かれ少なかれ要求される。それがWeb屋の幅であり、スキルや発想力とは別の「力」として期待される部分なのだろうと、最近よく思わされる。

どうあるべきか論も大切だが、そうなってしまった時にお手上げでは専門職としては淋しい。諭したり、文句を言ったりする前に、対策を講じることも大切だ。燃え盛る火事を前に、説教されても、聞かされる方は不愉快極まりないだろう。火を見れば、どうしたら火がつかないかは置いておいて、バケツリレーの列に参加してくれる方が頼もしい。

でも、同時に、分かっているのなら先に言ってくれよ、というのも本音だろう。目前に大きな穴があるのなら、危険だよと言ってくれればいいのに。でもそのあたりの言い方には工夫が要る。実際普通のプロジェクトでは、ある程度のアラートは初期の頃からあがっている。構想を練る段階ですら、危険シグナルを、開発者は感じ取る。そして、それとなく、伝えている場合が多いように思う。伝えているつもりが、伝わっていないのには、何かしら壁があるということだろう。言い方であったり、遠慮であったり、上下関係であったり、技術や論理以外の部分での壁なのかなと思う。

複数の会社が一緒に仕事をするのだから、それなりの壁は生まれる。全くなしにやらせてもらうという選択肢はない。そうした壁を考えながら進んでいかざるを得ない。それが仕事だ。短期間で形にするということを考えると、もはやWeb屋はコードやイメージを売っているのではない。コミュニケーションの仕方や、ものごとの進め方を売っていると言っていいだろう。

だから、コミュニケーション・スキルが問われる。様々なシグナルを感知し、それを言葉にし、形にし、確認する。技術的な何か(例えばHTMLの文法)を学んでから、このレベルを求められるようになるまで、そうそう時間的猶予はない。人と接することが苦手ですと言ってられる期間は短い。かと言って、技術情報の入手をサボる訳にはいかない、そこが根幹であることには違いがない。蓄積すべきスキルは増えるばかりで、楽になったためしはない。でも多分、それはどの業界でも同じなのだろう。

自分が何かしらのシグナルを発し始めると、他人のシグナルにも敏感になる。順序として他人のに気付く方から入る人もいるかもしれない。プロジェクトに関わる全ての人が何らかの信号を常に出していることに気が付くと、打ち合わせの場の重みがぐっと増す。

大手システムインテグレータ(SIer)の方を交えて話す場合で可笑しいのは、肩書きの大きな正社員が進めている話の横で、そのSIerが雇っている外注さんがしかめっ面で唸る場面だ。「いや、そりゃ無茶でしょう」と顔が言っている。でも、言葉にはしない。言えない関係、言ってはいけない上下関係が存在する。なので、そこを汲み取ってあげる。技術的詳細の部分の意見を求めると、空洞化の進んでいるSIerでは正社員は話さない、いや話せない。なので、その外注さんが語る場を持つ。困難な部分を聞き出せれば、対策を練れるし、ボツ案に追い込むことだってできる。

そうした小さなシグナルのキャッチボールが何度かできると、何かしらの信頼関係が得られる。別に相手は、SIerの外注さんだけではない、担当部署の現場の方だってそうだし、ヴィジョンに溢れる発案者だって、そう。「こういうことが言いたいのかな」と思うことを引き出して、料理ができるようにまな板の上に置く。引き出すべきシグナルやアイデアをそこに置き、残すものは残し、広げるべきは広げ、潰すべきは潰す。

「べき」の論拠は、基本的には時間的な制約が多い。いまそんな話をしていると、このスケジュールでは間に合いませんよ、が基本。時間は、雇われの身としては拘束期間だけれど、クライアントにとってはビジネスチャンス。そのバランスを考えながら、互いのビジネスの調和を図る。

ボランティアではないので、投入すべき期間やリソースが増えれば、それだけ請求する。請求できる関係を築く。そこの信頼関係がないと、一緒に先には進みにくい。「技術」という言葉を隠れ蓑(みの)にして、延々となぁなぁ依存関係を強める人たちは中々絶滅しないけれど、そんな関係は互いを駄目なものにしやすい。良いものを創り上げるというヴィジョンすら、ビジネスという基本ルールの上で成立させないと、後で道に迷うことになりかねない。

この15年ほどのインターネットの拡大深化の歴史は、実は格差の広がりでもある。皆が一緒に最前線にいる訳ではない。ネット・リテラシのトップとボトムの差は広がるばかりで、担当者の意識もそれに然りだ。社外やユーザとのコミュニケーションの必要性すら感じていない企業も未だ未だ多い。広報担当者の中にも、エンドユーザとの対話など夢にも考えたことがない方もいる。阿吽の呼吸で良かれにはかってくれという方もいる。でも、時代はより多くの情報を求めているし、低迷する景気も、新しいビジネスチャンスを求める方向に圧力をかけている。闇雲に突き進むことだけが善ではないけれど、立ち止まっている方の分はかなり悪くなっている。どちらに覚悟がいるかと問われると、立ち止まるほうじゃないだろうか。

そんな中で、Web屋は、徐々にサービス提供者になっていると思っている。特定のエンドユーザと話をしたくなったクライアントが、戸を叩く店。あるコミュニケーションを築きたいという想いを具現化する。コミュニケーションは、基本的に一言発して終わりではないので、ある程度の期間継続する。時間という幅がない限り、成立しない。なので、サービスも一定期間必要になる。

ネットも量販店もこれほど増えたのに、街の電気屋さんは絶滅しない。それは、サポートというサービス形態へのニーズがあるためだろう。様々な言葉の翻訳から、絡まった配線の整理や、新商品の紹介から旧製品の廃棄処分まで。

こうした言葉を並べてみても、Web屋が担う作業が浮かんでくる。何かと何かをつなぐ仕事。そのためには、変化に対応する力も、変化を抑える力も、変化を進める力も求められている。

それがなくなった時が、引退というか、邪魔者になる瞬間なのだろう。プロジェクトにとって、クライアントにとって、大きく構えれば国にとって。自分がそこに加わっているが故に、何かポジティブな隠し味でも加えられなければ、自分自身も味気ない。

[130] 二つのパートナーシップ:管理型と協走型

2009/09/17 14:00  

コンペに呼ばれた場合、結果がどうであれ、その審査については細かく訊かせて頂く。様々な審査情報提供は、コンペのお誘いをしてきた側としての説明責任だと思っている。評価の仕方、どこがどのようにマッチし、どこがミスマッチだったのか。担当者には、最高の説明プレゼンを期待する。作り手が全力で提案をするのだから、それは最低限の礼儀だろう。コンペに参加する側にとって、失注した場合の報酬はそれしかない。

その時に交わされる言葉は、実は後々の関係に大きく響いてくる。勝敗にかかわらず大きな教訓となる。最近勝ち取った案件で一番嬉しかったのは、「一の情報を出したときに、平均値として七から八の応答を期待できると感じたので」。提案に持っていった「案」だけに反応してもらえただけではない、今後長い道のりを歩んでいく際の「期待値」や「潜在能力」を評価して頂けた、と素直に嬉しかった。

これから一緒に歩んでいきましょう、よろしくお願いします。そのように脳内翻訳機が働く。テーブルに並べられた少ない情報からも、高品質なコミュニケーションを構築しようとする意思と、恐らくはそれができるだろうスキルの見極め。更に情報が増えたなら、より高品質なものが出来上がるだろうという期待。いちいち細かな指図をしなくても、自律的に物事を進めていけて、それでいてクライアントの想いからそれていない。一緒にクライアントのビジネスを創って行けるパートナー。つまらない仕事を外出しするのではない、外部ブレインを設ける感覚に近い。

戦略的クライアントは、そうした機能を期待している。未だ未だWebサイトを単なる「HTMLの塊」的に考えている方々も多いけれど、言われたとおりの作品を綺麗に作り上げるスキルに興味を失っているお客さんも増えてきた。ありきたりのサイトを作りたいのなら、徹底的に値段を叩ける環境でもある。オーダーメイドを狙うのであれば、クライアントが自分達にない発想を期待するのも道理である。

そんな風に考えると、サイトの創り方には、大きく分けて二つのタイプがある。指示をしてその通りに作って行くタイプ。ともにアイデアのキャッチボールをしながら、よりよいものを創り上げようとするタイプ。前者を「管理型」、後者を「協走型」と、私は心の中で呼んでいる。

どちらが幸せなプロジェクト、という話ではない。管理型にも、クライアントの担当者自体の発想と知識が大きい場合から、かなり勘違いの積み重ねをしている残念な状態のものまで、様々だ。前者は明確なディレクターが存在するようなもので、低スキルのWeb屋であっても良い結果が残せる場合もあるだろう。逆に後者の場合は、振り回される分だけ、どんなにスキルがあっても、いやかえってスキルがある方がプロジェクトチームとして破綻を起こしやすいとも言える。

協走型も、方向性がぶれない走り方もあれば、あっちに行ったりこっちに行ったりで行き先が定まらない場合もある。アイデアが四散するとかなり「狂走」に近くなる。けれど、こちらのタイプでは、基本的にアイデアが膨らんだら、その実現のために予算を新たに獲得してくる必要性が出る場合も多い。互いが共鳴しあって、更に上を目指す場合だ。発想力と予算獲得能力とのせめぎ合い。互いの専門分野での競い合い。

えてして、歴史と記憶に名を残すプロジェクトは、こうしたせめぎ合いをしているものが多いように感じる。裏話をあとで聞くと信じられない状況がそこにある。もしかしたら、全て想定内の平坦なプロジェクトなどないという偏見の目で見ているからかもしれないが、作り手内で何かしらの建設的緊張感があった方が、できあがりは良い傾向にあるように見える。

作り手が搾り出したアイデアに、クライアントが恐縮してしまう場合がある。それをここに使うのはもったいない、と言ってくれる。逆に、クライアントのガッツに、作り手が襟を正す場合もある。お互いが、もう一歩先を見据えて、踏み込みあっていったから創り得る「場」が存在する。単なる雇用関係を超えて、「戦友」という言葉が似合う場。

そういえば、Webプロジェクトでは、平時の友という感覚からは遠い。そういった平安のうちに始まり終わるプロジェクトを余り知らない。常に背伸びし、常に欲張って、自分の首を絞めるかのような歩みをしている。自分のスキルの限界なのかもしれない。もっとスーパーマンなら、余裕の笑みを浮かべて進めるのかなとも思う。そして、そうなろうともがいている。常にブラウザで情報収集しているのは、そんな焦りの現われでもある。

そうしたもがきの中で生まれてくるWebサイト。きっとそれが人を魅了するのだと思う。老舗のお店に行って、まるで落ち度のない接客を受けたとする。でも、その笑顔の額に汗が光るのを垣間見たとき、この「たたずまい」の裏に脈々と流れている努力を知る。同時に、あぁこの超人も単なるスーパーマンではなくて、努力するスーパーマンなんだとほっとする。嬉しくなる。そしてその店のファンになる。気落ちしたとき、挫折したとき、そんな時に、何故だかその笑顔を思い出す。その汗を思い出す。そして頑張ろうと思い返す。

ITという言葉の前に、情緒的なものは無力のように語られることは多い。でも、実は人々の心に伝播して行っているモノは、技術ではないように思う。情報でもないと思う。それを伝えている人たちの影、人の姿としては見えないけれど、存在感というか雰囲気というか、そのようなもの。サイトを訪れる人たちには、それを感じ取るセンサーがあると疑わない。だからこそ頑張れる。

今や自分の会社のサイトを持っていないところはないだろう。誰もが持っている。そして、それは無料GIFパーツを組合せば、信じられない値段で構成できる。作成する側としては、ファーストフードのバイトよりも単価は安い。法的最低賃金の意味からもかなり酷い状況もない訳ではない。発注者側にとっては良い環境なのかもしれない。

でも、世間が見忘れていることがある。今ほど、小さな会社ですら見られている時代はないという事実だ。10年前、自分の会社の「会社情報」を求める人がどれほどいたろうか。道順を探すためだけでも、人々はサイトに行き、「ついでに」様々な情報を見て、瞬時に何らかの判断をして、そこを去っている。

その重なりを、まだ分かっていない人がいる。時にそれは、莫大な予算をかけたTVコマーシャルよりも深く人々の心に残りうる。そのあたりが、Web屋の腕の見せ所であり、コミュニケーションの面白みでもある。

自社ビルを持ち、それなりに趣向を凝らして玄関を作るように、サイトは深化していく。社員以外で、玄関を通過する人数と、自社サイトを通過する人数とでは、今でさえ差がついているだろう。経営という側面から見て、それが何を意味しているのか、自分がITに疎いからと言って放置して良い問題なのか、様々な手を打つ余地として、深く広く問題として横たわる。そこにどんな解を求めるのかで、お客様への想いが透けて見える時代が来る。

それは私企業だけではない。官公庁サイトは、更に強い関心をもって見守られている。今回の選挙でも、政治というお上の領域にあったものが、更に少し近くに寄ってきた。長い目で見ると、自分の年齢にも関係するのだろうけれど、随分と考えている時間が増えている。それは関連語を検索をしている時間となっても現れている。

が、真摯に語りかけているようには思えないサイトが多すぎる。PDFを置けばいいと思っているサイトが多すぎる。マージンもパッディングもないレイアウトにテキストだけが流し込まれているサイトが多すぎる。それで主権者である国民に見せるのかと呆れる。私が検索したくなる問題なのだから、他にも多くの目にそのページはさらされてる。にもかかわらず、酷い。情報提供側の神経を疑うレベルなのも多い。

「情報発信」。Web以前は、一般の人にとって手も届きにくい彼方にあった。それが、今や自宅で無線LANで5万円PCでアグラをかきながら見て回れる。ケータイで満員電車の中からでも見れる。すごい時代になったと思う。でも、もっとすごい時代が来るんだろうと期待しつつ、それを確信している。そんな中で、支持され、生き残るのは、やはり真剣な人の営みだと信じたい。

もがきながら、一手先に居たいと思う心。その積み重ねが、そうした協走に値するパートナーと認められる唯一の道だろう。Webに接し始めたときの感動と興奮、それは頑張ればすごいことになるという漠然とした希望を含んでいた。経済的にダウンしている現状とはいえ、その部分はなんら変わっていないことを思い出す。そう、クライアントの言葉で。

「信じてくれるなら、泥棒は空を飛ぶ事だって、湖の水を飲み干す事だってできる」、名画「カリオストロの城」でのルパンの言葉だ。信頼を得て、全力以上の力を出せる自分達を想像する。そこから見える景色はひときわ美しいに違いない。

[129] プロジェクトの生まれるところ:提案@コンペ

2009/09/10 14:00  

コンペティション(コンペ)への参加の声がかかる。基本的にはそれがプロジェクトの始まり。正式には、予算化されていないが、メンバーが招集され、提案を作りこんでいく。召集は、RFP(Request For Proposal/提案依頼書)の傾向から、個々のスキル適性を考えてチーム編成候補案とし、あとは自己推薦型で調整する。やる気に燃え手を挙げた者が、舵を取る。それがクリエイティブの源泉なのだろう。

RFPを読み解き、状況分析と何がWebでできるのか、何があるべき姿かを考え、議論する。自分たちの経験も活かされる。これで本当に買う気になるか、これで理解できるのか。自分たちを様々な状況に当てはめてみて考える。妻ならば、子ならば、父ならば。身近な仮想ユーザも総動員で出演していただく。メンバー間での議論も熱い。職位とか殆ど関係ない。それはないだろう、と誰でも言える。そして言えなければならない。ユーザの目の前で説得力がなくては手遅れだ。

コンセプトを詰めて、デザインを進める。選考ポイントによって、焦点の当て方は異なるけれど、どの要素にもどの表現にも基本的には理由が必要だ。ただなんとなくという理由で、何かを「そこ」に配置することはない。先ず、デザイナが質問してくる、「これ何?」。通常開発プロジェクトを抱えながら、提案プロジェクトは進むので、根源的質問はかなり「ウザイ」。でもそれが説明できない自分はかなり「ユルイ」。反省を重ねつつ、精度を上げていく。そうした格闘の結果が、一つの提案にまとめられる。だから重みがある。

コンペに提出する提案書類の品質は、手前味噌かもしれないが、かなり高い。パワーポイントは、どの参考書よりも、濃密な作り込みと言っていいだろう。下手な参考書を読むよりも、これを解析するか、テンプレートとして使った方が、確実に刺さるプレゼンになる。デザイン案も、手抜きなし。情報設計部分は、提案までが1~2週間程度なのでズレはありうるが、そのまま使っても遜色はない。見せかけ効果は殆ど付けていない。生身で語りかけるのが王道だ。だから実際のプレゼンは、デジタル資料以上のインパクトが付け加わる。真剣に語りかけることが最善の策。だからプレゼンの後は精も根も尽き果てる。クタクタ。

私自身は、そこそこの人数の前でお話しさせて頂くことが増えている状況にある。でもコンペは、せいぜい10名前後。そのうち半分は自陣メンバー。互いのため息まで聞き取れる距離。その小さな空間でのパフォーマンス。専門領域の説明は任せるにしても、自分がプロジェクトリーダーのときは、全般的に話せるように準備する。でも独演会にならぬよう、メンバー同士の言葉が相乗効果を生むようにする。そしてそれを可能にするのは、その場の阿吽の技でしかない。互いに信頼できるからこその技。クライアントがWeb用語に精通しているとは限らないので、通じていないと感じたら、即座に誰かが補足・補完する。

メンバー間で競っている感もある。提案メンバー内の役割は固定ではない。刺さるプレゼンは、メンバー内で自律的に増幅され再利用される。皆がいい意味で盗んでやる気満々だ。ファイルというデジタルデータ(社内では共有サーバ内に完全共有)だけではない、言い方や資料の見せ方から惹きつけ方、プレゼン手法そのものが資産化されていく瞬間。客先でプレゼンを重ねる度に、自分たちが強くなっていく。

「ファシリテーター(促進者)」という言葉がある。司会者的な位置付けにありながら、参加者の心の動きや状況を見て議論を深め、全体の流れをスムーズに調整しつつ合意形成に向けていく役。促しや、確認、介入を積極的にしつつ、お節介さを感じさせないことが望まれる。提案プレゼンは、基本的にはそれに似ている。絶対的な自信の下に提案をしている訳だから、そこが落としどころ(ゴール)である。クライアントの不安を察知し、それを引き出し、答えを示す。たとえ用意していない問題であろうと、目配せで答えられるメンバーを探し、答えてもらう。ゴールに徐々に徐々に追い込んでいく作業。

無論、この文字通りに常にことが運ぶわけではない。でも、場数が効いている。社内の活発な議論と、大手系コンペへの参加は、他では得がたい莫大な財産である。まさに毎回のように鍛えられる。失敗すれば落ち込むし、よりよい手をウジウジと何週間も脳内反復する。うまくいけば、刺さったならば、帰りの電車でニヤニヤしている危険人物ともなる。スリルと達成感。背中合わせの真剣勝負の訓練の必要性が身にしみて分かってくる。

メインで話す人には、チーム内からの重圧もかかる。今説明しているのは、目の前か会社で待機している仲間が(ほぼ)寝ないで作ったモノである。その重みを感じる。これで勝ち取るんだと意気込みもする。以前プレゼン中に、「...と私は考えました」と言ってしまってから訂正した。「...と"私達"は考えました」。それは、やはり様々なデータの作者の顔が瞬時に浮かんだからだ。

つくづく、Webが個人技から離れてきたと実感する。一人の考えやアイデアが、超人的な場合もあるけれど、信頼できるチームで、未だ見ぬ世界を提案できて、それを構築していける世界の割合は明らかに広がった。大企業レベルでの情報発信+情報収集システムは、そうしたチームで生み出されるべきなのだろう。そして、このワクワク感がたまらない。

整然とした情報構造と、思いっきりエモーショナルな情報発信。そんな水と油も共存できる。整然側から得た信頼がエモ系に発展し、その逆もある。業種も職種も飛び越えて、短期間に様々な重い責任ある仕事が任される。しかも、その多くは、非常に多くに人の目に触れ評価され、馴染んでいく。Web屋であることの最大の醍醐味。

そんな未曾有の作業が、実はコンペへの誘いと提案までの数週間に、少なくとも原型が凝縮されてある。コンセプト、予算、チーム編成、技術、スケジュール、全ての原型がここにある。ここがプロジェクトの生まれるところ。

[128] 贈る心、来訪者への想い

2009/09/03 14:00  

大学を出て最初に入った会社が外資系だったことを理由に、お中元もお歳暮も実感なく生きてきた。一年の特定の時期に、それなりの量の何かを送るという経験から逃げてきた。それでも、誰かに何かを贈るということから完全に離れて生きていける訳ではない。

お世話になったとき、心配だったとき、何かを一緒に祝福したいとき、様々な場面で、いそいそとデパ地下に向かう。慣れていない分だけ、場違いな雰囲気を漂わせているのを自分で感じ取る。そんな多少の冷たい視線の雑踏の中、想いを届けたい人が一番喜んでもらえるようにと、探し回る(ECサイトを使うのは、贈るものが分かっている時や、ワインなど種類が多い中から安く選びたい時)。

和菓子がいいか、洋菓子がいいか、それとも花か。定番がいいか、少し奇をてらったものがいいか。宅急便を受け取ったときから、包装紙を解き、箱を開けるまで。過剰包装を嫌がるかどうかも考える。ニヤッとして欲しいのか、微笑んで欲しいのか、おどろいて欲しいのか。様々な妄想を抱えたまま探し続ける。

同じ妄想を膨らまして、Webサイトを考える。クライアントの考える「ユーザ像」をベースに、その人達がどう感じるのかを考える。喜んで欲しいのか、納得して欲しいのか、驚いて欲しいのか、安心して欲しいのか。一人で見るのか、家族で見るのか、子供と見るのか、恋人と見るのか。検索から辿り着くのか、クチコミから辿り着くのか、広告から辿り着くのか。

クライアントから与えられたユーザ象を疑うことも多い。いや、こういう傾向の人たちの方に、刺さるのではないか、響くのではないか。自分たちの肌感を論理武装するために、調査結果を探すことも多くなった。そういったデータをクライアントに求めることも強まった。相手を知ることが、最適な贈り物をする最短距離だから。

相手の姿を定めたなら、最適な表現を探る。「残念な感じ」「意味が分からん」「まだ遠いなぁ」「お、だいぶ近づいてきた」「これなら刺さりそうだ」「これは響く」。伝わるかどうかを、そんな言葉を使いながら、確認するかのように研ぎ澄ましていく。

伝えたいことを、伝わる形にする。適切な構成と的確な表現とが融け合わさったとき、鳥肌が立つような「デザイン」が目の前に広がる。世界で、未だクライアントも見ていないものを、Web屋のチームだけが独り占めする瞬間。一つのコミュニケーションを形にする作業の重さと面白さを実感する場面。醍醐味といっても良い。ただし、毎回とは言えないところが辛いところだ。それは何かが欠けている時なのだろう。

上質なコミュニケーションを探る作業を重ねる毎日の傍らに、最近異物が混入してきている。リアル生活での、普段の接客のレベルでの品質劣化を感じることだ。外食のシーンが多い。定食モノを頼んだら、まるで散らかしたようにご飯がよそわれて出される。ご飯を盛って、最後にペタペタと形を整えるのは小学校のときに学んだことだった。それがない。久々に立ち食い蕎麦屋で鰻丼を頼んだときは、たった一切れの鰻がひっくり返って出されてきて、唖然とした。

出せばいいでしょう、食えればいいじゃん、と言わんばかりのサービス。サーブ(仕える)とはお世辞にもいえない対応。気持ちよく食べてもらう、そんな当たり前の気持ちが伴なっていない。客の気持ちをつかむことなく、料金だけを奪おうとしている。それでいながら、諸々の競争に勝とうとしている。「ナメラレテイル」、そんな言葉が浮かんでくる。商売自体をナメていると言った方が良いのかもしれない。

そんな対応に出くわす頻度が増えていく中、自分たちの足場を思い起こす。今や、Webサイトは誰にでも作れるものになってしまった。HTMLは当初の簡便さだけが学ばれて、いまだにIEでないと見れないサイトが根絶しない。Blogなどのテンプレート型のページが増えたので、酷いのに出会う頻度は減ったけれど、それでも眉をしかめるサイトは未だある。コンテンツではなく、人に見てもらうという体裁として眉をひそめる。問題は小規模サイトだけではない、大企業でも酷いものは少なくはない。これ、お客様に見て頂こうとしているんだよね、と画面に思わず問いかける。

加えて、素人が数ヶ月でプロのWebデザイナになれると豪語するマルチメディアスクールもまだある。そんな訳がある筈がない。Webはそんな表層技術だけでできている時代をとうに過ぎている。数ヶ月間で、ユーザビリティに加えセキュリティから更新運用体制までもを考慮して、クライアントとユーザの双方にサーブする能力を身に着けることは事実上不可能だろう。特定のブラウザだけで見える技術を磨き、ちょっとしたグラフィックデザインで工夫する、これだけで情報提供側としての責任を果たしていると思うことは、徐々に許されない領域へと入っている。それは、鰻をひっくり返して客に出すサービスに似ている。ただ皿を出せばいいだけ、ただ情報を並べればいいだけ。

それでも、ネットの中の鉄則は崩れない。目立たないものは消え去り忘れ去られる。ユーザはあくまで浮気っぽく、愛着を勝ち得るのは至難の業だ。今日のマイユーザは、明日のライバル支持者、支援者だ。でも、「目立つ」意味は微妙に変化している。数年間メジャーリニューアルをしていないにもかかわらず、古さを感じさせないサイトがある。醸し出す雰囲気がその企業のブランドと見事に融合している場合に多い。派手に着飾れば良い訳ではない、お金をかければ良い訳ではない。会社や製品をお客様に伝える「本気さ」が問われているのだと思う。本気さは「味わい」に変わり、来訪者の記憶に染み込んでいる。遠目に建物を見て社名が浮かぶかのように、Webサイトを見て社名が浮かぶ企業が増えている。ゆっくりかもしれないが、確実に。

限られた予算の中で、ありもので済ますモノ、作りこんで丁寧に包装して贈るモノ、その采配自体が企業戦略の現われだ。そのブランドのファンになってしまえば、力のかけどころを見るのも面白くなる。今度はそっちに力点を置くのかと、マニアックな応援もする。そんなコミュニケーションというか、関係性もWebを土台にしたものなのだと思う。

逆に言うと、そうした関係性が構築できないWebサイトは、本来の機能を充分には果たしていないとも言えるのだろう。リアルな掲示板(立て看板)と変わらない。看板に愛着を持ってくれる人は稀だろう。しかも、Webは無形のデジタル情報の塊だ。さわれない分、更に愛着が持ちにくい。でも、日々多くの、非常に多くの人の目に留まる。いわば、一等地に置かれている。

Webが機能を提供していることを考えると、立て看板というよりも自動販売機に近いかもしれない。視覚的に情報提供しているだけでなく、何かしらの商品提供もしている自動販売機。当たり前のように、街のいたるところに鎮座して、全く同じサービスを繰り返している。単体としての個性はなく、効率だけを重んじる。けれど、同じだからこその安心感を提供している。そして、最低限のマナーは守っている。失礼な商品の渡し方だと感じることは余りない。期待していないだけかもしれないけれど、操作方法に戸惑うことはままあっても、さして腹は立たない。

そう考えると、Webサイトの敵は自動販売機なのだ。精神的な意味での敵。自動販売機でできることしか実現できていないとしたら、そのサイトのサービスはかなり低い。技術的にもWeb屋の登場場面は少なく、CMS系パーッケージでことが済む。ユーザビリティ向上に精を出している自動販売機設計者には申し訳ないが、Webサイトがそれに負けてはいけない。断じて。そうやって競うところに、誇りが生まれる。

喜んで食事をしてもらおうという気持ちを忘れた飲食店の店員は、もはや敵ではない。「おもてなし」を論じるレベルでさえない。自動販売機に負けている店員さんはもう目じゃない。Webサイトはユーザのもっと遥か近くに行ける。自動販売機に負けてはいけない。作りこんでいるこの情報を贈られる人の気持ちを考え続けたなら先に進める。精進あるのみ。

以上。/mitsui