最近社外へ出る仕事が増えて電車に乗っている時間が長くなった。そのせいか嫌なシーンに出会うことも増えてきた。割り込み乗車。それも、初老の紳士や老夫婦のモノ。私が出会うモノの八割は若者のではない、人生を半分は消化した人達の愚行。
私自身は立っていることが多いのでどちらでも良いのだが、列から離れて立っていて、電車が来ると、さも列が目に入らないような装いで急いで入り込む、座りたいという気持ちは分からないでもないが、その姿が哀れに見える。
今までの人生の苦労がいかに賞賛されるものであっても、全部ドブに捨てているように映る。何か常識的なものを破って得をしているように見えて、実は多くを失っているような感じ。
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先日セミナーの会場で、名刺交換をしたくて列を作って待っていた。私の番が来て、自己紹介を始めた。その時、その相手の方の肩をちょんとたたいて、「久しぶり!」と話をしだした男が居た。
驚いた。その無礼さよりも、その男が数時間前に「インフォメーションアーキテクチャ(IA)」について御講義されていて、人間中心設計について語っていたことに、驚いた。よりによって「人間中心開発手法」。
肩をたたかれた方は、待っていた私(しかも私の後ろにも人が居た)に気遣いながら、早くその「旧知の仲」との会話を終わらせようとしてくれている。それに気付かずに人間中心設計論者は顔色ひとつ変えずに話し続けた。ため息以外出ようがない。
どんな高尚な話も、現実が伴っていないと哀れだ。複雑に入り組んだ情報の塊を解きほどき、分かり易い情報構築が出来たところで、目の前にいる人の列を無視する人の言葉にどんな説得力があろうか。
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これもあるセミナーの話。普段よりも多くのメディアが協賛しているセミナー。専属のカメラマンが入っているらしく、セッションが始まるたびに、カメラマンが動きだす。小さなデジカメではない。大きなレンズの付いたプロっぽい人。
でもプロじゃない。講演者の声が聞こえないほどシャッターを切る。素人も驚く。講演者の話が乗ってきたところで、前に進み出る。一番前の床に座り込み、連写する。約10秒、パシャパシャと音が響く。約一時間の講演で、3~4回。パシャパシャパシャ。会場中に響いていく。気にならないのは本人だけ。
このカメラマンは何を撮っているのだろう。講演者を撮りたければ別途やるべきではないか。会場の雰囲気をぶち壊しても気にせず撮り続ける。撮ってはカメラの裏の小さなモニターで何やら確認している。これほど数打たなきゃいけないカメラマンを見たのも初めてだった。
もっと驚いたことは、そのセミナーはケータイカメラによるモバログもやっていたのだが、担当者がケータイをかざしているその真ん前にいきなり滑る込むように入り込んでパシャパシャとやりだしたときだった。写真を撮る者との共有意識もない。
きっと、メディアに出すときには山ほどの「良い写真」があるのだろう。デジタルだから元手もかかっていない。撮るだけとって選んで消去すればよい。そして、その画像には、聴衆の不快な顔も講演者の迷惑そうな眉間のシワも映っていないだろう。でも参加者の記憶には残っている。そして、本当の会場の雰囲気ではないものがメディアに載る。写真が泣いているよ。
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自慢できる話ではないが、私自身もそれほど礼儀正しい訳ではない。人生の先輩方には色々と迷惑をかけたし、白い目で見られたことだってある。「若気の至り」が、他の人よりも少し長めの自覚もある。
そんな社会性の無さを横に置いて、自分の手がけるサイトだけはちゃんとしようと努力し、それで良いと思ってきた。どんな偉そうなセオリーよりも、自分たちの見たエンドユーザの利便性を何事も中心に進め、多少クライアントを無理やり説得しようとした時もあったかもしれない。
自分のエンドユーザに対するアンテナが錆びないように努力してきたし、驕り高ぶりには特に細心の注意を払ってきた。けれど、もしかしたらそんな熱意の部分がどんなに正しくても、間違った道で押し進めてはいなかったろうか。
先ほどのIA氏や自分の写真だけを撮ることに集中していたカメラマンの姿を見て考える。IA論やカメラの技術が如何に高かろうと、正論であっても、守るべきモラルを無視したが故に、聞き届けられなかった部分がはなかったのか。積み上げた何かを台無しにしたつまらない行為を私はしたことが無かったか。
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Web/IT企業の既存構造への挑戦が続いている。そこでは、その論ずるところが正しいかどうかすら取り上げられなくて、やり方だけがひたすら取り上げられているようにも見える。
想像もできない程の巨額の動く世界ではあっても、私でさえ「もう少しスジを通せばここまでモツレなかったのでは」と思わされる。既得権を持つ側の防衛方法も、少しえげつなさを帯びてきた。互いが一線を超えている。
正しいだけでも、今流だけでも、物事は進まないのかもしれない。あるいは、ここまでしないと現状を変えられないという、強行突破、まさに究極の閉塞感打破の方法しか、新しい者には残されていないのかもしれない。
それでも残されるシコリが気にかかる。観客として見つめている者はエンドユーザである。公開喧嘩の最中に、どう感じるかは大きくブランドに影響する。攻める側も守る側も、何かを失っているのではないのか。どうすれば良いのかなど案は浮かばないけれど、「これで良いのか」と違和感を感じる。
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疲れた社外打合せの帰り道、電車のドアに寄りかかっていると、私より一回り大きくタバコ臭く耳にはイヤホンをつけた若者が乗り込んで来た。タバコが苦手な私は、とっさに少し離た。彼も私に背を向けてドアに寄りかかる。
しばらくして電車が揺れて、バランスを崩した彼に足を踏まれた。即座に彼は振り向き、「すいません」と聞こえる声で頭を下げた。驚いた。そして気持ちが晴れた。新しいものと古いものとに接点はあるのだと。
アクセシビリティの話の後押しもあって、漸く、情報デザインやIAの話が話し易くなってきた。でも、まだ課題も多いし受け入れられてもいない。昔から活動している者にとっては、何を今さらという話でも、世間一般には初めて触れる方々も多い。新しい概念を、古いしきたりにも合わせて発信できたなら、浸透は促進されるのかもしれない。打てる手段があるなら未来は暗くない。
以上。/mitsui