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[088] 忘れてはいけない

ある雨の日、電車に乗っていると、五十台半ばの女性が大きなリュックを背負って乗り込んで来た。自分の横幅と同じ程の厚みのリュックを担ぎながら、文庫本を読み始める。リュックの中身は何かゴツゴツしたもので、電車が揺れるたびに私の背中を刺激する。リュックに付いた雨の雫が、接点を濡らして行く。

彼女の立場から見ると、何も落ち度はない。自分の荷物を自ら背負い、自分の趣味の本を読む。誰に迷惑をかけている訳でもない、と思っているだろう。でも、少し混み始めた車内で隣に立つ者には違う。体の部分の密集度と足元のそれには差がある。せめて、荷物は降ろして欲しい。

多分一言声をかければ、大人の対応をしてくれる予感があったが、黙っていた。なんとなく、荷物を降ろせとは言い辛い。自分の背負っているものを、どこに置こうがその人の勝手かと、隣に偶然居合わせたのが不運だと、勝手に諦める。

Web屋として生きていく上での問題を幾つか書き綴ってきた。どの問題も、基本的には人と人との接点の話だ。クライアントと開発者、エンドユーザと開発者、デザイナとエンジニア、仕切る者と仕切られる者。

左右に「人」を置き、真ん中に「情報」を置く。左から右に、それを流す。右から左にそれを流す。そんなやり取りを机上でシミュレーションして、左右両者にとって「良い状態」を作り出そうとする。

Web屋の仕事の本質がそんなところにあるのだから、人との接点にどうしたって焦点があたる。画家が画材を熟知して絵を描き上げるように、Web屋は人を知ろうと努力する。そして知りたい対象は、「人は何ぞや」だけに留まらず、「どういった関係が望ましいか」に及ぶ。それをデザインするのだから。

勿論、望ましい関係に唯一の解がある訳じゃない。想定するユーザや状況や、扱う情報によっても様々だ。そういった制約事項の中で「よりよいもの」を求めて思索を重ねる。その過程が辛くも楽しい。

けれど、自分達のアウトプットとエンドユーザの関係には貪欲に取り組めても、自分達と直接接点のある「関係」のデザインには無頓着な場合が多い。諦めるケースも多い。そんな大人気ないことを言うなと諦め、常識知らずと言われるのが怖くて諦める。既存にない情報提供や関係構築が仕事なのに。

関係改善を諦めた時に、決まって頭の中に流れる曲がある。中島みゆきの「忘れてはいけない」。同じ歌詞が何度も繰り返される、「忘れてはいけないことが必ずある 口に出すことができない人生でも」。

Web屋にとって忘れてはいけないこと、それは何だろう。私にとって忘れてはいけないこと、それは何だろう。その軸足をそらした時点で、自分がWeb屋ではない別のモノになる境界線。私の仕事と後になっても分かる部分とは。

何度か、自分なりのWeb論みたいな話をするチャンスを頂いた。その度に色々と語るのだが、語り終わっても、少し語りつくせなかったという感覚が残る。何時間もの時間枠を頂いても。

先日は、セミナー自体が終わってから参加してくれた人が居て、参加できなかったことを残念がるので、一言で要約した。「システムだけでなく、人間のことも考えましょうよ、としか言っていませんよ」。クライアントと絡む製作過程においても、組織内の役割分担においても、それが要だ。もっと、よい関係でプロジェクトを進める方法があるのではないかと、問題提起だけをしているのかもしれない。

そこに、何かを諦めたくない、何かを忘れてはいけないとする自分が居る。そして同時に、実際の現場では何かを諦めている自分がいる。言いたい言葉を飲み込んでいる自分が居る。語るようには生きてはいない。そこに歯切れの悪さの原因があるのかもしれない。

NHKの「プロジェクトX」の決して諦めない姿に感動しつつ、毎日の仕事は単純なルーチンワークに満足してしまいがちな自分。自分なりのWeb業界分析等を話しながら自己矛盾に気が付かされる。

理想論に近づこうよと語りながら、改善の進捗が遅いと苛立っているのかもしれない。普通の時間帯に寝起きするという、人間らしい生活をしながら、Webの業界に携わっていたいと願っているだけなのに、それすら果たせない。

でも、改善策を練りながら、これ位頑張っているんだから未だ良い方じゃないかとか考えたりもする。疲れが溜まると、よしよしと自分の頭を撫でたくなる。

そんな時、やはり一つの詩が頭に浮かぶ。最後まで言葉を噛みしめていくと、いつもガツンと頭を殴られたような感覚が残り、頑張る気力が沸いてくる。

「自分の感受性くらい」 茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「自分の感受性くらい」茨木 のり子 / 花神社 / ISBN:4760214038(1977/03)

荷物を背負い込んだオバさんに言葉を飲み込んだ自分も、何かを変に背負い込んでいるのかもしれない。社会常識という言葉に近い何かを。ちょっと気を利かせて、荷物を下ろせば、周りの人も自分も楽になれるのに。言い訳しながら、何かを背負い込み続けているのかもしれない。「ばかもの」に成り下がる前に、まだやれることがある。

以上。/mitsui